私が思うには「思う」だけが単独では存在することは不可能だと思います。

このQ&Aのポイント
  • 私が思うには「思う」だけが単独では存在することは不可能だと思います。
  • 思考があるなら、思考している主体があり、それは何らかの実体を伴っているのだと思います。
  • 思っている時、それが「我」である保証はありませんが、(おそらく物質から構成される)何か実体が存在することは確実だと思うのですがいかがでしょうか?
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「我思う」なら思う何か(実体)が存在するのでは?

「我思う故に我あり」は今日的には正しい命題と考えられていないことを教えていただきました。そこで疑問に思うことがありまして質問させていただきます。 私が思うには「思う」だけが単独では存在することは不可能だと思います。 思考があるなら、思考している主体があり、それは何らかの実体を伴っているのだと思います。 (ここでいう主体や実体は哲学用語ではなく、通常の日本語としての用法です) 思考を成立させるための何らかの装置(脳とかCPUとか)が必要ではないでしょうか? これは違っていますでしょうか? 確かに思っている実体が「我」すなわちデカルト自身であるとは限らないと思います。 デカルトの人生の夢をみている他人かもしれませんし、バーチャルマシーンでデカルトの人生を追体験している異星人かもしれません。あるは培養タンクの中の脳かもしれません。 しかし、そこには必ず思考の主体が存在すると思うのです。そしてそれは実体をともなっている。おそらく最終的には物質にまでたどり着くと思います。 思っている時、それが「我」である保証はありませんが、(おそらく物質から構成される)何か実体が存在することは確実だと思うのですがいかがでしょうか?

  • stmim
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  • shiren2
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回答No.6

思っている「何か」と観測している「何か」が同一である保証はありませんが、その二つが存在することは確かです。 あなたの考えの通り、それが「我」である保証はありませんし、「我」の定義自体が曖昧ですが。 インドでは「我」という感覚を持つ主体をアハンカーラと呼んでいますが、 それはつまり、特別な名前をつけて他とは区別しているということです。 アハンカーラがイコール自分ということではなく、 あくまでも「そういう感覚を持っている(=そういう感覚を生じさせる、または生じている)何か」をアハンカーラと呼んでいます。 まとめると、思っている何か、観測している何か、我という感覚を生じさせている何か の三者が少なくとも存在しており、いくつかは同一の存在である可能性がある、ということですね。 参考までに。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 インドの話は難しそうですね。そうした三者を区別して考えているとは驚きです。自分だとまとめてしまって区別できそうにないです。 それだけ「我」という概念はやっかいな面をもっているということですね。

その他の回答 (8)

  • sunabo
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回答No.9

たしかにno.8の回答は意味が分かりません。 読み返してもっと考えます。 問いは 我思う。ゆえに、実体あり。ただしいか? 我と実体に分ける。 ゆえにでつなぐ。 という2つが引っかかりポイントです。 回答は3つ。 1つ目。我思う。実体がある。2つの両方が同時に成立しない。 どちらか片方が成立すると、もう片方が成立しない。 我思う。と実体がある。を連続に行ったり来たりする。 夜寝て、実体がある。朝起きて、我思う。 なにが行ったり来たりするのか分かりません。 我思う。だけだと独我論でさびしい。 実体はある。だけだと汎神論でさびしい。 中間のいいかんじがあるといいな。 2つ目。実体は思う。 ウィリアム・ジェイムズが “It thinks” と表現したそうです。 日本語にすると、実体は思う。です。 どのように正しいかというと、 実体と我とありと思うとゆえにの5個を考えなければならない。 実体は思う。 だと2個で済みます。 簡単です。 シンプルなやつほど強い。 http://www5b.biglobe.ne.jp/~hatigoro/REVIEWS%20on%20WJ-sje11.html 上記を参照しました。1つ目と3つ目の答えを正しく思うことと、問いに引きずられて 誤読の可能性があります。 我思う。ゆえに、実体あり。を支持してるかもしれません。 3つ目。実体がある。ゆえに、我思う。 実体をコピーすれば、我思うがコピーできます。 人の原子配置を完璧にコピーすれば、我思うがコピーできます。 のび太くんが、どこでもドアを使ったとき、 元の場所にのび太くんが残って、 のび太くんが2人に増えたとき のび太くん両方に聞くと我思うが分かったとして。 その場合は、 実体がある。ゆえに、我思う。が分かります。 http://yureisoul.blog49.fc2.com/blog-entry-50.html ダグラス・ホフスタッターのメタマジックゲームの第25章 動玉箱の中ではなにがなのを? でそんなようなことっぽいことを書いています。 我思う。ゆえに、実体あり。 実体無し。ゆえに、我思わない。 我思わない。ゆえに、実体無し の組み合わせは分かりません。 ループ、再帰性、動的平衡。

