- 締切済み
『精神現象学』における「我々」の「尺度」について
「自己の水脈 ヘーゲル「精神現象学」の方法と経験」、片山善博、2002年3月、23-24項)で、 ((「意識が自分の内部において即自あるいは真理と言明するものに即して、我々は、意識が自分の知を測定するために自分で立てる尺度を持つのである」(G.W.F.Hegel:Gesammelte Werke Bd.9.PHa"nomenologie des Geistes,hers.Rheinisch Westfa"lischen Akademie der Wissenschaften,Du"sseldorf 1980.59)。 ヘーゲルはこのことによって「我々」の「学」たる地位を保証しようとする。 つまり意識が立てる即自を尺度と認めることによって、自らの尺度を対象の側の運動として客観的に示すことができるのである。 したがって「我々」の「学」の可能性を現実化たらしめるには、「我々」は、意識それ自身の運動に身を委ねなければならず(学も現象であるという側面)、さらにはその根本として、意識自身が「学」たる境地に至らなければならない。 意識の区別立てした知(現象知)が、我々の<知>の構成要素となる。)) とありますが、 「自らの尺度を対象の側の運動として客観的に示すことができるのである。」とはどういうことでしょうか? 「尺度」や「我々」をヘーゲル用語辞典などで調べましたが、よく理解できませんでした。 宜しくお願いいします。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
みんなの回答
- nanomen01
- ベストアンサー率0% (0/1)
- ghostbuster
- ベストアンサー率81% (422/520)
- nanomen01
- ベストアンサー率0% (0/1)
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
関連するQ&A
- フッサール現象学とヘーゲル現象学の違いについて
現象学という言葉をカントの同時代のランベルトが言い始めたことは中島義道がすでに言っていますが、その現象学というのをヘーゲルが用い、フッサールが用いたからといって、どちらの現象学も同じでないのは、蝦夷富士や伯耆富士があるからといって同じ富士山といえないのと同じ、またカント哲学とヘーゲル哲学といって、同じ哲学と称するから同じではないように、同じ現象学でないのは、いわば当然で、質問するまでもありません。 ヘーゲルにとって現象学とは、意識の経験の学、とみずから言っているように精神が自覚的に感覚できる個別的なものから、その対立を克服して概念の階段を上昇し、最後に絶対知に至り、その絶対知にすべてを包括し、世界を絶対精神の発出として理解するもの。 これは古代ギリシャのプラトンの「実在論・リアリズム」の近代の復刻版であり、プラトンは天に永遠の「イデア」があり、それこそが真の実在であり、地上の諸々の存在、個物は真の実在ではなく、仮象だと言いましたが、ヘーゲルにとって個物だとか個人は実在ではなく抽象的なものであり、真の実在であり、具体的なものといったら、全体的なもの、精神でした。 ヘーゲルは言います、 「理性的なものこそ現実的なものであり、現実的なものは理性的なものである」と。 つまり概念こそが真の実在であり、現実的なものであり、感覚されるものは仮象であり、抽象的なものであるということ。 こうしてヘーゲルは私たちのいう具体的なものと抽象的なものの関係をひっくり返しました。 ヘーゲルにとって個人よりも国家の方が実在で、個人はその国家のための、国家を導くための否定的媒介に過ぎない。 これがヘーゲルのいう現象学です。 それに対してフッサールは意識を自然的意識と現象学的意識に分け、現象学をやるためにはその自然的意識を棚上げにして現象学的意識に転換しなければならないという。 それが「現象学的還元」で、現象学は外的世界の存在に「カッコ」を施し、それが存在するという判断を停止します。 つまり、外的世界が存在するという私たちの信念を「宙づり」にします。 もしかしたら外的世界なんて存在しないかもしれない。 また、同じく「現象学的還元」で、私の存在についても「カッコ」を施します。 もしかしたら、私なんて存在しないかもしれない。 フッサールはデカルトと同じように普遍的懐疑で、世界の存在、そして私の存在に対する私たちの信念を停止します。 これをフッサールは「中和性変様」といっています。 何を中和するかといえば、私たちの世界が存在する、という信念、また私が私が存在するという信念、それをプラスの信念とすれば、それにマイナスの信念を対抗させて、中和することです。 マイナスの信念というのは世界が存在しない、私が存在しないという信念。 こうして、フッサールに言わせれば、純粋意識が最後に残るという。 これはデカルトの「コギト」です。 意識といっても、普通の意識ではなく、いわば作用だけの意識。 そしてフッサールに言わせれば意識の本質は「志向性」にあり、意識は何ものかの意識であると言われる。 現象学とは、この純粋意識の「志向性」によって、世界を再構成しようというもののこと。 ヘーゲルにとって意識とは自然的意識でしたが、フッサールにとって同じ意識という言葉でも、中身がまったく異なり、現象学的還元を経た現象学的な意識でした。 ヘーゲルにとって意識とは人間が有するものでしたが、フッサールにとって、人間以前にあるもの、むしろ人間はその意識によって構成されるものでした。 