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私は私にとって何者?
私は私にとって何者であるか この疑問がわかりません。 自分なりに考えたところまで述べさせていただきます。 私という存在は、他者に対しては、その都度の役割的ペルソナとして規定されています。(「親に対して私は息子」「医者に対して私は患者」など)でも、私は私に対して役柄的に関わるものでないですよね?では私は私にとって何者なのだろうと疑問に至りました。 私は哲学というものをそれほど勉強したことがないのですが、デカルトやフッサールがこの事を研究したことは知っております。 彼らの考えを絡めてこの疑問のご回答お願いします。
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私は私以外のものではないというように一種の空白ではないでしょうか。つまり実体がないものではないでしょうか。人は実体がないものにも名前をつけます。自分というのは自分でないものに対面しているときにのみ存在できます。えらい哲学者がどういうように考えているかは勉強したことがありませんが・・・
- JidousyaGaisya
- ベストアンサー率23% (45/189)
http://soc1.h.kobe-u.ac.jp/graduated/shuron/onishishuron.html 此処のウェブページを御覧になって下さいませ。
- tumaritou1
- ベストアンサー率28% (260/913)
この疑問が解ける事を『自分自身が分かった』と言います、つまり『悟りが開けた』といいます。この事を論理的に説明して後で、そうなる為の方法なり、方向性ををあげて見ます。 貴方が感じる疑問は、実の所、貴方自身の、『この答えが分かる者からの』問題提起です。従って他の人の意見や、参考資料などは、本当の意味では余り参考にならないかもしれませんが、自問自答するばかりでは、又埒が明きませんので、学ぶ事の参考になればと思います。 始めに理論です。人間の脳内には二つの意識が存在しています。この事を科学的文献から紹介します。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が『それぞれ独立した意識』を持っていることを実証した。” この場合左脳に存在する意識が『自我意識』です。自我意識は言葉を持った意識です、世の中の事を『頭の中で、言葉として再構成して』感情が湧き上がっています。そうして世の中を『合理的に、分析的に、論理的に、効果を考えながら』生きる生き方を選んでいます。その結果が『期待して生きる事』を選ぶ息方に繋がっています。 右脳の意識は、『無意識の中に封印された形で存在しています。』そのために、自分では気が付かないように出来ています。そうしてその機能は自我意識とは、全く異なっています。 違いの一つは『言葉』を持っていません、言葉では表現する機能を持っていません。その主な機能は『心と身体を休ませています、そうして命を働かせています』 細胞分裂する時から働いている働きです。つまり、命として母親のお腹に授かった時点から働いている者です。蜘蛛は蜘蛛として、キリンはキリンとして、命を働かせています。動物をその動物としての種としての働きです。 人間を人間たらしめている『記憶』に近い機能です。心臓の働きから、呼吸する事や、ホルモンの調節まで全ての生命維持に関する、その場における最適な状態を作っている働きそのものいです。そうして生まれる前から『不安や安心』と云う事を始めとして、全てを知っている者としての働きです。 聖書における天国に住める存在『幼子』と云う言葉は、脳の機能が、未分化と云う意味があります。心が未だ一つの為に『矛盾や対立や分裂』をしていないと云う意味です。 機能分化が進んで、心が二つに分かれる時、疑問や悩みや、心を病む機会が増えてきます。この事を『知恵のりんごを食べたために、天国から追放された』と云う表現方法をとっています。 キリスト教における『罪の意識』=原罪は、仏教に置ける『業』と同じです。自我意識が『何者かに』心に圧迫を受けると云う意味です。或いは『何者かに』疑問を突きつけられる、と云う事でも可能と思います。 疑問も悩みも苦しみも、生き難い想いも全てが、自分自身の心からの圧迫です。自我意識を圧迫している者が、自分の心に内在していると云う意味です。この背後に存在する者の正体が分からない事から、人間には、『例え誰と居たとしても、一人になったとしても』漠然とした不安が内在する事を意味します。 不安になりやすい、或いは神経質な人が、分からない、漠然とした、不安に怯える事の原因が、自身の中に内在しています。この解決方法を、洋の東西を問わず『宗教』がになってきた事になります。 お釈迦の教えは『内在する自身の、不安を起こしている者』を知りなさい、と云う事になります。『心の矛盾』が醸し出していたものが、漠然とした不安や疑問と云う事になります。その者との出会いで全ての疑問や不安が解消すると云う意味です。 キリスト教的な言い方をするならば『内在する識られざる、神に会って和解する』と云う事です。右脳と左脳の機能の違いが判らない事から、今までは心同士に争いが起きていた事を意味します。 今度は違います、お互いにホットラインが通じるために、二度と『心が争う事をしなくなります』強迫観念の、恐怖症も、自律神経失調症も、悩みも苦しみもなくなります。 飽く迄も『心の中は静寂に包まれます』この境涯が『涅槃』です。『心の矛盾』が解消した境涯です。 そうなる為の手順です、心を病む人も、神経症の人も、強迫観念の人も、自律神経失調症の人も、疑問を抱く人も、全てが『心の矛盾』の結果を、そう感じています。 感情が湧き上がる心も自分の心ですが、感情を湧き上がらせてている心も自分の心です。『薬』とは、湧き上がる感情を感じさせなくする効果を持っています。素直に受け取る時。
- CatwalkPoison
- ベストアンサー率25% (7/28)
錯綜体です。
- ratesu
- ベストアンサー率13% (16/122)
全て。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
私として生きている限り、私が私に関っているのだと存じます。 思索や追及では答えがないといえます。 無論科学認識で答えを求めようとしても無理だと存じます。 人それぞれのお考えがありましょうが、私は自分の歩みの中で、方向として見つめています。 ヒンドゥに誕生したParamahansa Yoganandaの思想です。
この世界は、仮の世界で、不調和世界の脳と、調和世界の神が、出会うために作られました。だから人の心も、脳の自我と、神の自然の無我が、合体して出来ています。脳に対して自然、個に対して全体、自我に対して無我、脳の論理に対して自然の情緒、頭の脳に対して胸の心、脳の科学に対して神の自然の超能力、脳の自我の対立に対して神の無我の調和など
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
私という存在は、他者に対して役割的ペルソナでいいのですが、 そのペルソナとは何者なのでしょう。 こう考えます、他者もペルソナも私の内部存在であって、私の 一部と捉えることができると思うんですね。 だって、既に内部にあるじゃありませんか。 そうすると、私にとって私とは世界であり、森羅万象であると いうことになります。
- バグース(@bagus3)
- ベストアンサー率29% (1973/6719)
それは答えのない疑問です。 考え続けて自分なりの答えを作るのはかまいませんが、 真理に到達すると思っては間違いです。 人生とは何か。人間とは何か。自分は何者か。 人生の意味は?目的は? 生とは、死とは。 これらは答えのない問題だという前提で 考えないといけません。