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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:デカルト I think threfore...)

デカルト「我思う、故に我あり」の意味とは?

このQ&Aのポイント
  • デカルトの「我思う、故に我あり」という言葉に関して疑問があります。英語のプレゼンを観ており、そこで話者が引用してデカルトの英訳 "I think, therefore I am" と述べたのですが、そのときの和訳が、「私たちは考えるために存在する」とありました。
  • デカルトは「考えている」だから「自分がいるという確証はもてる」という意味で使っているように思うのですが、上の文のように「考えるために」というような狭義な解釈もできるのでしょうか。
  • つまり、大げさに言えば「何かを考えさせるために、人は作られた」とも解釈できるのでしょうか。実際、前後の話を聞く限り「私たちは考えるために存在する」と訳したほうが辻褄があいそうでしたので、訳自体は間違ってなかったと思います。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.4

この質問に対しては、 わたしの「《ウンコ》は哲学になるのか?」という質問への回答(ベストアンサー)に 素晴らしい回答が寄せられています!! http://okwave.jp/qa/q8308076.html (ラ)"Unco ergo sum." (仏)"Je unco donc je suis." (英)"I unko so am I." (西)"Unco luego soy." 《ウンコ》は、《思惟》を超越している、凌駕している!! ヒトは、《ウンコする》という行為によってこそ、己れの存在、生を実感できる!! 《ウンコ》は、デカルトを越えている!! デカルトの主張する《考える私》は、人間という自然を離れている。 そして、《理性》の肥大化を招いてしまった。 人間は自然と離れた存在になってしまった。 《ウンコ》、《ウンコする》ですよ。 この行為を通じて、人間は己れの自然を取り戻し、生を実感できる。

noname#244557
質問者

お礼

回答ありがとうございます. 半端なくふざけた回答にみえて,以外と納得.笑 自分の疑問に置き換えた場合,「うんこをするために生きている」...実際うんこをするためだけに生きてるわけではないが,生きるうえでは重要なことである.しからば,それが全てではないが,人としてのありようの一部として「うんこをするために生きている」とうのは正しいわけですね. つまり,デカルトの言葉においても,考えるということを人としての「一部」ととらえれば,「私たちな考えるために存在する」と,いうことができるわけですね.って解釈してよかったのかな?(^^;

その他の回答 (3)

noname#221368
noname#221368
回答No.3

 「私たちは考えるために存在する」も、「考えるから存在する」の意味に取れます。プレゼンの文脈を見ないと判断できないような気がします。  英語プレゼンは誰も読めないかも知れないので、その和訳の方をここに揚げてみてはどうですか?。

noname#244557
質問者

お礼

回答ありがとうございます. よはり考えた所,自分的には言えるのではないかと思っています. 文章は 「壮大なアイデアを実際に証明したのです.  巨大な素数に関しても  存在を予測していたものを実際に発見したのです.  これが人間の本質です.  人間として何よりも大事なことです.  心の友,デカルトがいうように  "I think, therefore I am"」 となっています.

回答No.2

 こんにちは。  その命題が生まれて来る歴史的な文脈は 次のように捉えられるようです。それを紹介します。  西暦400年前後を生きたアフリカのローマ市民であるアウグスティヌスなる人間は 早く現われ過ぎた近代人だとも言われます。そういう人間の思惟のあとと絡めて捉えなければならないと考えます。  まづ アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り》から デカルトが《われ考える ゆえに われ有り》を導き出したことには 独自性があると パスカルが議論しているところです。  ▲ (パスカル:アウグスティヌスとデカルト)~~~~~~~~~~~~  わたしは公正な人々に尋ねたい 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。  (パスカル:《幾何学の精神について》2.1657)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしているようです。  ちなみに前もってですが 《あやまつとき あたかもわたしは我れをうたがい おのれのあやまちを認めることが出来たときには わたしは我れに還る》 このような過程において《わたしはわたしである》という存在の自覚を言っているようです。  アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようです。  ◆( アウグスティヌス:その《われ》) ~~~~~~~~~~~  だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。  ・・・だから精神は 知解力が存在し生きるように 自己が存在し生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。   * 念のために この点についてのデカルトの文章を挟みます。   ● (デカルト:われ)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想が    そのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われう   るのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは言   われない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り来   たったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものである   と仮想しようと決心した。    (方法序説 4)   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。  さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。   * この点をデカルトが 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力    を持たない》と言ったと パスカル(▲)は書いていた。  だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特なしたがって卓越した仕方による。・・・  さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(* あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。  或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。  たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。  それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(* または《わたし》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・   (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文(●)のあとつづけて デカルトが  ● (デカルト:承前) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そうするとただちに 私は気づいた。私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・  (方法序説 2)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と書いたことは よく知られているところである。  これらに対してパスカルは アウグスティヌスの思惟からのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。  ▲ (パスカル) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  デカルトがこの偉大な聖者(* アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。  ・・・なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。  (パスカル:幾何学の精神について 2)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことば(◆)を《偶然に言った》と述べて けなしているようですが 評価は誰の目にも明らかだと思われます。  アウグスティヌスを顕揚するかのようですが 古代人の思惟が のちの時代よりも劣るとは言えないでしょうし むしろ あとになると 後退しているようにさえ思われますが どうでしょう。  つまり 《あやまつなら われあり》というとき あやまちに気づいたわたしは とうぜんそのことを振り返って 考えるのです。その考える主体は あやまちに気づいて いわば我れに還った我れであるのですから そこの部分だけを取り出せば 《考えるとき われあり》となるはずです。  つまりここより わたしなる人格の全体の中からいわゆる理性が 分立しそこから単独で特化しあたかも独立してしまった。かも分かりません。近代がです。

noname#244557
質問者

お礼

わざわざ長文をすいません. こういった背景・思考などをもとに自分なりにも考えてみたいと思います. 回答ありがとうございました.

回答No.1

その言葉の前提となった、懐疑主義について知らねば、 その言葉の価値を理解することはできません。 哲学的考察において、あらゆる存在性が確証のないもの になっていた時代に、「世界をなす他のあらゆるものの 実在は疑われても、少なくとも『自分が考えている (そうして疑ったりしている)』という事において、自分の 存在だけは疑い得ない」という反撃であって。

noname#244557
質問者

お礼

そうですね,自分自身哲学という分野は苦手ですが,この言葉自身は非常に納得のできるものと思っています.デカルトについても興味が湧いてきたので,これに関連する著書をよんでみたいと思います. 回答ありがとうございました.

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