ヘーゲルにとって現象とはカントと同じ意味で、時間・空間の中にある物の現象であり、現われでしたが、フッサールにとって現象とは物に限らず、霊でも魂でも、神でもいい、単に私の意識に現われるものならば、時間空間の中にあっても無くてもいい、すべてを含みました。 ヘーゲルにとって精神を除くものが意識の対象である現象で、精神そのものは現象ではありませんでしたが、フッサールにとっては精神だろうと神だろうと、私の意識に与えられるもの、現われるものはすべて現象でした。 ヘーゲルは世界と私の存在を疑いませんでしたが、フッサールはデカルトと同じようにすべてを疑いました。 「コギト」という、世界がそこから開けてくる視点の存在しか認めませんでした。 ところが初期のフッサールは純粋意識による世界の構成ということを唱えていましたが、後期になると、その初期のデカルトの道を放棄するようになります。 例えばゲシュタルト心理学で、地と図ということが言われますが、大きな地図があったとして意識というのはその地図の小さな点でしかないのを知り、地図というもっと広大な世界があることを発見しました。 つまり意識は氷山のほんの一角に過ぎない、その下には意識されたない広大な世界があることに気が付いたのです。 それをフッサールは「生活世界」といいました。 私たちは意識的に世界を構成する前に、その広大な「生活世界」があり、それを受動的に受容し、その上で、自発的に考えたり、行動しているのに気が付いたのです。 この世界の存在に気が付いたこと、このことは古代ギリシャ以来、中世を経て忘れ去られていたコスモスとしての世界を2500年ぶりに再発見したことを意味します。 フッサールの現象学の最大の功績は、世界の存在、「生活世界」が私たちの人生の根底にあって、私たちがそれに生かされていることを発見したことにあります。 フッサールは「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」の付録として付け加えられた「幾何学の起源」において、17世紀の科学革命のガリレオによって数学的自然科学が創始されて以来、世界は数学の「理念の衣」によって、おおわれてしまい、人生を、物事を数学によって考えるようになり、その人生の基盤にある「生活世界」が見えなくなってしまったと言います。 フッサールに言わせれば、ガリレオは発見の天才かもしれないが、同時に隠蔽の天才でもある、といいます。 こうしてフッサールの現象学は最終的に私たちの目から見えなくなってしまった「生活世界」を現象学によって再発見し、存在の、生の、生き生きとした活力を再び取り戻すことに目標が、テロスが据えられました。 フッサールはデカルトからカントを経て、ヘーゲルまでの近代哲学の自我中心・意識中心・主体性を中心とする世界観を転換し、戦後フランスのポスト・モダンとハイデガーの存在論にいたる道を切り開いた哲学者だということができます。 どうですか、同じ現象学でも、フッサールのいう現象学と、ヘーゲルのいう現象学が、月とすっぽんのように違うのが分かると思います。 皆さんの感想と忌憚のない批判を募ります。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- ヘーゲルの自己意識がよく分かりません
ヘーゲルの自己意識とはどういうことでしょうか。 「無限性を対象にする意識は自己意識である。」 この時点でまず分かりません。 「無限性が意識にとって現れた姿であったとしても意識の対象になるとき、意識は自己意識になっている。 」 無限性が意識の対象になると、意識は自己意識になる?? ここもわかりません。 「現象が引き上げられ現象が消え去り、内なるものが内なるものを見るという事態が現れている。」 現象(カント認識論で言う現象と捉えています)を克服すれば、真理が、無限が捉えられるという事でしょうか。 おそらく、ヘーゲル通の人からすれば、馬鹿らしい質問なのかもしれませんが、「自己意識」は分からないままにするには、あまりにヘーゲル哲学の根底に属しているよう気がするので、何とか消化したいです。 宜しくお願いします。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 現象と自然と存在の多様性
辞書の意味だと以下になります。 現象:感覚や意識にあらわれるもの。 自然:古代ギリシャで、他の力によるのではなく自らのうちに始源をもち生成変化するものの意。 存在:何かがあること、またあるもの。有。 「現象」と「存在」は同じ対象の分類方法のちがいのように感じます。 そうすると、世界は「自然」と「人工」に分けられて、それらは現象にすぎないとして表現すれば「自然現象」と「人工現象」、実体があるとして表現すれば「自然物」と「人工物」。 ただ、人間の活動も自然の一部と考えれば「自然」と「人工」の区分も曖昧になり、それらも分類に過ぎないということになりませんか? あと、「存在の多様性」よりも「現象の多様性」の方が時間で刻々変化しそうなので多様性はありそうです。 ただ「自然の多様性」と表現したときに他のふたつと性質が異なる感じがしますが、これは「自然」という言葉が具体的なものをイメージさせるからでしょうか? なんかわけわかんなくなってますw
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 「哲学の終焉」デカルト的コギトの無根拠化?