参考URL:
http://www.ac.auone-net.jp/~oknehira/MetamagicalThemas.htm
stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 いろいろ書いていただいて申し訳ないですが私がお聞きしたい答えではないです。

  • sunabo
  • ベストアンサー率35% (24/67)
回答No.8

我思う。 実体がある。 上記2つの両方が同時に成立しないような気がします。 どちらか片方が成立すると、もう片方が成立しないような気がします。 制約と誓約。 制約                okwaveの解答欄に 横47文字縦の行数は分かりません。 使える文字は日本語の ひらがな、句読点、スペース、改行、2136字が常用漢字として制定されている。そのうち教育漢字は1006字日本における漢字 - Wikipedia 誓約 左から右へ、端まで言ったら次の行。 文字の組み合わせから、単語。単語と文字の組み合わせで文。 文の意味を作る文法。 日本語を使う。 われ思う。ゆえに、われあり。 改行を考えないで、数字から縦に時間の順序を読み取っていただきたい。 1わ 2われ 3われ思 4われ思う 5われ思う。 5単位の時間が流れる。文が終わる。1文単位の時間が流れた。 6ゆ 7ゆえ 8ゆえに 9ゆえに、 4単位の時間が流れる。単語が成立。1文単位の時間が流れた。 論理関係が見える。この後の文は前の文と因果関係がある。 思うが因で、この後の文が果。 10わ 11われ 12われあ 13われあり 14われあり。 5単位の時間が流れる。文が終わる。1文単位の時間が流れた。 われ思う。ゆえに、われあり。を一塊の意味としてみることができる。 われ思う。とゆえに、とわれあり。が同時に成立する。 3文単位の時間が流れていると見ることができる。 同時成立と3文単位の時間の流れが矛盾するような気がする。 私には、われ思う。ゆえに、われあった。が正しくおもわれる。 われあり。にたどりつくことが難しい。 思わないときにわれあり。かもしれない。 上記1行のように書くことは、すでに、書いているので、思われたことで、 われあり。にたどりつかない。 もしも、私がアシュラマンであったなら。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%B3 3つの顔(怒り、笑い、冷血)で同時に、言い始め、同時に言い終わってみる。 1 怒り わ  1 笑い ゆ 1 冷血 わ 2 怒り われ  2 笑い ゆえ 2 冷血 われ 3 怒り われ思  3 笑い ゆえ(1回休み) 3 冷血 われあ 4 怒り われ思う  4 笑い ゆえに 4 冷血 われあり 5 怒り われ思う。  5 笑い ゆえに、 5 冷血 われあり。 われ思う。ゆえに、われあり。が一塊に時間の順序と意味が両方成立。 われあり。にたどり着く。 okwaveに書いてる人と読む人がいる。 okwaveと書いてる人と読む人の3つの実体が要る。 2つに分ける発明をした。同時に2つの間に関係okwaveができた。 思うが無いとき頭の中は1本の線のような感じ。たぶん連続。 思うがあるとき、1本の線は、今で切られて、過去と未来と、切断点の今になる。 過去は文字単位、単語単位、文単位、意味単位で切れて離散的。 われ思う。実体がある。 対偶。 実体が無い。われ思わない。 実体がある。われ思う 実体が無い。われ思う 実体がある。われ思わない 実体が無い。われ思わない 実体が無い。われ思わない。を示すのは難しい。 そう囁くのよ私のゴーストが。 実体がある。われ思わない。は正しいっぽい。 石は思わない。 石は実体がある。石は思わない。 対偶。 石は思う。石は実体が無い。 石(シリコンチップ)は実体がある。石(シリコンチップ)は思う。はありかもしれない。 シンギュラリティ。 わかりません。 がんばりましたが回答できませんでした。 ごめんなさい。

参考URL:
http://matome.naver.jp/odai/2129964977043486801
stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ただ回答の意味がよくわかりませんでした。

