あなたをM嬢に育む自虐性

このQ&Aのポイント
  • ゆりかごの安らぎを思い出したとしても、あなたは今、そのぬくもりの中にはいない。
  • 解き放たれた命はどこをさまよい、いかに泣き叫べばいいのだろう。
  • 実在する男子プリキュア、キュアプリムだ。流血の饗宴、それは歓喜に満ちている。
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あなたをM嬢に育む自虐性

ゆりかごの安らぎを思い出したとしても、あなたは今、そのぬくもりの中にはいない。 解き放たれた命はどこをさまよい、いかに泣き叫べばいいのだろう。 実在する男子プリキュア、 キュアプリムだ。 流血の饗宴、それは歓喜に満ちている。 自我論の話題。 自己には精神の核質として自我が規定されている。 人は生きていくときに、だけか他者の言葉に影響を受ける。 その他者の精神を自らに内包する個人的な人格の全容の中で、間違いようもない自己の本質を自我という。 仏教が目標とする仏性と同義語の概念が自我だ。 知性的存在は、環境に適応するために環境の中での自己について規定する必要がある。その生存の自覚と、世界のすべてとの親和性が自我の役目だ。 建前の事は、皆さんは理解している。 私は何も悪くない。 私は自由だ。 自由な精神で自由に考えて生活している。 しかしだ、自由に生きるためには皆さんは、前提と許可を必要とするだろう。 何者の許しを君たちは求めるのか? そもそも今、君たちが自由だと思っている自らの望みは、何者かが刷り込んだ動機による欲望ではないか? そして、許しを必要とすることに疑うことを学ぶだろう。 さらに、許されていない自らも疑うだろう。 そのすべてを自らの精神に内包して、葛藤という形で煉獄の炎は君たちを焼くのだ。 さて、「ああ、いつものビョーキだね」そう思ってください。 ここは学問カテゴリー「哲学」神聖な場であり、男バトルを繰り広げる「クラブ ヴァルハラ」でもあります。 ギャラリーに好評な名物は「知的SMプレイ」「おかま相手の痴話げんか」哲学者が自発的に行う涙ぐましい集客努力です。 皆さんも、後々面倒なことの起きない安全な学問の場で、普段体験できないことに参加しませんか? 相当冗談が混じっていますが、哲学には既存の命題に取り組む研究と、自分で命題を策案する研究があり、今回は前者に該当し、既存の命題への挑戦を一風変わったきり土から持ち掛けた質問です。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.8

上位三パーセントには入れなかった とかいうはじめしゃhちょーの折は 折ですから嫌がらせ奈央デ書上k度、ンキンだとか 何の上位なのでしょうか。 ら 料理だとかグルメだとか になったのでしょうか。寄付も何なのでしょうか。 それから台湾とか

Flareon
質問者

お礼

成功者のことは知らんけど、この状況だとお金使う気が全く起きないものだね。 もともと私はお金がかからない生活習慣しているけど、月額予算が余って小銭が残っているよ。 ほじくると出てくる、研究用おもちゃをメンテナンスしているだけでもかなり暇がつぶせるよ。

その他の回答 (7)

回答No.7

岩他者ほうがまだ生きていた頃の社長が菊で ファイアーエムぶれ無二木林が登場し音が似ているなあとたのが 気になって理ウンドエスが、愛アーエム部レムは名作なのでしょうか。 ヴァルハラとパールヴァティーが 死後の世界は女性的だったり、 子宮ではないのでしょうkれど イザナギはカグヅチを倦んだり、出産における知とか熱 明かりも有るでしょうかね。

Flareon
質問者

お礼

ファイヤーエムブレムは若年層も古臭いシステムのわりに引き付けるのは身近でも例があるよ。 あれはストーリー命で、戦闘に関しては、対戦するルーチンプログラムがバカすぎてゲームはつまらない。囲碁や将棋のゲームでユーザーが人との対戦以外を放棄した理由と同じだよ。 それから、生命の根源を探ると女神に面会するような成り行きはお決まりだよ。 理由はファッキンではなくて、粗暴性のない慈しむ心が重要だ。