世界を自らの知のうちで統御・支配する力としての理性を有する人間主体概念の解体は、必然的に「哲学」の、さらには「学」一般の普遍性や無謬性の観念の否定を導く。 【デカルト的コギトの基礎の上に構築された諸認識や学派、その土台であるコギトの透明性や自立性が脅かされることによって無根拠化される。】 ポスト・モダンの現象を語った一説ですが、この、コギトが脅かされるということは具体的にどのようなことの結果として起こったのでしょう。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- 精神現象学、どれ読めば…
約10年前、なんとなくヘーゲルの精神現象学に寄り道し、楽しく読みました。 といっても、内容は今となってはほとんど記憶にありません。 当時は平凡社ライブラリーの樫山鉄四郎訳で読みました。 それで現在、「今こそ精神現象学、再読!!」という意欲に駆られているのですが、どの翻訳を読もうかな…、と。 ご意見いただけたら幸いです。 ちなみに私、ドイツ語力はゼロ。その他の語学もヘーゲル読解は土台無理なレベルなので、和訳でお願いします。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- 『空』という文字を使わずして・・・・・
あの有名な般若心経の中に在る言葉『色即是空、空即是色』の意味を『空』の文字を使わずして論じた文章を見つけました。そこで此処に挙げてみます。 「物心不二観 主観の心象と客観の物象とは、本(もと)同一絶対観念界の故に、主観は能(よ)く客観を寫象し再現し得(う)。全く本質にして相ひ乖違(かいい←そむきたがうこと)するならば認識を可能ならしめざるべし。自ら之を実験(←実体験のこと)するに甚(はなは)だ、然らざるべからざるを信ず。(然らざるべからざる←分かりずらいですが強調した表現、かと思います) 然(しか)るに何故(なにゆえ)に主観客観は同一の本質が相ひ反対せる二現象となるや。答へて、能観の心と所観の物質とは、本(も)と一体を両方面より見たるものなりと云ふ事を得べし。如何(いか)にとなれば物体は外面より之を認識する事を得るも、主観は自ら観ずる外に之を識る由(よし)なし。然れば自己の内面は心にして外面は物質なり。 他の(←他者の)内面は之を意識するに由なきも、理に於いて一致すべき必然の規律あれば、他も自己と同じく内面は精神なり。此の理はすべての有機物を以て現存にまで推理する事を得。故に一切の外観は物質にして内面は心霊なりとすれば、能観と所観と、現存と意識とは同一の本質にして、内面の動機、外面の因果と現るる同一の活動を、二面より見たるに外ならず。 主観と客観とは同一の絶対観念態の内外二面の現象なりとせざるべからず。 故に主観客観は相対的規定の人間の方面より見たるものにして、本来一大観念たる物心不二なり。 之を色即是空空即是色と云ふ。物質が内観すれば観念にして、観念を外観すれば客観なり。故に同一観念態の内外二面なり。此の統一を絶対観念態と云ふ。故に全宇宙は全体客観物体なると共に、全体観念界なり。」 ☆ どうでしょうか。 『空』が意味する処の概念はこれまで多くの方々が“研究”されて、各界で発表されていると思いますが私が接したものは何れも、もう一つ判然としないものばかりでした。『空』の概念がどうもつかめないのです。 でもこうして、「“色即是空空即是色”とはこのことである」とはっきり示されると、これまでのもやもや感がいくぶんか、すっきりとしてきたように思うのです。 また今回心に残ったのは「内面の動機・外面の因果と現るる同一の活動」という言葉です。 皆様はどう思われますでしょうか。 ご意見など頂ければ、と思っています。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 尺度について
現在看護研究をおこなっています。 スタッフへのアンケートをする予定ですが、 尺度での評価も要求されています。 尺度というのはアンケートの前後でとってもよいものか 一度しか使用できないものなのか教えてください
- ベストアンサー
- その他(学問・教育)
- 尺度について
AutoCAD LT(2006)を使っています。 レイアウトでビューポートの尺度を1:1に設定しました。 ズームなどをすると尺度は変わるのにビューポートの表示は1:1のままです。モデル空間に切り替えても、表示はそのままです。 ほかのレイアウトを見た後に、もう一度そのレイアウトに戻れば、正しい尺度が表示されますが、これもそのレイアウトがモデル空間になっていると1:1のまま表示されていて尺度が変わったことに気がづきません。 何かの拍子に少しだけズームしてしまった場合など気づかずに印刷してしまい困ります。 ロックをするという方法もあるのですが、一度ロックをかけてしまうと、移動ができなくなるので困ります。 尺度だけを1:1で固定しておく方法や、尺度が変わったらすぐに気が付くような方法はないでしょうか?
- ベストアンサー
- CAD・DTP
お礼
ありがとうございます。 >>簡単に言うと、それがへーゲルの信念だから、ということになるんだと思います。 自らの尺度を相手にも客観的に示すことができるというのが、信念と理解していいでしょうか? >>照ってした懐疑主義の上では、日常的な見方だけでなく、哲学的な見方や、それを疑うことすらも疑わざるを得ません。 価値判断の基準が必要ということですね。 >>ですから、自らの内にある、これこそが正しいはずだという、結局は心の叫びに従うしかない。 即自かつ対自という尺度を相手にも示すということでしょうか。 >>それをへーゲル特有の弁証法と絶対知へのプロセスと絡めて考えられたのがへーゲルの言う「客観」だと思います。 ここはひたすら原典解釈しかないですね。 ありがとうございます。 対話の中で少し理解が深まりました。