  • yuniko99
  • ベストアンサー率15% (31/204)
回答No.7

我思う 我在り。 哲学者が理屈をこね出したらしまいにはアキレスは亀に追いつけないとか 訳の分からないパラドックスができます そんな事をやっているうちに世界の思想は混乱し、資本主義に翻弄され 多くの人が犠牲になっています。 我思う故に精神有り これでいいのです。 思うのは精神です 理性を持つのも精神です 精神は実在する性質の塊です 性質は物質と共に必ずあるものです。 ですから脳内の様々な物質が複雑に反応しながら 秩序も持って働くことで それに伴う精神が実現しているのです。 そういう事は分かる人にはもう分かっているのです それを捏ねくり回すから何の結論も出ずに人間は苦しんだままです 資本主義を修正するのも戦争をなくすのも精神です。人間存在の事です 人間存在とは精神の事です。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 私は理屈をこねくり回すのが哲学だと思います。 理屈をこねたあげく、やっぱりよくわかっていなかったんだなと思い知る、それが哲学かと。 きまった方向に考えを展開するのは、哲学と言うより思想ではないでしょうか? 精神は重要と思いますが・・・ 本当に確実なものは何か?という問いからは少しはずれているように思います。 精神は不思議です。 精神とは何か多分100年後にはもっとわかっていることでしょう。 精神とは何か?が解明されるのは楽しみです。

回答No.5

 外山慈比古さんの本を読んでいたら、  「最近、「考える」ということを本格的に考えて、知性を超える理性というものを明らかにしたいと考えました。」  というところがあって、知性と理性は違うのかと思わされました。(悟性とかもありますね。) 回答はわかりませんが、培養タンクの中の脳でこの違いをどうとらえるのか、疑問も感じます。今後も考えていきますが、「人間は性質である。」という時の、これらの性質の違いは何なのか?ということは、興味深いところです。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 知性と理性ですか・・・似てますね。 知性だと知識とか教養があるという感じがしますし、理性だと合理的な思考能力がある、分別能力があるという感じでしょうか。重なる部分もあると思います。

