• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:現代における審美の可能性)

現代における審美の可能性とは?

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.16

 No.2&6&9です。  §1 《個々の審美の基準》と《全体の問題として》とのかかわりについて  次のお考えに接してその視点を考慮に入れていなかったと知りました。  ★(No.15お礼欄) 人間の歴史があり、また人の生きた経験があれば、審美は自ずと存在するということになるでしょうね。ただし、その個々の審美の基準が全体の問題として議論可能な時代は、過ぎ去ったのでしょうか。それともまだあるのでしょうか。  ☆ 言いかえますと  ★(趣旨説明)現代において「審美」とはいかにして可能か。  ☆ という問いを あくまで《鑑賞者としての個人にとって》とのみ捉えていたからです。  もっともそれを この個人どうしが集まってあくまで個人の審美行為としてのみ談義することは可能です。これまで述べたわたしの考え方は そこまでなら通用します。  ですが  ★ その個々の審美の基準が≫全体の問題として≪議論可能〔かどうか〕  ☆ この《全体の問題として》というのがはっきりしなくなりました。  いわゆるコモンセンスないし共同主観のことを言うのでしょうか? あるいはさらに旧く成っても出回っている共同観念ないし共同幻想をも含めて ということでしょうか?  あるいはそうではなく――なぜなら その共同主観はおそらく協議の結果だったりするのでしょうから―― そもそも個人ごとの審美の基準がそれぞれ違っているはずだという命題を打ちだそうとお考えなのでしょうか?  でももし たとえば宗教画についてその時代に《それぞれ審美の基準を持つ個人個人が互いに集まって話し合い 全体の問題として諸作品のあいだの優劣を決めた》と見た場合 この場合でもけっきょく一人の人の審美基準は他の人とは違っていたと言えるはずです。  言いかえると――やや単純になりますが―― 個人がそれぞれ独立した審美家であることは どの時代でも変わらない。変わらないが その意見の集約の仕方が違って来た。また 現代ではこの集約という作業や話し合いじたいがなくなったのだ。こういうことでしょうか? (意見の交換はするが それは言わばグループごとに閉じた範囲でおこなわれるということでしょうか?)  それ以上は 事情に疎いです。    §2 あえて今 《真善美の一致》という主題について  大きく申せばわたくしの場合 主観を基礎および原点に据えるのですから 一方で 審美の基準は人それぞれであるというのは そのまま含みとしてそのとおりです。しかももう一方で 人の共通感覚なる仮説にもとづくなら 傾向として美は《全体の問題として》或る程度まとまるのではないかとも考えます。  人気投票として決まる美人がいくつかの類型を擁する幅をもって決まるのと同じように 美も幅をもってながら或る程度は収れんすると考えます。  その程度ですが そのように傾向として決まったと思われるような美(美群)は その美をめぐる個人の志向性として・またはその美じたいが指向するその先の何ものかとして おそらく人びとの黙契としてはたらくような善悪判断にかかる善と一致すると見ます。  そしてこれらの美と善とは その時代時代にそれなりの内容説明をつけられるであろうと思われますから それが人間の真実としての(相対的な)真だと思います。  さらにこれら経験的な美と善と真とは おそらく非経験の(したがって人間にとっては 非思考の)真理を志向しているものと思います。  人間にとっての《現実》は 経験世界における《事実》とそれをめぐる人間の事実認識としての《真実》と そしてこれらの経験世界を超えたところをも想定しておくというその《非思考》としての真実――認識しえないことの真実―― これらの《事実と真実》を含むと捉えます。  《美》は 見た目ということであればそれとしてのほんの一片の知覚であり しかもヒラメキとしてなら認識し得ない真実として非思考の庭がわが心に成るという意味での真理(したがって ほとんど まぼろし)に近い直感であるとも見ています。  このことをも――ただしこれは ほとんど論証のむつかしいことだと思いますが――いま述べて進めることとしました。    §3 ロマン主義について    これもいま取り上げました。思潮としてなら多少は分かりますが その美術論なり美学なりとしては推測としてしか分かりません。前もってお伝えしたほうがと思いました。  【Q:ロマン主義について】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5124232.html  わたしは投稿者となっていますが そこで勉強したというのが実態です。サイコロさんなら この主題をさらにここで追究する質問者になっていただけるのではないかと思いました。でもいまは 別の主題です。

noname#130919
質問者

お礼

お返事が遅れていてすみません。一人一人にお礼をと思った結果、複数投稿してくださったブラジュロンヌさんの回答は、後に回させてもらったのでした。 複数の集団間において美意識が共有されているということは、まぁ幻想共同体(ベネディクト・アンダーソン)というタームを使ってもいいのですが、私はそこまでのことは意図していません。古典主義の頃に流派が形成されていたという程度のイメージです。 流派という言葉は、おそらく現代においては、茶道などの伝統芸能を除いては、考えられなくなったでしょう。今では、その芸術家も、その当人が始祖でなければならなくなりました。ゴッホが好きだと言ったところで、ゴッホと同じことをやるわけにはいかず、インスピレーションを受けて違うことをやらないと評価されないでしょう。こうなると職人はどうなるのだということになりますが、実際、冷遇されていますね。私はこの風潮は問題だと思います。しかし、これは作り手だけの問題ではなく、受け手の問題でもあると言えます。 美とは何なのでしょう。結局、美とはわからないもので、コンセンサスを作っても仕方ないという以上に、美も醜も見分けがつかなくなってしまいました。あるものが、どういう理由によって美であるか醜かは、精密に判断できなくなってきたのです。そして判断できないものだというコンセンサスが、広がっているとも言えるかもしれません。この証拠に、現代において評論というものがあまり大きな力を持たないでしょう。とある美術評論家の評論が広く読まれ、支持されたり、剽窃されて流布したりすることがないでしょう。 真善美に関してですが、何を真理と判断しえるかは、人それぞれですし、難しいことです。資料を集めて分析しない限り納得しない人もいれば(私のことです)、直感と重なる意見があれば、それを真理だと判断する人もいます。 異性が美しいか、好ましいかを判断するという例は、面白い例ですね。私個人は、それを多分に先験的な要素で判断していていると、顧みればいうべきかもしれません。その先験的判断が何に由来するのかはわかりません。遺伝子的なものか、神的なインスピレーションなのか。こうした判断が世にいう美人の判断基準と違うこともあります。こういうときに、自分の考えと集団間の考えが違うのだなとギャップを感じます。 ロマン主義は、私がレッテルを一方的に貼った形となってしまったということですね。また考えておきます。

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