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現象と自然と存在の多様性
辞書の意味だと以下になります。 現象:感覚や意識にあらわれるもの。 自然:古代ギリシャで、他の力によるのではなく自らのうちに始源をもち生成変化するものの意。 存在:何かがあること、またあるもの。有。 「現象」と「存在」は同じ対象の分類方法のちがいのように感じます。 そうすると、世界は「自然」と「人工」に分けられて、それらは現象にすぎないとして表現すれば「自然現象」と「人工現象」、実体があるとして表現すれば「自然物」と「人工物」。 ただ、人間の活動も自然の一部と考えれば「自然」と「人工」の区分も曖昧になり、それらも分類に過ぎないということになりませんか? あと、「存在の多様性」よりも「現象の多様性」の方が時間で刻々変化しそうなので多様性はありそうです。 ただ「自然の多様性」と表現したときに他のふたつと性質が異なる感じがしますが、これは「自然」という言葉が具体的なものをイメージさせるからでしょうか? なんかわけわかんなくなってますw
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No.3です >>> 自然:古代ギリシャで、他の力によるのではなく自らのうちに始源をもち生成変化するものの意。 以上の定義は「自然・じねん」に近いと考えてよろしいでしょうか? そうであるならば、古代ギリシャの哲学はキリスト教思想とは違って東洋思想と共通点が多いですね。 <<< ですが、 >>> 自然:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6 語法 [編集] (中略) 古代ギリシア:ピュシスとノモス [編集] 古代ギリシアではピュシス(自然)を世界の根源とし絶対的な存在として把握された。対立概念にノモス(法や社会制度)があり、ノモスはピュシスのような絶対的な存在ではなく、相対的な存在であり、人為的なものであるがゆえ、変更可能であると考えられた。F・ハイニマンは古代ギリシア人の思考方法の特徴のひとつにこのような対立的な思考(アンチテーゼ)があるし、このピュシス/ノモスの対立を根本的なものとした[2]。またこの対立はパルメニデスのドクサ(臆見)とアレーテイア(真理)の対立の変形としてエレア派が行ったともいわれる[3]。古代ギリシア語におけるピュシスの意味は「生じる」「成長する」といった意味をもっていた[4]。 <<< とあります。wikipediaの記載が、必ずしも正しいという訳ではないので注意が必要ですが、二項対立(二元論)の片方として捉えられていたのは間違いないでしょう。 河合隼雄氏の見解では、旧約聖書に起源を求めていますが、自然と人為の二元論の根底は、やはりギリシャ時代にさかのぼるのかも知れません。
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- 来生 自然(@k_jinen)
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自然という概念には西洋的な視点と東洋的な視点が混在しています。 自然を「しぜん」と読む場合、特に西洋的な視点では、「人為」との区分が念頭にあります。 一方で、自然を「じねん」と読む場合、歴史的な背景を考慮しなければなりません。日本に「自然」という漢字が老荘思想の一部として唐からもたらされ、「オノズカラシカル」(自然・じねん)という概念が形成されたようです。その後、近代になってNatureという英語に「自然」という訳語をあてはめたために混乱が生じたとされています。 ※上記歴史的背景は「宗教と科学の接点」 河合隼雄、p.142にて、柳父章、『翻訳の思想 「自然」とNATURE』、平凡社、1977等を引用して記述されています) 更に詳しく述べられている部分を引用しておきます。 >>> 「宗教と科学の接点」 河合隼雄、p.144-145 「自然」を客観的対象としてみる態度の背景には、キリスト教による人間観、世界観が強く存在していると思われる。聖書には、神が世界を創造し、人間を創造するときに「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、それに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」(創世記一章二六)と言ったと述べられている。ここに、(中略)他と自分とを明確に区別し、他を客観的対象とし得るような自我が成立することになったと思われる。そして、その自我が「自然」を対象として観察し、そこに自然科学が発達することになったのである。 このため、「自然(ネイチャー)」は西洋において科学の対象となるし、「自然(じねん)」は東洋において宗教のもっとも本質にかかわるものとなったのである。 (中略) 中国における老荘思想においては、自然は「物我の一体性すなわち万物と自己とが根源的に一つである」ことを指す(中略)自と他の二元論が存在せず、自分は即ち世界、心はすなわち世界なのである。 <<< したがって、現在では、両者の視点が混在しているのは当然のことと思いますし、逆説的に言えば、どちらか一方の考え方に固執することなく、複数の視点・論点から見ること、考えることが可能であると捉えるべきでしょう。
補足
かなりスッキリした回答ありがとうございます。 >一方で、自然を「じねん」と読む場合、歴史的な背景を考慮しなければなりません。日本に「自然」という漢字が老荘思想の一部として唐からもたらされ、「オノズカラシカル」(自然・じねん)という概念が形成されたようです。 自然:古代ギリシャで、他の力によるのではなく自らのうちに始源をもち生成変化するものの意。 以上の定義は「自然・じねん」に近いと考えてよろしいでしょうか? そうであるならば、古代ギリシャの哲学はキリスト教思想とは違って東洋思想と共通点が多いですね。
- 雪中庵(@psytex)
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言葉の定義に悩まれているようですが、定義すること自体が 言葉によるのですから、あなたがそう思えばそうです。 悩むだけ時間の無駄です。 もし、違う人が違う事を言っていても、どちらが正しいという こともなく、正しいと感じた方が正しいのです。 言葉の如何によって、対象の方が変わることはありません。
お礼
回答ありがとうございます。
- myu0812
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こんにちは。 とりあえず、私が思う「現象」と「存在」の定義?といたしましては。。。 「存在」というものは、すでにあるもの・あり続けるもののことだと思います。 「現象」はなかった所に発生することだと思います。 例えですが「神」というものは「存在」ですか?「現象」ですか? 辞書のことでいえば「現象」という定義になります。神というのはすでにあるもんですが感覚で意識するものだと思うからです。 しかし「神」がいる(ある)ことを知っているから「存在」になると思います。 「竜巻」は現象ですか?存在ですか? 辞書でいえば「存在」になると思います。竜巻というものはあるものだからです。 ですが、まったくなかった空間から(何かしらの原因があって)竜巻が発生するので「現象」に当たると思います。 こんな感じで、定義の方はお答えになりますでしょうか?
お礼
回答ありがとうございます。 少しすっきりしました。
お礼
回答ありがとうございます。 なるほど二元論ですか。 よく調べてみます。