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現象学とは何か?フッサール現象学とヘーゲル現象学の違いを解説
- フッサール現象学とヘーゲル現象学は、現象学という共通のテーマを扱っているにもかかわらず、その定義やアプローチにおいて大きな違いがあります。
- ヘーゲルの現象学は、精神の自覚的な経験から始まり、概念の階段を上昇して絶対知に至ることを目指しています。
- 一方、フッサールの現象学は、自然的意識を棚上げにして現象学的な意識へと転換することを要求しています。また、フッサールは後期になると意識の広がりを発見し、世界の存在と人生の根底にある「生活世界」の重要性を強調しました。
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こんばんは。 ヘーゲルは とにもかくにも 《無限なる場ないしチカラ》と《有限世界》とを区別していると考えます。 この区別に立てば 世界精神と〔ふつうの精神の持ち主である〕人間とを地続きだとは見ない。とすることが出来るなら 《有限なる経験世界》とそのプラスαとしての《無限・世界精神》とを合わせた現実としての・ふつうに一般的な《社会生活》をも見つめているでしょう。 つまり 無理なく――上の意味での――《生活世界》をも視野に入れています。 つまり この意味での生活世界は いちいち ★ 最終的に私たちの目から見えなくなってしまった「生活世界」を現象学によって再発見し ☆ たというその対象とするのは 何とも現実から離れているように見えて仕方がありません。何を言っているのか? と。 ついでに触れておくなら 《純粋意識・本質直観》というのも けっきょくあたかも《負のイデア》?)のごとくであり・あるいはイデアのネガ(陰画)のようであり そうは言いつつも けっきょく何のことかよく分からない。と考えます。 ★ 世界の存在、「生活世界」が私たちの人生の根底にあって、私たちがそれに生かされていることを発見した ☆ この命題もあいまいです。 一方で 生活世界を現実として捉えるのなら それは初めから私たちと共にあった。わたしたちが社会にあって生活するのであり その生活した結果がまた歴史が わたしたちに影響をおよぼす。ごくふつうの世界であるはずです。 もう一方で 生活世界は《私たちの人生の根底にあって 私たちがそれに生かされている》という見方を採るなら どうなるか? いったい何のことか? あたかも大地に潜む守護霊といったイメージなのですが いったいどういうものなのでしょう? イデアの世俗版? 問い求める主題を このひとつに絞ることにしましょう。 お答えいただけるとさいわいです。
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- 雪中庵(@psytex)
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1.「見えている事」は、突き詰めると網膜表面での光量子の相互 作用に還元されます(他の感覚も同様に、感覚細胞表面での量子 相互作用に還元される)。 2.「見えている物」は、階層現象性(認識体>細胞>分子>原子 >素粒子>クォーク>超弦(量子定常波))の果てに、量子相互作用 に還元される。 3.時間軸と空間軸が虚数関係にある事により、等距離点に0と なる界面原点が発生し、それがライトコーン=光量子である。 4.つまり光量子は、時空的相補分化において派生した仮想的 時空を、無に還元するものだと言え、そうした本質まで確定せず、 現象表面的に(いい加減に)捉える事で、有限な存在性は二次的 に派生している(=不確定性原理)。
お礼
bragelonneさんの回答に対してすでに申し上げている通り、これは質問というより、kimko378さんが私をブロックしているので、kimko379さんの質問にやむなく質問という形で回答したものです。 もし、あなたが私の質問に回答したいと思ったのであれば、kimko379さんのフッサールの現象学に対する質問に、誰もまだ回答していないようですので、そちらに回答してやってください。 せっかく回答してもらって、申し訳ありませんが……
