• 締切済み

存在とは?

 「実在しないものは、存在しない。」という考え方で、神を否定することは可能でしょうか?  頭の中で思い描くだけの「存在」(又は、聞いただけの「存在」)は、「存在」とは言えない気がしますが、如何でしょうか?  後、「存在」については、カントとデカルトが対立していたみたいですけど、決着はついたのでしょうか?

noname#68116
noname#68116

みんなの回答

noname#70164
noname#70164
回答No.13

神が実在しない、と証明出来れば可能かも知れません。 頭の中で重い描いただけのものでも、それが明らかに存在しない、と示せない限り、否定は出来ません。因みに、「存在する」ことの証明は簡単ですが、「存在しない」ことの証明は困難を極めます。 官途とデカルトが「存在」に関して対立した、と云う史実は見当たりませんが。それぞれの論が食い違っただけのようですので。この疑問はどこから湧いたのでしょうか。基本的にカントの哲学はデカルトの哲学をかなり継承しています。

  • dogendd
  • ベストアンサー率15% (2/13)
回答No.12

この宇宙そのものがある秩序、法則のもとに運営されているとしたら、その力とはなんなんでしょうか。そういう意味では十分神は実在しているといえるのではないでしょうか。 どのみちこの宇宙は無から始まったわけだから、そうすると空間や時間はどこから来たのか、今後、空間や時間はどうなるのか。どうみても知ることは不可能ですが、宇宙がある限り、むしろ神の存在を証明しているかもしれない。あと、自分が認識しなければ、この世界はない、存在しないのかもしれません。自分の認識があって、はじめてこの世界のものは存在できるということです。

回答No.11

No.10です。 >つまり、「分からない」。 って私の答え全く理解してないですよー。私上の二つの質問にお答えしたつもりなのですが。サラッと読み流したのでは? んーそれとも、神が存在するかどうかをいいたかったのですか?それは自分の思ってる答えで良いんじゃない。としか言いようがないですね。個人的意見は、形や感じ形を問わなければ、存在はしているよね。 例えば、本の中とか、信じている人の中とか、その他いろいろ。そう言う意味でも、 >「実在しないものは、存在しない。」という考え方で、神を否定することは可能でしょうか? は、神を否定するのは難しですね。 そもそも「実在」自体がある意味、感覚的な事と言うか認識的な事なので、(そうは理解できないでしょうが)はっきりした事は今の段階ではなんとも言えないことも確かかも。

回答No.10

 >頭の中で思い描くだけの「存在」(又は、聞いただけの「存在」)は、「存在」とは言えない気がしますが、如何でしょうか? それは、肉体的感覚(五感)で感じることが出来ないからそう言う気がするだけ。だからと言いて神がいると言っている分けではないですよ。 単にそれを、否定することは、突き詰めていくと、人間社会を否定する結果になるだけです。例えばお金の価値は?社会のルールは? 別の見方をした場合、人間知っていることより知らん事の方がおおいんでない?ってことは、 >「実在しないものは、存在しない。」という考え方で、神を否定することは可能でしょうか? は無理。っつー事でしょ。

noname#68116
質問者

お礼

 つまり、「分からない」。 でも、それが回答に成り得るのかが・・・。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.9

『悪魔の証明』が答えとしていいんじゃないでしょうか。 実在しないことを証明できないという結論ですかね。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E8%A8%BC%E6%98%8E
noname#68116
質問者

お礼

 それも一つの回答ですね。

  • reki4649
  • ベストアンサー率21% (116/539)
回答No.8

私は神が存在するか私は知らないと言う事を知っている。

noname#68116
質問者

お礼

 それも一つの答えでしょうね(ある意味)。

noname#74627
noname#74627
回答No.7

神の捉え方によって変わってきます。 自然法則の事を神とするならば、考え方で神を否定することは できません。 頭の中で思い描く存在は脳で物質的にも精神的にも変化があってのこと ですので、確かに存在はします。 ただ、思念(精神)の本質は物ではないのでその意味では存在しているとはいえません。

noname#68116
質問者

お礼

 確かに捉え方、何処から見ているのかで違う気がします。 ただ、それでも共通した回答は見出せないか?と最近疑問に思っています。

  • AZKARAM
  • ベストアンサー率17% (16/89)
回答No.6

>「実在しないものは、存在しない。」という考え方で、神を否定することは可能でしょうか? 実在しないものはあなたには無縁でしょ。 そう判断したわけですから。 問題はその判断の根拠です。 これについて哲学者たちや仏教者たちが古来議論して いるのです。 それから、一言付け加えておくと、ごちゃごちゃ書く人は 自分でも分かっていない人です。人に説明できないものを 自分の中でいじくっているだけ。

noname#68116
質問者

お礼

 では何故、決着が見えないのでしょうかね? 自分自身の判断の問題でしょうか?

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.5

パーリ語の仏典の仏教を学んでいるものです。 私なりに思ったことを書きますね。 現れる性質のものは滅する性質を持つと考えてます。 物事は常に変化生滅していますね。 変化が有るから五感意識で物事を認識できるのだと思います。 認識できるものは変化するもの。認識自体も変化し続けてますね。 影響を与えるためには与えるものと与えられるものの変化というものが必ず起こる考えてます。変化が無いなら影響を与えられないと。 「存在しているというもの」は「影響を与え合えるもの」ともいえると考えてますので、僕の概念では存在しているといったら不完全で不安定で変化生滅し続けて影響しあっているとなります。 頭の中の概念も一つの変化生滅し続ける現象で上記の意味で存在はするでしょうね。 もし「完全で変化しない」という概念があるならそういった概念が変化生滅しながら存在しているのだと思います。 後の概念自体は変化生滅しているのですが。 矛盾成り立たない論ですね。 物事は我々生命も含めて、いろいろな変化生滅のシステムが絡み合って、一時的に条件がそろってそれに名称をつけて呼んでいるにすぎませんねw 「私」自体も一時的で変化生滅していて固定的なものではなく「私という感覚」は錯覚だろうと思います。 何か参考になれば幸いです。

回答No.4

おはようございます、point-8さん。 「客観そのものは存在しない」 かなりまえにこの言葉と対峙したことがあります。 あぶなく呪術にかかったようにフーっと 「客観そのものは存在しない」と同意しそうに… いや、一旦は同意した…その瞬間、 「おぃおぃ」と、相棒の声に“ハッ!?”と すぐさま我に返り、前言撤回(クーリングオフ) あぁぁ、、、あぶないあぶない あぶなく、我を失いかけそうに寸前のところでセーフ。ホッ-。。。 【QNo.49659 「うる覚え」って?】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa49659.html 【QNo.186872 誤字・脱字、言い間違い、…そして誤解?】 ANo.85 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa186872.html 【QNo.498388 書き方について】 ANo.2 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa498388.html

noname#68116
質問者

補足

 何が言いたいんでしょうか? 自分の読解力では分からないです。

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