• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:自分とは何者なのか?の疑問について。)

自分とは何者か?~自己の本質を探求する疑問~

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.12

 こんにちは。  質問のご趣旨がつかめないという感じを残してですが まづ次のように問い返します。  ★ 「自分とは何者か?」という疑問には言葉でこたえることは絶対不可能という結論に達しました。  ☆ という《何者》なのではないですか? こたえがそういうかたちで出ているのではないでしょうか?  というのも――どういうわけか―― おっしゃるように言葉による表現 これを介してわたしたち人間は自分でも思惟を重ね ほかの人ともやり取りをするという成り立ちに発しそのままをいまも人間どうしの交通の仕組みとしているからです。  《我れに還る》ということがあります。わがマチガイに気づくときです。大きなアヤマチをしたと気づいたときには 変な言い方ですが それにふさわしく《おおきな我れに還る》。  このようにむろん 所詮は主観としての主観内面でのしかもただ言葉を介しての《自己の自覚でありその自己への到来であり また還帰である》のでしょう。この主観内面における自己の問い求めという過程を ひとはさまざまに通って言わば巡礼の旅路をあゆみゆく存在であるようです。  ところが 巡礼の箇所を全部まわったとしても あるいはそれを何回積み重ねたとしても定まったおのれが いわゆる客観的に明らかになるかと言えば なかなかむつかしいことのようです。  とうぜんのことながら 経験的な存在とは 相対的な存在です。すべては移りゆく・うつろいゆく世界であり わが存在も動態であると覚悟しなければなりません。  あとは 確信です。これに尽きます。  《我れに還った〈わたし〉》が 探していた自己なのです。しかも動態です。  《われ考える ゆえにわれあり》というそのコギト(思考)は 《あやまつなら われあり》というときのその《あやまちをおかしたと気づくにあたっての思考》を言っています。  このときの我れは 誰かがこう言ったとしても・つまり《なるほどおまえは我れに還ったのかも知れない。だが その我れなる自己は どうして人びとから見ても客観的なる存在としての自己であると分かるのか? ただの自己満足にしか過ぎないのではないか?》と言ったとしても そのことによって欺かれることはないのです。まして他人にそのことをおしつけてはいないし おしつけようなどと思っているわけではない。確信のもんだいに尽きるかたちになります。  考えるに そのようなあいまいな表現を許容している交通の仕組みであるほうが 何かと便利なのではないですか? きわめて柔軟なまた自由な表現ができるはずです。むろん うそつきがときに横行するという別の便利さも持ち合わせておりますが。  つまるところは おのれのついたウソ これに気づくとき 我れはある。これです。  * もうひとこと:もっともわたくしなるものは きわめて人びとにも合っている存在の要素であるようです。(だから他方では わたしは神を見たというほら吹きが絶えませんが)。

cwb222
質問者

補足

皆様ご回答誠にありがとうございます。bragelonne様、問い返しということでありましたので、私から回答させて頂きます。  ★ 「自分とは何者か?」という疑問には言葉でこたえることは絶対不可能という結論に達しました。  ☆ という《何者》なのではないですか? こたえがそういうかたちで出ているのではないでしょうか? 自分が何者か?と問う自分こそ、自分ではないか?ということでありましたが、その問うてる自分を認識しているのは誰でしょうか?それはまたしても自分の主体です。ではそう認識しているのは誰?・・・と考えてゆくと、無限に自分を分割してしまい、自分全体は何なのか?と捉えることは不可能だと思います。 それはさておき、貴方のご回答は論理だけでなく、感覚的な部分も言及されているので、新たな視点だと思います。多くの示唆を与えられています。ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 私は私にとって何者?

    私は私にとって何者であるか この疑問がわかりません。 自分なりに考えたところまで述べさせていただきます。 私という存在は、他者に対しては、その都度の役割的ペルソナとして規定されています。(「親に対して私は息子」「医者に対して私は患者」など)でも、私は私に対して役柄的に関わるものでないですよね?では私は私にとって何者なのだろうと疑問に至りました。 私は哲学というものをそれほど勉強したことがないのですが、デカルトやフッサールがこの事を研究したことは知っております。 彼らの考えを絡めてこの疑問のご回答お願いします。

  • 「我思う」なら思う何か(実体)が存在するのでは?