  • koosaka
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回答No.4

それも同じくカントが批判して否定しました。 デカルトは心が実体、身体が実体、といういわゆる心身二元論を唱えたことで知られています。 そのデカルトの心が実体という説と、古代ギリシャのプラトンの魂が実体的に存在し、魂は永遠不滅で不死であるという説を「純粋理性批判」の弁証論の「実体論的誤謬推理の批判」で、完膚なきまでに論破し、このカントのに批判以降、「実体」という言葉は哲学では使われなくなりました。 実体という言葉は、古代ギリシャから、近世のデカルト・スピノザ・ライプニッツと盛んに使われてきましたが、カントをもって終止符を打たれ、以後誰も使う人はいなくなりました。 では、カントがどのようにしてそれが誤謬推理と言ったのか、以下、説明します。 カントはデカルトが、心を実体と考えたのは、以下のような三段論法に基づく推論によるものだったと言っています。 大前提・・・主語としてしか考えられないものは、また基体としてしか存在しない(主語=基体)、したがってそれは実体である。 小前提・・・ところで思惟する存在者は、それだけとしてみれば作用する主体(自我)、すなわち実体としてしか考えられない(自我は主語である)。 結論・・・・ゆえに、思惟する存在者はまた主観(自我)、すなわち実体としてしか考えられない。よって、自我は基体=実体である。 これは西欧語のSubjectに主語・基体・実体・主観(主体)という多様な意味のあることを利用した誤謬推理に基づくもので、カントによれば、主語としての自我は思惟だけで無条件に与えられるが、基体とか実体はそうではなく、直観がいる、と言います。 したがって、大前提は間違いなのです。 その間違いから結論として自我を基体=実体とする誤謬推理が導き出されている、と言っています。 カントの批判は以上ですが、ちょっと難しいかもしれません。 簡単にいうと、以下のようになります。 大前提・・・私は主語である。 小前提・・・主語はまた実体でもある。 結論・・・・よって私は実体である。 上の「私」に自我とか、心を代入してみてください。 今度は、どこに間違いがあるか、明瞭ですね? そうです、小前提が間違いです。 アリストテレスも、「文法で主語に置かれたものが実体である」と言って、主語と実体を同一視しました。 デカルトも「われ思う」と言った時、その「われ」を実体と勘違いしました。 一般的に言って、私たち何ものかを主語に置いて語ると、そのものが実体と勘違いする傾向があります。 たとえば「時間は・・」とか「こころは・・」とか「自我は・・」とか、「私は・・」とか、語るとその主語を実体的に存在するものと錯覚します。 デカルトも錯覚しました。 デカルトは意識作用の主体を実体=基体と同一視し、心を実体と考えましたが、私たちは「私とは何か?」と考えると、直ちにその「私」は対象化され、客観化され、そしてフィヒテや西田のように対象化される以前に根源としての「私」があるはずだという誘惑に駆られます。 西田の「純粋経験」のように。 しかしカントはその誘惑には駆られませんでした。 カントは根源など存在しないと考え、それを「仮象」だと考えていました。 ここであなたの質問を考えてみましょう。 「私が思うには、思うことが単独で存在することは不可能だと思います」 ・・・・確かにその通りです。 「思考があるなら、思考している主体があり・・・」 ・・・確かにその通りです。 「・・・それは何らかの実体を伴って対るはずです」 ・・・・どうしてですか?何らかの実体が伴う必要はないと思います。なぜって、思考は脳の活動の「機能」なのですから、実体ではありません。 「思考を成立させるための何らかの装置(脳とかCPU)が必要ではないでしょうか?」 ・・・確かに脳は物理的存在ですから、心とか自我は何らかの物理的存在に依存していることは確かだとしても、心とか自我は物理的に還元できるものではなく、それとは相対的に独立したものです。 チャーマーズは「意識する心」でそう言っています。 「確かに思っている実体が我、すなわちデカルト自身であるとは限らないと思います」 ・・・・はい、デカルトのいう我は非・人格的なものです。一般的な意味の私です。 デカルトの時代、まだ「独我論」は知られていませんでした。 「デカルトの人生を夢見ている他人かもしれませんし、バーチャル・マシーンでデカルトの人生を追体験している異星人かもしれません。あるいは培養タンクの中の脳かもしれません」 ・・・・はい、仰る通りです。だからこそデカルトは「省察」で、神の存在証明をしたのです。 もし神が存在したのなら、その神が私にバーチャル・マシーンを見せて私を異星人に思わせていることはないし、培養タンクの中の脳と思わせることなく、私の理性的認識は明晰で、かつ判明であることを保証しているはずですから。 「そして最終的には物質までにたどり着くと思います」 ・・・・心から物質にたどり着くのですか? ちょっと飛躍しすぎではありませんか? なぜ、心から物質にたどり着くんですか? 観念論はめんどうだから、今度は唯物論で行こう!というわけですネ? こころって、何だかわかんなーい! チャーマーズも、心は何らかの物質的基盤に根差していることは確かだろうが、よく分からない、と言っていて、意識を心理的な意味の意識と現象的な意味の意識に分けて、心理的な意味の意識は物理還元して考えると比較的よく分かると言って、それをソフト・プロブレムといい、それに対して意識を意識として考える現象的な意味の意識はハード・プロブレムといい、それを解明することは難しいと言っています。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 デカルトの誤謬についてのカントの指摘に関しましても詳しい解説をどうもありがとうございます。 私が書いた文章については誤解があると思いました。 私の用語の問題かもしれません。 質問文で考えていたのは、具体的には主体とは脳を指し、その脳は実体をともなっているということです。 主体、実体は下記の意味で使用しています。 主体とは、思考をおこなっているもの 実体とはバーチャルでない、実質的な存在で、大概は物質から構成されていると思います。 (哲学的な意味での「実体」は根源的でこれ以上分割できず変化しないものという意味だそうですが、そうした意味ではありません。普通の日本語の意味での実体です。) >「・・・それは何らかの実体を伴って対るはずです」 >・・・・どうしてですか?何らかの実体が伴う必要はないと思います。なぜって、思考>は脳の活動の「機能」なのですから、実体ではありません。 思考は脳の機能と思います。ここでの意味は思考の主体は脳であり、脳は脳細胞など実体をともなっているという意味です。 >「そして最終的には物質までにたどり着くと思います」 >・・・・心から物質にたどり着くのですか? >ちょっと飛躍しすぎではありませんか? >なぜ、心から物質にたどり着くんですか? 今回の質問で私は努めて「心」という言葉を使わないようにしています。 「心」と書いてしまうと誤解を生む恐れがあります。 それに心はもともと存在しないと思います。 「そして最終的には物質までにたどり着くと思います」というのは例えば脳という実体は物質であるという意味です。「最終的には」と書いているのは途中にバーチャルなものがはさまっているかもしれないからです。 例として、自分はデカルトと思っているのがバーチャルマシーンによりデカルトの人生を追体験している異星人だった場合を考えてみます。 この場合、デカルトの脳だと思っているものはバーチャルであり存在しません。 しかしその代わりに異星人の「脳的器官」が思考の主体でありそれは実体です。 そして、その脳的器官は物質でできていることでしょう。 別の例を考えてみます。この宇宙全体が私たち人類を含めてバーチャルなシュミレーションプログラムのようなものであった場合です。(このことは実際に天文物理学者の間で議論されているそうです。)宇宙全体がプログラムであるならおそらくそれを稼働させている装置があるはずです。それが主体であり、それは実体をともなっているでしょう。ただし、その実体が物質から構成されているかどうかはわかりません。私たちの宇宙を構成している素粒子とは別の粒子がもとになっているかもしれず、それが物質かどうかは不明です。 大概は実体は物質であると思うのですが、ご指摘のように確実ではないですね。 思考を成立させている実体が存在することまでは言えると思うのですが・・・。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9718/12086)
回答No.3