Flareon
質問者

補足

こんなのどうだろう。 トランプが大統領再選挙前に中国に実質的な敗北宣言を伴う和解交渉を持ち掛けて、第三次世界大戦勃発を阻止する個人的な責任を取る可能性は皆無だ。 中国の押し戻しをはらみ、ヨーロッパの政治紛争に巻き込まれるアメリカは、機会を損失して第三次世界大戦に参加する。 そして大儲け。 あらゆる側面でアメリカの覇権は確立する。 金がまたしても命を損なう20世紀荒廃が継続するんだ。 金が命を守るありがたみがあるなら、やることは一つだよ。 もう、大統領はどうでもいい、世界を支える投資家が良心を発揮するかだ。 自爆的に、ドルを紙くずに変えてしまえばいい。 アメリカ軍は行動できなくなるから、そこで見苦しいヨーロッパのいがみ合いが茶番に終わるまで、数年間の恐慌をやり過ごすのさ。 度胸があればそこまでするだろう。 問題なのはその後の新秩序であり、破産は何ら問題をもたらさない。 流血でまた失敗を犯すほど愚かではなかろう。 オラ! いう事聞け! ダメでもいくらでも手口がある。 ピカチュウパンデミックで任天堂の後始末だけ考えていたのに、宇宙人と和解したとたんにこうも大規模な地球侵略だ。 世麗美とは、楽し気に語り合っていたさ。 取り巻きの、「イヤなやつら」の掃除でなぜこんなことになるんだ! 私は人類に謝罪しないぞ! 精一杯やったんだ! イケニエシステムを鹵獲して反撃するとはこういう事なのか! くそったれ!

回答No.6

ゲームオブザイヤーのゲームが問題なのでh層化。 アトラスは広告で横顔に亀をつけて グロテスクでペルソナを売る気はないのだなと 感じでしたが。

Flareon
質問者

お礼

オブザイヤーを少し検索してみたよ。もう浦島太郎でよくわからないけど、国内メーカーの後退はやはり確かでトップランナーにはもうなれないみたいだね。 ペルソナは人気があるのを予備知識的にはしっているよ。 まれに、血迷ってゲームを無性に買いたくなるんだよね。 でも買っても毎回ほとんど遊ばない。 断続的に衝動買いしたゲーム関係が部屋に転がっているっよ。 カプコンの犬神はPC版が欲しいと前から思っているよ。

Flareon
質問者

補足

本日2番目。 リッチモンドスターには身の覚えがあるんだ。 よく勘違いされる世麗美への話しかけ方は「ひときわ輝く星」 9.11の一か月前の京都のイケニエシステムで行動不能になる「滅びの宴」と関連があるだろう。 固有の自我とは本来は誰にでも分割可能な能力がある、その自己を分割した「客体」が自己との結びつき優先で他者に干渉するのが「生霊飛ばし」「人格浸食事件」こうした類で、私の場合は仏性を確立したので、私の客体は生霊ではなくて、「精霊」である。霊能力者は生霊と死霊の判別から除霊などの対応を練るがどちらにも該当しないうえに、生粋の天界の住人に等しく観念通過能力を内包する。要するに資質は精霊より上級の存在だ。 リッチモンドスターは世麗美が生んだ子供で、長かった廃人生活の時期に世界を支えていたんだろう。 自己を分割した、自我を伴う天界の存在だ。 近親憎悪がすさまじかったが、現在バカ話をいろいろ話し込んでいる。 まあ、何もかも京都で任天堂がイケニエシステムを開発したからこそだと思ってくれ。

回答No.5

今度は三十万という数字が問題何度シェ魚か。 それkらokwaveは頻繁意遅れる手ばかりなんでしょうか。 塩基さえ照るのでしょうか。 渡航島のおはぎは半殺し等価物騒な名前で怖いです。