    「我思う故に我あり」は今日的には正しい命題と考えられていないことを教えていただきました。そこで疑問に思うことがありまして質問させていただきます。 私が思うには「思う」だけが単独では存在することは不可能だと思います。 思考があるなら、思考している主体があり、それは何らかの実体を伴っているのだと思います。 (ここでいう主体や実体は哲学用語ではなく、通常の日本語としての用法です) 思考を成立させるための何らかの装置(脳とかCPUとか)が必要ではないでしょうか? これは違っていますでしょうか? 確かに思っている実体が「我」すなわちデカルト自身であるとは限らないと思います。 デカルトの人生の夢をみている他人かもしれませんし、バーチャルマシーンでデカルトの人生を追体験している異星人かもしれません。あるは培養タンクの中の脳かもしれません。 しかし、そこには必ず思考の主体が存在すると思うのです。そしてそれは実体をともなっている。おそらく最終的には物質にまでたどり着くと思います。 思っている時、それが「我」である保証はありませんが、(おそらく物質から構成される)何か実体が存在することは確実だと思うのですがいかがでしょうか?

  • 純粋理性批判(Q7)

    純粋理性批判(Q7) 「空間と時間という直観の形式によって(よるのだから)、客体は物自体ではなく現象として認識される」として、あくまで例としてですが、 「我思うゆえに我あり」の、「我(思う)」が認識の主体で「我(あり)」が現象と言えると思われます。 この場合、デカルトは(よく知りませんが)どちらも同じ「我」と考えていたことになるのか、という気もしますが、それはさておき、 「認識主体としての我」と「現象としての我」についてカントは何か述べているでしょうか。 いるとすれば、その概略を教えていただけないでしょうか。 それとも「我」という概念には、物自体・現象という基準を適用させてはいないのでしょうか。 前提に間違いがございましたら、それもご指摘いただけるとありがたいと思います。     

  • なぜ自分を変えるのが難しいのか?

    なぜ自分を変えるのが難しいのか? 私は「自分」の思考パターンを変えたい。 それを意識しているうちに少しずつ変わっているような。。。 例えば、他者からの評価が、自己側の客観視、に直結した思考パターン。 こういう人は多いでしょう? 私も含め。。。 (これは良くない思考パターンで、真の客観性ではない)

  • 自分探しと自我の確立

    私は洗礼を受けたばかりのクリスチャンなのですが、信仰に疑問を持ち、理屈っぽいキリスト教批判をして、牧師に相談しました。 もらった答えが「デカルトの発見した近代自我の常道であるところの自己から出発する思考は、どんなに突き進んでも信仰にいたらず、自分探しに終始します。救いを信じることから始めましょう」というものでした。 しかし私には、自我を超えて信じることも難しい上に、デカルトの「我思うゆえに我あり」さえも、それを前提にして、倫理や価値を見出していく自我を確立できずにいます。 生まれてから何十年間も、親や妻、周囲の倫理、価値を借りて生きてきたことに気づきました。親と絶縁後、昨年妻が亡くなり、しばらく時間を経て、気づくと道しるべを失ったように思います。日本人として、西洋における近代的自我さえ獲得できていなかったのでは、とも思います。 そういう悩みを哲学した方はいないでしょうか。何かこれから生きていくためのヒントを探しています。

  • 美学は崩壊したのか?

    ヘーゲルのカント批判を読んでいるのですが、ロマン芸術の時点で「美学」は崩壊してしまったらしいのです。 エゴイズムを最も崇高する芸術の上で、主体と客体の一致はありえないから、という理由らしいです。 つまり芸術は感じるものだという結論? そこであえて質問なのですが、現代には「美学」というものはないのでしょうか? 現代の「美学」というものがあるとすればどのような定義なのでしょうか? 参考になる文庫などありましたら教えてください。

  • どうでもいいような疑問ですが、少しお付き合い願います。 

    ふと疑問に思いましたので質問させてもらいます。 どこかで 『20代を遊んで過ごす人は、将来苦労する(仕事、金銭面等により)』 と聞いたことがあります。 この言葉についてです。 この『20代を遊んで過ごす人』とは、皆さんはどの様な程度の事をいうものなのだと思いますか。 この言葉が正しい、正しくない等の答えはとりあえず求めません。 又私が実際に言われたものでもありません。 その人が遊んでいると思えば遊んでいる、真面目だと思えば真面目、 とそれで終わってしまうものなのかも知れませんが、 なるべく客観的な視点での様々な考えを聞いてみたいです。  自分は真面目なつもりだが、客観的に見たら遊んでいる側に入るのかも しれないと少し疑問に思いましたので、質問させていただきます。 様々な考え、お待ちしております。 カテ違いでしたら申し訳ありません。意味不明でしたらスルーして下さい。 長々と乱文失礼致しました。                           うっきー(23)