>「我思う」なら思う何か(実体)が存在するのでは? ⇒はい、そのとおりだと思います。 まさにそれこそ、デカルトの言わんとしたことだと思います。つまり、こうです。 まず、「あらゆるものの存在を否定するとき、そういう否定をしているものがいるはずだ」というのが、"Cogito, ergo sum."「我思う、ゆえに我あり」の真意でしょう。 もっと哲学用語を用いて言うなら、「自己の内外の感覚的世界の存在を体系的に否定し、この一切を疑うという《誇張懐疑》の最中、その懐疑の根底に横たわる自己の存在を発見する」(平凡社、『哲学事典』969ページ)わけです。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 実体があるまでは言えるといことですね。 哲学事典の情報もありがとうございます。

  • SPROCKETER
  • ベストアンサー率26% (2016/7524)
回答No.2

 「我思う故に我あり。」はコンピュータシミュレーションであれ、何であれ、自分が存在する限りは、何か実体を伴う物があるのだという考え方です。  たとえば、テレビゲームのキャラクタが自分という存在は実在するのかを問うとすれば、ゲーム機が動いている間は実在し、ゲーム機の電源が切れて動いていない時は存在していないと判断するしかありませんが、電源が切れている状態では、キャラクタは自分自身を認識出来ませんから、その間の出来事は何も覚えていないわけで、セーブデータを読み取ってスタートした段階までしか記憶が無く、それ以外の出来事は存在していないと同じになります。  人間も同じだと考えてみましょう。自分が意識している時間は存在していて記憶していますが、自分が意識出来ない時間は存在していないのと同じです。  ゲーム機で遊ぶのをやめて、1年間放置してから、ゲームを再開した場合、放置していた1年間はセーブデータに残っていませんが、同じように世界が突然停止して、1年間時間が止まった状態が続いてから動き始めたとしても、時間が止まっていた間のことを我々は知ることが出来ません。  時間は動いていても、世界が凍結して時間が止まっていたのと同じ状態であれば、1年後に凍結が解けて動き始めても、時間が止まっていたのと同じ結果になるでしょう。  実はプランク時間と呼ばれる10のマイナス34乗ぐらいの短い時間では、物理法則が壊れていても、我々には理解出来ませんし、30分の1秒以下の時間は脳が視覚認識出来ないので、その間に何が起こったのかわからないのが現実です。  量子法則が支配する短い時間内では、何が起こっていても我々には認識出来ないのです。自分が実在するのは認識出来ても、それがプランク時間内では物理法則が壊れていて、視覚認識不可能な短時間では、目の前を象が通り過ぎてもわからない。そういう認識しか出来ないのが人間なのです。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 当人には止まった時間を認識できないというのは大変興味深いです。 ただ、私がお聞きしたかったこととは違うお話に思えます。

回答No.1

もし「何も無い」状況を感じるとしたら、それを感じる 何ものかが存在する事になる。 むしろ「何も無いとは感じられない」状況の中に、 ある形式で“真の無”はある。 その形式とは、「何かを感じるもの」と相補分化した 「感じられる何か」であり、即ち、不確定性原理におけ る相補的な時間的不確定性と空間的不確定性に基づく、 自分(自我仮説=記憶(時間の流れ)=過去=超光速)と、 環境(空間仮説=予測(空間の広がり)=未来=光速下)の、 無=無限不確定性の潜在的認識可能性(感受表面=量子 相互作用=光速)からの仮想的(階層現象表面的定性化 による非光速性に基づく)相補分化としてだ。 そうした仮想的な時空的広がりに対する無の射影と して量子=存在はある。 換言すれば、謎として生じた宇宙を、無へ還元する ものが物理なのだ。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 しかしながら、私にはいただいた回答の意味が理解できませんでした。