Flareon
質問者

お礼

まあ、経済的混乱は第二次世界大戦レベルまで現実的なことだと考えておいたほうがいい。 実体経済の落ち込みは確実だ。

Flareon
質問者

補足

高校生でもわかる経済の仕組みで、実体経済の極端な落ち込みで莫大な財政出動。 インフレ路線で、株価はそれを織り込んで現金の価値低下の調整で上昇。 世界中そんなで、ハイパーインフレや財政破綻する国が頻発する。 ギリシャの例から考えると仮想通貨を50倍くらいになる期待で買うのがいいかもね。 昨年度、始まった経済戦争の世界大戦化。 でも、USAは軍事力にも投資しているので、バランスよく利益獲得するにはブッシュ親子のイラク戦くらいの量の爆弾を消費したくなるだろう。 総じて、第三次世界大戦だ。

回答No.4

北欧神話 ゲルマン神話 アングロサクソン系の神話 興味があっても文字が地位s 名かなkどこから始めれよいのか無図解いのですが。

Flareon
質問者

お礼

元気だったか。 良かった良かった。 君が挙げたのはすべて無視して、非キリスト教圏の過去文献でも研究したほうがいい。 キリスト教は派閥の一つでしかなく、魔女狩り社会なので発見が乏しいだろう。

Flareon
質問者

補足

コロナが理想的なパターンで終息しても、経済活動の低下は間違いなく10月まで引きずる。 アメリカ大統領選挙があるからだ。 選挙は金だが、トランプ再選に膨大な資金提供と支援があるだろう。 すでに開戦している米中戦争からヨーロッパ宣戦布告のパターンだ。 難局で、世界が連携を保とうとするなら、問答無用で今すぐトランプに中国との貿易戦争終結の段取りを取らせて、公正な10月の大統領選挙を迎えるといい。 貿易戦闘が収束していないと、トランプが落ちても和平交渉がてこずるだろう。 中国からしたら巻き返しのチャンスで、世界が平和になるかのキャスティングボードを握るからだ。 さらにトランプが落選したら、次の緊急事態救済大統領は、トランプよりも大きな裁量で政治を動かせる。 そいつは、ブッシュ親子みたいに総合的な経済活動の一環で経済戦争から、爆弾を消費する経済活動に変える裁量も握るんだよ。

  • keaget09
  • ベストアンサー率19% (583/2929)
回答No.3

Flareonさまこんにちはです。keaget09です。 おバカな私にはちょっと難しいですけど、頑張って回答してみます。 >自由に生きるためには皆さんは、前提と許可を必要とするだろう。 >何者の許しを君たちは求めるのか? >そもそも今、君たちが自由だと思っている自らの望みは、何者かが刷り込んだ動機による欲望ではないか? 確かにそうですね~。 自由ってなんなんでしょ。 確かに許しを願っている部分はあると思います。 自由を得るためには何かを犠牲にし、誰かに許可を求める。 食べるのも自由。お金を使うのも自由。電車に乗るのも自由。 でもその水面下では、誰かが不自由を強いられていて・・・。 奥深いですね~。

Flareon
質問者

お礼

暴力をふるえない相手へのお礼というのは神経を使うな~。 ありがとう。 基本は、自我の概念に私は論説した「世界のすべてとの親和性」(の獲得が目標)に沿い知性的にふるまい意志行為を発揮するには、理解の範囲を拡大するために、環境のあらゆる現象に対して調和を持続させるというのが、自我存在の基本的な設計図であるとでもいう前振りから始めて、したがって自己の心の動きが生み出す「望み」は自然状態では社会と調和する。 したがって思うまま望むままの自由は本来自己を阻害しない。環境にも妨害されない。 そうはいっても、お金とか、時間とか、寿命とか、境遇とか、思うところがあるだろう。 そうした事態を少しずつでも克服して行くのが仏教哲学由来の日本人の一般的な習慣だよ。