  • 絶対的な無について

    (qa3867782『無は存在しますか?』 に関連して、焦点を絞り込んで質問し直すことにしたが、絞り込まれたものは以下の問題に集約されると思われる。) ≪(唯物論者について)彼らは、 「死んだら無になるんだ。…あぁ恐ろしい」 と言うのです。ここには、無になるなら恐ろしいも何も無い筈ではないかという疑問の他に、それ以前にその無は有り得ないんじゃないか、という考えがあるのです。 彼らの言う「無」とは、何でしょうか? 何かの事象に付帯する状態の表現としての無でしょうか? 私にはそれは、意識の完全な無、つまり絶対無であると思われるのです。 つまりこういう事です。意識の有無は客体から見れば、或る意識に付帯する状態としての有無と言え、それは有る。 しかし、主体的意識にとっては、それは絶対無ではないか。 客体の捉えたものが真なのか。 主体の世界が真なのか。 主体の目線から考えるなら、形而上学的な絶対無について考えるしかない、そんな風に思われるのです。≫ 絶対無があるという事になれば、「死んだら無になる」は可能となる。 絶対無が無いなら、「死んだら無になる」事が出来ない。というより意識の無限が論証されてしまう。 それとも、やはり客体の視点しか存在しないのか? 「自分のことは自分が一番分かる」のか。 「他人が見てしか分からない事がある」のか。 そこで質問内容は結局2点以下に絞り切れなかった。 客体が見る事象であるところの意識の状態の有無しか存在しないのか? 主体的意識があるとして、それの無は絶対無であるが、絶対無は有るのか? いろいろ込み入って参りましたが、付き合って下さる方、どうかよろしくお願いします。

  • デカルト I think threfore...

    デカルトの「我思う、故に我あり」という言葉に関して疑問があります。 英語のプレゼンを観ており、そこで話者が引用してデカルトの英訳 "I think, therefore I am" と述べたのですが、そのときの和訳が、「私たちは考えるために存在する」とありました。 そこで質問なのですが、デカルトは「考えている」だから「自分がいるという確証はもてる」という意味で使っているように思うのですが、上の文のように「考えるために」というような狭義な解釈もできるのでしょうか。つまり、大げさに言えば「何かを考えさせるために、人は作られた」とも解釈できるのでしょうか。 実際、前後の話を聞く限り「私たちは考えるために存在する」と訳したほうが辻褄があいそうでしたので、訳自体は間違ってなかったと思います。

  • デカルトのコギトはどこが独自性なのか

     アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り( Si fallor, sum. )》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り( Je pense. donc je suis. )》を導き出したことには 独自性があると パスカルが議論しています。  ● (パスカル:デカルトのコギトについて)~~~~  わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。  (パスカル:《幾何学の精神について》2. 1657)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしている。  アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。  ◆ (アウグスティヌス:あやまつならば・・・) ~~~~  だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。  ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。  精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。   ☆(ぶらじゅろんぬ註) 念のために この点についてのデカルトの文章です。――   ▼ (デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想  がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ  うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは  いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り  きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ  る と仮想しようと決心した。   (方法序説 4)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。  さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。   ☆ この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考    する能力を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。  だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・  さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(*あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。  或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。  それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(*または《われ》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・   (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文のあとつづけて デカルトが:  ▼(デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そうするとただちに 私は気づいた 私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・  (方法序説 2)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  と書いたことは よく知られているところである。  これらに対してパスカルは このアウグスティヌスからのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。  ● (パスカル) ~~~~~~~~~~  デカルトがこの偉大な聖者(アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。・・・  なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。  (パスカル:幾何学の精神について 2)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことばを《偶然に言った》と述べて けなしているのですが 大目に見ておきましょう。  《あやまつなら われあり》というとき あやまちに気づいたわたしは とうぜん そのことを 振り返って 考えます。原因について。相手や情況について。等々。その考える主体は あやまちに気づいて いわば我れに還った我れであるのですから そこの部分だけを取り出せば 《考えるとき われあり》となるはずです。  デカルトのコギトに独自性はあるのか?