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    仏教の本を読んでいると、「我れ、私」というものの実体は、物質的なものはもとより、非物質的な霊魂なども含めて、その実体はないと言っているように見えます。 一方、「輪廻転生」があると言っているように見えます。 しかし、「我れ」というものがないとすれば、一体何が生まれ変わると言うのでしょうか? 「我れ」がないと言うなら、生まれ変わる主体がないのだから、「輪廻転生」はないことになると思います。 生まれ変わりがあると言うなら、その生まれ変わる主体があって、それが生まれ変わると考えるべきだと思うので、生まれ変わる「我れ」の実体がある(例えば霊魂など。)ことになり、「我れ」には実体がないと言う命題と矛盾するのではないかと思います。 しかし、これまで長い間、偉いお坊さんたちの間では、この二つの命題の間には「矛盾はない」と理解されて来ていたのでしょうから、多分、この二つの命題に関する私の理解が不十分なのだろうとも思います。 そこで、一見矛盾するように見えるこの二つの命題を矛盾なく理解するには、この二つの命題の、それぞれの本当の意味をどう理解したら良いのか、また、両者の関係をどの様に理解すれば良いのか、どなたかご教示頂けると大変有難いと思います。 どうぞよろしくお願い致します。

  • 人間の存在について

    我々の知覚はすべて脳で処理されています。感覚器から受容された刺激は身体に張り巡らされた神経系を伝わっていき、最終的に脳で知覚されるわけですよね。たとえば僕がテーブルにあるリンゴを見たとき、その情報は視覚野から入ってきて最終的に脳がリンゴを見たと思うって感じです。 でも人間の脳と神経系はご存知の通り極めて精密にできてますんで、神経に電気信号を流してやるだけで知覚することが可能らしいのです。先ほどの例を再び用いると、僕の神経系に「僕はリンゴを見ている」という情報を含んだ電気信号を、閾値範囲のスティミュラとして流してやると、僕はリンゴを見ていないにもかかわらず、リンゴを見ていると知覚するらしいのです。 僕は以上のような話を脳医学関係のフォーラムで聞いたのですが、そのとき少し怖いと思いました(ちなみに僕は脳医学も哲学も全くの専門外です)。 つまり、脳と神経系と電気信号さえあれば、培養液のようなものの中に入れた脳でも自分の世界を作り出せるということになりませんか?つまり、僕がこれまで経験したすべての刺激を脳に送ってやれば、脳はそれを知覚し、今の僕と全く同じ世界を構築するというわけです。 でもこのとき、脳は自分が今脳だけの状態でいると認識しているのでしょうか?答えはおそらくNOですよね。このような状態の脳は、僕達と同様自分の世界の中で生きているわけですから。 ということは「誰しも自分が、予め緻密に組み込まれたプログラム刺激を連続的に知覚しているだけの脳ではないと断言することはできない」ということになりますよね? そう考えるとちょっと怖くありませんか?もしかしたら僕という自己や僕を取り巻くすべての世界は、ある特殊な状況に置かれた脳が見ている幻影に過ぎないのかもしれません。自分は存在していないかもしれない、自分が認識している世界すら存在していないかもしれないと思うとほんと怖くなります。 そこで質問したいと思います。 (1)どうやったら自分が「予め緻密に組み込まれたプログラム刺激を連続的に知覚しているだけの脳」ではないと断言することができますか? (2)人間は(というか我々の認識しているこの世界のようなものは)本当に存在しているのでしょうか?現代の最新哲学はこのような問いに対して、どのような答えをだしているのでしょうか? 哲学は全然わからないので、是非御教授してください。よろしくお願いします。

  • 世界観について

    世界観はいろいろあると思います。極端な話、世界は培養液の中に入った脳がみているバーチャルリアリティかもしれません。しかし、普通は、常識的なというか、自然科学的な世界観で考えていると思うのです。 哲学的な話をするときに、自然科学的な世界観のことを何と言えばよいのでしょうか?唯物論でしょうか? 現代の哲学においてもっとも有力だと考えられているのは、どのような世界観でしょうか? あるいは哲学では、有力な世界観をこれ、と決められないものなのでしょうか?