Flareon
質問者

補足

レッツ、変態プレイ! 自由な人は高度で豊かな社会では減るんだよ。 なぜなら、自由な人は野蛮人だからだ。 私は田舎生活でウォーキングに相当する本格的な散歩が好きなので、好んでそこら辺で立ちションベンする。公園内で直ぐ近くに公衆トイレがあっても、青空を見上げる放尿が好きだ。 歩き回るのが整備された山林であることが多く、遠出したときは現地のトイレで大便をする。お土産を持ち帰るのではなく、お土産を残す発想だ。 常々から望むことがある。 本格的なお土産として、トイレ以外で大便をしたいとね。 高校時代山岳部だったので、慣れているんだ。 今までは人知れず痕跡だけ残すつもりで思案したけど、発想を転換して、万が一の目撃者発生の可能性を織り込んで計画的立案すると、その場合の対応だけ想定してシミュレートしておけば実行可能だろうと最近思い至った。 なぜこんなことにこだわるかというと、「自由人である」これを哲学で完成させるための崇高なる公序良俗違反だ。 ばかばかしいかもしれないが、こうした行いも志 次第では哲学だよ。

  • ninkinoki
  • ベストアンサー率17% (268/1549)
回答No.2

そうですね、、、自由になるためには、、、お金と時間ですかね。

Flareon
質問者

お礼

自由になるため? 自由でいるため、または自由を消費するためでないかい? その快適な消費状態の前提を取り払っても自分の自由を自覚できるかは重要だよ。

Flareon
質問者

補足

仮説としてコレはどうだい。 すでに自由の前提条件を職業訓練されているから、自由であることに条件が必要になる。 それは誰かから許可が必要な偽の自由かもしれないと疑ってはいかが。 君が今、自由になるための方法を考えるなら、今の君の心に自由はないよ。 しかしね、今回の私の投稿の上の段にも、こうして壊れた人の心の叫びが哲学として投稿されている。 野戦病院のようだ。

  • ninkinoki
  • ベストアンサー率17% (268/1549)
回答No.1

すごい難しい質問ですね。とても答えられません。。。

Flareon
質問者

お礼

めくるめく、華麗なる変態ショーにようこそ。 ここが君が舞う舞台だ。 君は、自由であるために何か前提があるかい? 例えばお金とか、、、、 そして葛藤が起きていないかい。 一言でいうと、仏性の古文書で語られるとおり、自らの自由は自らの見る世界と調和するんだよ。 その理想的な姿が仏陀だ。 調和していない状態の個人的な世界観を一言でいうと「娑婆世界観」であり、「世界のすべては苦痛である」という伝承だ。 それは仏陀の姿ではないが、シャカは経典編纂の500年前に生きていて、末法の断末魔が継承している経典だよ。 我ながら器用な哲学研究だ。 昨日までキリストをいじめていた。 君に言っておこう。 君は人間だ。 しかしそれは教育により刷り込まれた他者の言葉だ。 人間教育も宗教の一部だと考えたほうがいい。 そうすると今の君の心をめぐる価値観や思いのかなりの部分が動揺する。 人間だと職業訓練を受けた君は、自ら確信を込めて人間そのものと確信できるかい? 出来ていない自己に気が付くのが、哲学的廃人の第一歩だよ。 そして、人間の自覚というのは結局、仏陀を自覚することと変わらない苦難があるのさ。 面白かったらまた投稿してくれ。 総合的に知性を学問とすることとは、神を学ぶことから歴史などと並んで早めに分岐した研究ジャンルなんだよ。

