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デカルトとマルブランシュとライプニッツ

私は大学で哲学を学び始めたものです。初心者のなかでも一番したのランクです。デカルト、ライプニッツ、マルブランシュの3人について10回くらい講義を受けた中で引っ掛かかった箇所があるので聞いてください。身体と精神は別物で神の力によって精神から身体に働くという場面がありました。例えば腕を上げるのも神が都合よく手を動かしにくるというのです。 3人に共通するものに神の存在がありました。一番納得できないところはそこです。デカルトは「実体とは実在するのにそれしか必要としない。、、、厳密に言えばそうした存在は神しかいない」と書いてありました。この文の意味もよくわからないんです。人形とかも単一(人形のみ)で存在しているといえないんでしょうか? 神という目に見えないものを3人とも出してきています。ここまで物事を深く考えている人たちは目で見えないものをどうしてこんなに信じているんでしょうか。考えても不明なものはみんな神のせいにできる気がします。 ここまで自信ありげな文章になっていますが、間違っている箇所もあると思います。それから絵がないと説明も難しいとは思いますが回答よろしくお願いします。 ながくなってすみません。

みんなの回答

  • nfhpt224
  • ベストアンサー率22% (2/9)
回答No.9

久しぶりに帰ってきました。あなたが認識しているものは正しいと認識しますか?あなた自身はあなた自身の思考形式ですか?答えは自明性。あなた自身の考え及び私自身の考えは生まれてからインプリンティングされているので自分自身の答えではないのです。そういうとフィフテの立場は理解できるでしょう。自分自身とは何者かという問題につきあがりますが、私は自分自身がわかりません。目に見えるものが、真実というのはインプリングティングされているからディスクールできるのであって、本来的な自分とは果たして何者かと遡及的認識をすると、今ある「自分自身」との関係性が、パラドキシカルに見えてきます。その認識があるからこそ、「目に見えるものが真実かどうか疑わしい」と思考できるのではないでしょうか?超越的なものは哲学を専攻しているなら、自分でお調べになったほうがよろしいのではないでしょうか。プラトニズムから、パラフレーズするわけではないのですが、哲学のイストワールを探求してはどうでしょうか?

回答No.8

こんにちは♪ デカルトが神を本気で信じていたかは 疑問があると思います。 大航海時代は、いまだキリスト教の力は非常に強いものでした。 何をするにしても教会の力は絶大です。 無論「出版」も例外ではありません。 そして、あのガリレオの宗教裁判も目の当たりにしております。 そんな中で神様を否定するような書物を出版できるでしょうか。 実際にデカルト自体「無神論者だ!」とも 当時の声としてあがっていました。 この声は学者にとって非常に怖いものでした。 ですから、あのデカルトでさえも神様の証明を 二重三重にもやってみせて出版したのだと思います。 確かにデカルトの「方法序説」は、教会にとって非常に危険なものでした。 当時、学問や知識はラテン語で教会が独占するものであり、 一般の人々には手の届かないものだったのです。 そこにきて、 理性や良識は全ての人に平等に備わっていて、 それを正しく行使すればどのようなものでも 理解でき正しい判断が下せるよって 難解な哲学用語を使わず子供でも分かるような フランス語の文章で書いたのです。 デカルトのもっとも伝えたかった 理性や良識の平等分配とその信頼性 (それだけではないと思いますが・・・) やはり伝えるために、教会の顔色を伺うのは 必要不可欠だったと思います。 そして、そのような学者と教会との関係は スピノザ然りライプニッツ然りだと思います。 やはり、ニーチェにいたるまでは 少なからずあるのではないでしょうか。 私のこの考えは、どちらかといえば 少数派であると思います。ですが 書物だけから作者の意図を紡ぎ取ろうとしても 難しいと思います。 その時代背景やおかれた環境も考えるべきでしょう。 マールブランシュについてはちょっと勉強します。 ど素人意見ですが ご参考程度にどうぞヽ(´ー`)/

noname#25818
noname#25818
回答No.7

悟性はどうなるのだろう 悪魔崇拝?

noname#25818
noname#25818
回答No.6

神が導く理性の方向と違うのでは

noname#25818
noname#25818
回答No.5

方法序説によって導かれる理性は,本当の神の望む理性と違うのではないか?

noname#25818
noname#25818
回答No.4

否.本来は理性を正しく導いていった先に啓示があるものが,儀式によって先に啓示(もどき)が与えられ,その後の誘導で方法序説が書かれた. これは何を意味するか.