  • 自分とは何者なのか?の疑問について。

    個人的にとても疑問に思い悩んでいます。是非皆様御自身の意見をお聞きしたいです。 少し遠回りにお話します。 一般論として、「自分を客観的にみる」といったフレーズがあります。主に、冷静さをいつでも保つ目的等の為にいわれますが、では客観的に自分を見ているのは何者なのか?という疑問があがります。つまり「自分を客観的にみる」を、自分を思考とその他に分けて主体、客体を定め、前者が後者を観察することであるとするならば、結果的に観察する側もされる側も自分の一部ということになります。よって、「自分を客観的にみる」ことは原理的に不可能であるといえます。 デカルトは「我思う故に我あり」、と言いましたが、では「我思う故に我あり」と考える自分は何者なのか?我思う、という現象を観察している時点で、自分を主体と客体に分割していますので、先に申し上げた通り、どちらも自分の一部であり、自分全体の存在や性質は語れません。デカルトの命題では、「我思う故に我は思考回路をもつ」、としか言えないと思います。 では自分とは何者なのか?これを考えてみます。もし、自分とは何かに言葉として、~だというものがあったとすると、その時点で自分を~と定義している主体と、その主体に~と定義されている客体に自分を分割してしまいます。そう考えてゆくとどこまでも無限に分割が出来、 「自分とは何者か?」という疑問には言葉でこたえることは絶対不可能という結論に達しました。 このことについて、ご意見や感想を聞かせて頂きたいと思います。よろしくお願いします。

  • 物には性質が在って、その性質が精神を成している?

    私の考えですが、存在性思想の前に書きました これが本当なら ノーベル哲学賞も夢じゃない? ノーベル哲学賞なんて在ったっけ?? つまり脳内物質(脳漿など)や伝達物質、ホルモン、脳波などの微弱な電磁波等 究極的には物質・エネルギーであるわけですが それらの持つ物質が 様々な無数のパターンを持って精神を持ち記憶や思考を実現しているという考えです。 本当は「存在性」の方が貴重な考えなのですが この考えが受けるようで^^ みなさんどう思いますか?

  • デカルトとマルブランシュとライプニッツ

    私は大学で哲学を学び始めたものです。初心者のなかでも一番したのランクです。デカルト、ライプニッツ、マルブランシュの3人について10回くらい講義を受けた中で引っ掛かかった箇所があるので聞いてください。身体と精神は別物で神の力によって精神から身体に働くという場面がありました。例えば腕を上げるのも神が都合よく手を動かしにくるというのです。 3人に共通するものに神の存在がありました。一番納得できないところはそこです。デカルトは「実体とは実在するのにそれしか必要としない。、、、厳密に言えばそうした存在は神しかいない」と書いてありました。この文の意味もよくわからないんです。人形とかも単一(人形のみ)で存在しているといえないんでしょうか? 神という目に見えないものを3人とも出してきています。ここまで物事を深く考えている人たちは目で見えないものをどうしてこんなに信じているんでしょうか。考えても不明なものはみんな神のせいにできる気がします。 ここまで自信ありげな文章になっていますが、間違っている箇所もあると思います。それから絵がないと説明も難しいとは思いますが回答よろしくお願いします。 ながくなってすみません。

  • デカルトのコギトはどこが独自性なのか

     アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り( Si fallor, sum. )》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り( Je pense. donc je suis. )》を導き出したことには 独自性があると パスカルが議論しています。  ● (パスカル:デカルトのコギトについて)~~~~  わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。  (パスカル:《幾何学の精神について》2. 1657)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしている。  アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。  ◆ (アウグスティヌス:あやまつならば・・・) ~~~~  だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。  ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。  精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。   ☆(ぶらじゅろんぬ註) 念のために この点についてのデカルトの文章です。――   ▼ (デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想  がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ  うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは  いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り  きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ  る と仮想しようと決心した。   (方法序説 4)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。  さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。   ☆ この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考    する能力を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。  だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・  さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(*あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。  或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。  それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(*または《われ》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・   (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文のあとつづけて デカルトが:  ▼(デカルト) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そうするとただちに 私は気づいた 私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・  (方法序説 2)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  と書いたことは よく知られているところである。  これらに対してパスカルは このアウグスティヌスからのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。  ● (パスカル) ~~~~~~~~~~  デカルトがこの偉大な聖者(アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。・・・  なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。  (パスカル:幾何学の精神について 2)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことばを《偶然に言った》と述べて けなしているのですが 大目に見ておきましょう。  《あやまつなら われあり》というとき あやまちに気づいたわたしは とうぜん そのことを 振り返って 考えます。原因について。相手や情況について。等々。その考える主体は あやまちに気づいて いわば我れに還った我れであるのですから そこの部分だけを取り出せば 《考えるとき われあり》となるはずです。  デカルトのコギトに独自性はあるのか?