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.1です。 ★ (No.1お礼欄の要約としてこちらが編集したもの) じつはこれは 神秘思想なのだ 体験した者でなければ分からないところがある。 ☆ という説明を聞いた――つまり フッサールの《生活世界》について――としか思えないのですが どうですか? 神秘主義の思想家は 幾人か出たようですが その神秘哲学の問題点については もともと神秘的なナゾを容れた信仰を論じたパウロから明らかにされています。それは 《異言(シャリバリ≒アブラカダブラ)》のことです。 ▲ (パウロ:コリント前書 12章 10節) ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。 ▲ (同 14章 02節) 異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。 ★ メルロー・ポンティは「知覚の現象学」の中で、フッサールの「生活世界」を「現象野」と言い換えていますが ☆ メルロポンティを知らないので分からないのかも知れませんが――そして メルロポンティについては 心のウワベにおける現象としての心理学に片向いているという印象をしか残念ながら持っていません―― なおまだ《預言 すなわち 解釈》が必要であると考えますが 横着でしょうか。 ★ 私たちは世界の中の対象を関心とか知覚によって捉えていますが、それはほんの一部で、知覚的世界はそれを意識していないけれども、もっと広大なもので、その広大なものの中から、関心を持つものだけをピック・アップして、それを構成して世界と称していますが、それは世界のほんの一部です。 ☆ これだと やっぱし《神秘》の領域はそのままにして かろうじて全体の見取り図を作成したといったところです。 この概念図から《ナゾナゾ》をカッコに入れて ほかのところで説明のあった《見えるものと見えないもの》についてはそれを解釈しようとすれば――いやしくも《生活》と言うからには―― ふつうに人間の生きて見て知っているその社会生活のことだと捉えることに マチガイはないでしょう。たとえば パスカルです。 ▼ (パスカル:幾何学の精神と繊細の精神) ~~~~~~~ 幾何学の精神( l'esprit de géométrie )と繊細の精神( l'esprit de finesse )との違い。 前者においては 原理は手でさわれるように明らかであるが しかし通常の使用からは離れている。したがって そのほうへはあたまを向けにくい。慣れていないからである。しかし少しでもそのほうへあたまを向ければ 原理はくまなく見える。それで 歪みきった精神の持ち主ででもないかぎり 見のがすことがほとんど不可能なほどに粒の粗いそれら原理に基づいて 推理を誤ることはない。 ところが繊細の精神においては 原理は通常使用されており 皆の目の前にある。あたまを向けるまでもないし 無理をする必要もない。ただ問題は よい目を持つことであり そのかわり これこそはよくなければならない。というのは このほうの原理はきわめて微妙( déliés )であり 多数なので 何も見のがさないということがほとんど不可能なくらいだからである。 (『パンセ』 前田陽一・由木康訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この世界認識も 《見えるものと見えないもの》を説明しています。納得が行きます。 つまりは 《繊細の精神》のはたらく領域というのは よくもわるくも言わゆる《空気》のことです。ふるくは《以心伝心》とも言ったような。 ★ そして私たちは生きる上で、そうした目に見えない「生活世界」を受動的に、非・志向的に、これをフッサールは「志向性」に代えて、日本語訳では「能作」といっていますが、「能作」によって受け入れて、その中で生きているのです。 ☆ という説明を聞くと あれっ 《繊細の精神 または 情感の共同性ともよぶべき情況域》のことかと一瞬思いますが その次の説明を聞くとやはり違っていると思われます。: ★ フッサールはそれを「経験と判断」といいう本で、前・述語的判断と言っています。 / 前・述語的とは、私たちが判断する前に既に判断してしまっているということです。 ☆ そんなわけはない。よく知らないで言いますが あたかもM.フーコの《エピステーメーに則ってどこにでも噴出して来る言ってみればなじみ深いような身の周りの権力・支配欲》のことかと錯覚しましたが そんなわけはない。 まづ 《情感の共同性》ともよぶべき所謂るクウキ これによって人びとはたいていは支配されます。その・えも言わずに醸し出されたクウキの動向にわれわれは 従わざるを得なくなるのが つねです。しかもそのことは《前・述語的判断》をしていることを意味しません。 クウキなるものは 一般に横暴であるとわたしたちは知っているからです。きちんと判断をしています。その判断をそのまま実行し得ないからと言って そのクウキにわれわれは奴隷となっているわけではない。 (奴隷は自由を奪われていると言うとすれば それと同じように主人も奴隷の存在に嫌が応でも依存しておりそのぶん自由を奪われています)。 といった話をしたとしても 《生活世界》は もっともっと《深ーぁいナゾに満ちた領域》なのでしょうか? ★ あなたはヘーゲルも「生活世界」を視野に入れていました、といいますが、私はヘーゲルが自然的な意識、自然的世界から、「現象学的還元」を経た、現象学的意識、現象学的世界に転換しているとは思いません。 ☆ というように現象学的還元が 欠かすべからざる哲学のコツだとしますと なおしっかりと説明していただかなければならない。こう考えます。 (そのむかし おれはこの上なくとうとい知恵のさとりを得たと宣言して ついにその内容を明らかにせずただただ大化城なるまぼろしを見せ続けて人びとを引っ張った――そしていまでもそれに溺れる人間がいます――そのペテン師のマジック仕掛けと変わりないということになるでしょう)。 (カントだって 物自体を言うだけで 神秘はそこまでにとどめました。良心的です)。 ★ あなたは世界が存在していると思いますか? そして私というものが存在すると思いますか? ☆ 《世界》と言って指し示すものは何か? これについてわたしたちは みなが一応共通の了解を得ている内容があります。けっきょく意識された・また意識されうるものごとのすべてのことです。 わたしは 実存思想に立ちますから この共通の理解があればあとは その言葉その概念を用いて互いに意志疎通する。これで じゅうぶんだという見解に立ちます。 そのようにしてすでに実存していれば 一生を終えるようになったとしても悔いは残らないと思っているわけです。むしろ そのようにして――現実の背後の《神秘に満ちた生活世界》なる《本質》(?)には目もくれずして―― 現実を生きることが 人としてのわたしという存在であると思っているわけです。 けれども この実存思想は ★ 私はもしかしたら存在しないのではないか、と思っているんです。 ☆ という自由度をふくんでいますよ。なぜなら・そしてまたはその内実は それが《有限なる経験世界 プラスα》としてのナゾ(非知)のことだと知ったからです。わたしの用語で 《非思考の庭〔なるあたかも心としての動態〕》のことです。 (ヘーゲルは この非思考の庭のことに触れているはずです。〔狭義の〕自然的なるものは この無限と有限とのあたかも一体を持っていないか または持っていてもそれに我慢ができないと)。 (ブディズムの名誉のために言えばブディストらは この《プラスαとして自然を超えたところのふつうにおだやかな自然本性》のことを ブッダター(仏性・如来蔵)として打ち出しています。ただしこれは ブラフマ二ズムにおける《アートマン(霊我)》と同じものです。プシュケー・トゥー・コスムー / アニマ・ムンディ イデア 物自体 世界精神・・・)。
お礼
すでに言いましたように私の質問は質問でなく、kimko379さんへの回答のつもりでしたもので、あなたとここで延々と議論したいとは思いません。 ヤフーの哲学カテで回答するのに忙しいので、再度の応答は遠慮しておきます。 あしからず。
お礼