noname#25818
noname#25818
回答No.3

パスカルとデカルトの違いは何だろう. パスカルは啓示の感動を書き記し,服の裏に縫い付けたといわれる. デカルトにはそうした感動が表現されていないような気がするのだが. どうなのだろう. 薔薇十字団の儀式における薬物使用の強制幻覚視を周囲の誘導で神の啓示に思わせるその誘導技術が方法序説.副題(理性を正しく導く為の)

noname#66269
noname#66269
回答No.2

 話しは少し飛躍するが、覚醒剤などの薬物を常用する者が見る幻覚は、見る本人は、それを決して幻覚とは思わないらしい。それを、まさに現実に有るものと感じるのである。壁を這う何千匹ものミミズや、大きな口を開けて自分を追いかけてくる大蛇とか、それは、彼にとって文字通り現実なのである。  なぜ、そんなことが起こるのかと言えば、薬物使用による脳内疲労によって、現実知覚と幻覚を分離する能力が著しく低下しているためであると推測される。  実は、デカルト以前の人間は、すべて、この薬物常用者と同じようなものであったと、思われる。すなわち、彼らは現実と幻想との区別の無い世界に生きていた。彼らの世界には、悪魔も天使も実在していたし、世界の果てにはドラゴンが、森の中には妖精が棲んでいた。そして、神さえも、文字通り天空のどこかにリアルに生息して人間生活に干渉してくる存在であった。デカルト以前の人間は、現実と幻想とを区別する手段を持たなかったし、そもそもそれらを区別しようとする意思さえなかった。むろん、彼らの脳内活動が疲弊していたという訳ではなく、活動自体がそこまで活性化していなかったという方が正しいかも知れない。  そして、デカルトが登場した。彼によって、初めて、現実世界と幻想(思念)の世界とが、明瞭に区別されたのである。実際の区別は、観察と実験、それに基づく数量化によって行われることになるが、彼は、その区別の意思を最初に表明した者と言ってよいだろう。そして重要なことは、現実の世界が間違いなく存在するように、幻想の世界も間違いなく存在するということである。しかし、両者の世界の間には、ハッキリとした一線が引かれて、決して混同されることはなくなった。  彼以前は、「自分」とは、単に大地に足を踏みしめた人間が自分であった。しかし、彼は言う。幻想の世界に生きる者(思念する者)が本当の自分なのだと。その自分には、足も無ければ手も体もない。いわゆる「精神」なのである。そしてその「精神」が、人間としての肉体(身体)を支配しているのだと。  以上のことをわかりやすく言えば、パソコンにおいて「ハード」と「ソフト」をはっきりと区別したと言うことになろうか。デカルトは、一個の人間において、ハードに当たる身体と、ソフトにあたる精神とを完全に区別し、本当の我々はハードを動かすソフトの方なのだと明言したのである。それと同じように、広大な自然世界というハードを動かすソフト、それが神であるというのである。  そして、そこで初めて、神というものが、それまで、全知全能であるとしても、人間と同じような風貌をした有形の存在物から、現在、我々が普通に認識しているような、精神的な無形の普遍物となったのである。  神がソフトであるなら、それは個別のアプリケーションではなくて、基本ソフト(0S)であると言えるかもしれない。アプリケーションはOSがなければパソコン中に存在し得ないが、OSはそれ自体で存在し得る。  そして、神のソフトの助けがなければ、一個のアプリケーションである我々人間が腕を動かすことも出来ないし、また細かく条件設定されているであろう目の前の人形さえ存在し得ない。

ttomatomatoto
質問者

お礼

今もレポートの内容をどうするか考え中ですが身近な例えをしていただけたのでわかりやすく考えてみることができそうです。

  • nfhpt224
  • ベストアンサー率22% (2/9)
回答No.1

哲学で神を信じる哲学者は山のようにいます。反面フリードリッヒ・ニーチェのように神を否定する哲学者もいます。自明性ですよね。そのことをあえてパラフレーズしませんが、あなたが何で神を(超越的)信じないのか、目に見えるものが真実なのか思考する必要性があると思います。持論では「目に見えるものは真実であるかどうか疑わしい」と私は認識します。哲学は最終的には超越性と結びつくものです。中島義道でさえも「何か見えないものがあるかもしれない」と少し持論が変化しつつあります。私は特定の宗教団体に属してはいませんが、理論物理学でも「宇宙は膨張している、しかし膨張するとは宇宙の外側にも空間認識 がある」と認識主体としているのです。あなたはこの事をロジックで証明できますか?このようにわからないことをわかろうとするのが哲学です。あなた自身も可変性があるのですからキャパシティを広げる必要があるのではないでしょうか。あなた自身が考えているのはあなた自身でしょうか?哲学を専攻した以上、トレランスおよびモデストにあなた自身が変わらないと唯の学問で終ってしまいますよ。

ttomatomatoto
質問者

お礼

反論ではなくわたしの質問、あるいは意見として聞いてください。神がいないということを説明できないのと同時に神がいる説明もできません。目に見えるものが真実かどうか疑わしいとどんなときに思いますか?

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