  • 存在とは?存在性思想とは?性質進化論など?

    以下の文章で(分かり易く書きました)問題はありますかね?何処がどの様に? この世の不条理に苦悩する人々、若者たちの心は偲び難いものがある 我々は理性で真理を捉えない限りその解決を見ないだろう なぜなら人間は数知れない戦争や戦いを繰り返して来たからです。 私が考えるに存在を定義しない限り哲学は結論が出ないのであって 存在は今まで定まった定義がない。 一説には存在とは内容もなく、無のようなものと ハイデッカーが言ったとか、これはあまりに無残だ 私の説では存在をエネルギーと性質の個性として捉える そう捉えなければ他にどう捉えるのかこちらが聞きたい 定義するならば 存在とは、性質を持ったエネルギーである(単位として) もっと分かり易く書くなら 存在とは、個性ある性質を持ったエネルギーである(個性が単位) この個性とは蜘蛛とかアカシアの木とか人間とかドラム缶とか 大概この世にあるものは言葉で言い表される個性を持っている その個性が単位だ 蜘蛛なら一匹二匹 木なら一本二本 アカシアの木、ブナの木、樫の木、桜の木、檜、杉の木等などの個性がある 蜘蛛やら虫やら数多の微生物やら菌類やらウイルスまで色々と個性がある 人間でも猿の仲間でも個性がある。人種にも一人一人にも個性が有って 一人として同じ人間はいない。 ドラム缶でもダンプカーでもPCでもコタツでも人間の作るもにも個性がある 芸術にも個性があるというから在るのだろう。 存在とは、個性ある性質を持ったエネルギーである 此処で「性質」と「エネルギー」について色々と考えた 「性質とは何か?」そんな性質なんてものが在るのか? 性質とは物質などのエネルギーの属性とされて来たが 女性が男性の属性のように扱われて来た様なもので、性質は物質などと独立した存在である その証拠に、性質はエネルギーがどのように変化しても常に真理を体現する エネルギーはどの様にでも変化するが、性質は同様の状態なら同様の性質が現れる 性質は作用であり、働きであり、相互作用です。 そのような存在が在ると考えた訳です。 次にエネルギーを考えたら、ある人が「この世は全て物質で出来ている、光も重力も素粒子だ!」 と言うので、物質もエネルギーの一種と思っていた私は 存在とは、(個性ある)性質を持ったエネルギー(物質を含む) 或いはエネルギー・物質 と書くようになったのです。 端折りますが 次に精神ですが、精神とは何かを私が観察し、思考した限りでは この宇宙に精神の様に言葉や情報などの多様性を持つものは 性質を置いて他にはない と見て取りました。 他に何があるでしょうか? つまり精神は脳の微妙且つ複雑且つ法則に則った反応の性質部分の事である 言い換えると 我々は性質で出来ていた。我々は性質だったのです。 聖書で言う「言葉」と言う事でしょうか。 こじつけるなら 宇宙が神で、エネルギーが精霊で、イエス(言葉)が性質だという事です。 今日はよく考えずに始めたので最後までは書きません 乞うご期待 次の文章で閉じます この存在性思想は進化論の原理であり、存在が淘汰されてより良い存在、より存在性の強い存在が 存在できるのだという考えです。存在はせめぎ合い存続することが存在するに有利となりました 存続とは引力と循環や回転によって同様の個性を維持する事です。 光も個性ですし電子雲も個性です。 酸素も個性なら DNAも個性です。 しかしここで勘違いをしないで頂きたいのは、人間は脳で考えを淘汰して良い考えや性質を選びます ですから人間は動物のように(体は動物ですが心は動物じゃない)争いや弱肉強食をしない方が 安全に進化していけるのです。人間は破壊力がすごいんでIS等が起こったら何百人も殺します そういう争いは避けるべきなのです。競争は適度にやるのが良いです。 この存在性思想は別名で呼ぶなら「性質進化論」と言う風に呼べると思います。 以上の文章で何か得る物があるでしょうか?