私の質問は質問というより、kimko379さんの質問に対する回答のつもりでした。 ただ、kimko379さんがどういう訳か、以前、「資本論」の質問が別の人からあって、私とkimko379さんの回答が寄せられて、私の回答に賛同者が多かったことから腹を立てたらしく、それで私が回答できないようにブロックを掛けたものだから、仕方なく、初めてこのOKウエイブで質問の形で、回答せざるを得なくなったのです。 たしかに誰をブロックに掛けようと自由ですが、前の質問がこのOKウエイブだけでなく、ヤフーにも出されて私が回答しましたが、回答者は私ひとりしかいなくて、その中の返信で、私にブロックをかけた理由を述べておられ、「資本論」の回答が間違っているのに、私の方に賛同者が多いのは心外だと、それをブロックをかけた理由だと仰っていました。 でも、間違っていようと、賛同者が多かったのは私の責任ではないのですから、それを理由にブロックをかけたというのでは、私としてはどうしていいか分かりません。 それとフッサールの「生活世界」がちょっと説明が曖昧だという点は、私の説明が下手なせいで、フッサールの責任ではありません。 メルロー・ポンティは「知覚の現象学」の中で、フッサールの「生活世界」を「現象野」と言い換えていますが、私たちは世界の中の対象を関心とか知覚によって捉えていますが、それはほんの一部で、知覚的世界はそれを意識していないけれども、もっと広大なもので、その広大なものの中から、関心を持つものだけをピック・アップして、それを構成して世界と称していますが、それは世界のほんの一部です。 そして私たちは生きる上で、そうした目に見えない「生活世界」を受動的に、非・志向的に、これをフッサールは「志向性」に代えて、日本語訳では「能作」といっていますが、「能作」によって受け入れて、その中で生きているのです。 フッサールはそれを「経験と判断」といいう本で、前・述語的判断と言っています。 前・述語的とは、私たちが判断する前に既に判断してしまっているということです。 後期フッサールは純粋意識による構成的現象学から、発生的現象学に転換しました。 晩年にフッサールは膨大な遺稿を残して死にましたが、メルロー・ポンティはそのフッサールの遺稿を研究して、のちに「知覚の現象学」とか「見えるものと見えないもの」という本を書きましたが、フッサールによれば「生活世界」は17世紀のガリレオの数学的自然科学によって世界は数学の「理念の衣」で覆われてしまい、私たちには見えなくなってしまったのです。 それを見えるようにするには「現象学的還元」という方法を必要としました。 メルロー・ポンティが「見えるものと見えないもの」という場合の「見えないもの」とはそのフッサールのいう「生活世界」のこと、メルローでいえば「現象野」のことでした。 あなたはヘーゲルも「生活世界」を視野に入れていました、といいますが、私はヘーゲルが自然的な意識、自然的世界から、「現象学的還元」を経た、現象学的意識、現象学的世界に転換しているとは思いません。 ヘーゲルは、この世界の存在と私の存在をデカルトと同じように懐疑的に見ていたとは思いません。 ヘーゲル哲学は世界の存在と私の存在を自明なものとして、それを基礎に世界を概念的に構成しただけです。 「生活世界」というのは確かに曖昧ですが、でもそれを見出すのは至難の業なのです。 なんと言っても、「現象学的還元」の方法を理解する人が少ないというのでは、なおさらです。 フッサールは大学で1学期を費やして学生に「現象学的還元」がどういうものか説明しましたが、誰ひとりそれを理解する人がいなくて、1学期が終わる頃には学生がほとんどいなくなったと言われます。 フッサールはそれを「現象学の理念」という小冊子で、説明していますが、それを私は昔読んで、初めて「現象学的還元」というものが何であるかを教わり、目が覚める思いを味わいました。 メルローは、現象学的還元という反・自然的な考えに思考を集中するのは、そんなに長続きしないと言いましたが、確かに数分しか続けられませんでした。 それほど難しいんです。 ただ、それによって開かれてくる世界は驚くべきものです。 私はそこから、世界はなぜ存在しているのか? とか、世界は存在しないのではないか? とか、私って存在するのか、もしかしたら存在しないのではないか? 私って誰? という疑問に襲われました。 私にとってフッサールの「現象学的還元」を知ったこと、それが哲学の出発点でした。 あなたは世界が存在していると思いますか? そして私というものが存在すると思いますか? 私はもしかしたら存在しないのではないか、と思っているんです。 フッサールの「現象学的還元」によって、考えるようになって。