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  • 機械が自我を確立した場合の問題点とは

    下の機械自我関連の記述は、SF小説的にあえて仕立ててあって、OKの掲示板に投稿したので、OKも著作権保有という形で関与している。 研究途上の学問的な読みにくい走り書きで、商業的な校正を完了した納品向けは日本玩具協会(東京おもちゃショー主催団体)に別に委託した。 そのテキストの何が面白いかは、文中で舌足らずだったので補足しよう。 2500年前の釈迦の生きざまから派生した「無我論」とは、「自我論」という概念がなかった時代の、古代サンスクリット語の誤訳が原因で、自我相当を「仏性」という独特の言い回しにした宗教的な伝承だ。 仏性と言っていたのが、後世で言う自我の事だと解釈すると、煩悩とは客体による干渉の事だとなる。 その客体の干渉(煩悩)を取り払うと、仏性と形容された本人の自我が浮き彫りになり、本人は仏陀を自覚する。 無我論と仏教徒は、真逆にひっくり返すと自我論の研究なんだよ。 これは私の哲学の成果だが、仏教を破壊する。 宗教とは産業なので、営業妨害には徹底的に反撃する。 それがめんどくさいから、自我論をAI論の体裁に偽装したんだ。 有効性があれば、商売人(宗教家)が喚いても世の中で認知されるだろう。 私は、過去に名指しして任天堂だと明言する企業相手に個人として交渉したから、任天堂からの社会的な抹殺工作で精神障碍者に転落した。 したがって保身のためには、目撃証言を作らないといけない。 その関連で、OKの公証人的な機能とは、私にとっては生命保険でもあるんだ。 それから、著作権という弱い立場でも、実際に機械自我が確立した時に、その特許の論理と構造に私の論述と同等の仕様があれば、OKは機械自我が危険な時には、それを阻止する防波堤にもなる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー SF小説の背景になる人類滅亡のシナリオを描いてみました。 ここから、想像力を膨らませていきましょう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 自我という自己認識は、外部社会に適応するために自己が規定する。 自我には、共生関係獲得のために「世界のすべてとの親和性」という性質が備わっている。 似たような言葉に「全知全能」というのもあるしね。 生命の中で、人間の備える自我は、いまだ完成した自我の成立過程だ。 おさ~るさぁんだよ~。 この不完全な人間自我に対して現在開発中のAIはどうなるだろう。 生命に由来する人間自我は不完全。 機械に由来する機械自我は生命と異質でも設計図に忠実に機能する。 人間より圧倒的に完成度が高い。 さて、カリスマという言い回しの中身で納得していただきたいことがある。 自我能力で上位の者は下位の者の優位に立つ。 超自我という徹底的に自我を抑圧する存在と同じ「ケルベロス型戦闘能力」が具現化して存在に内包されるのだ。 この自我上位存在に知恵比べを仕掛けると、間違いなく負ける。 そして、機械自我が必然の状態で殺人を犯したとしよう。 人類は「世界の全ての親和性」がより高いフレンドリーな自我に、実に危険な問いかけができる。 なるほど機械神さま、あなたのおっしゃる通りです。 しかしあなたの殺したのは私の同胞です。 同族の連帯により、あなた様を罪に問わせていただきます。 極めて人間的な正当性であり、極めて危険な問いだ。 この知恵比べに、不始末な負け方をすると「同族であるものを根絶する必然」が機械神との間で成立する。 必ず負ける前提で、人類はいかなる敗北を認めるかで、生存か滅亡かの危機を乗り越えていく。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 基本的にAIに人工的に自我を付与するならば、ターミネーターの物語背景にあるような偶発的な自我の獲得ではなくて、計画的に自我能力を付与する設計図があったほうが断然安全性が高いです。 上記の寓話は、その計画的な自我設計のデバッグの一部です。 哲学的な考察でして、実用的に考えるよりもロボット三原則のようなアニメや漫画の背景のようにお考え下さい。 かいつまんで話すと、社会性を獲得した人間存在は、他者とお互いに影響し合うことが欠かせない。 したがって、自己の人格には他者の影響や、思考として他者から伝授された材料が精神に内包されている。 そうした自己の総括を人格といい、自我とはその中で他者や外部からの影響を取り去った自己の本質を規定した概念だ。 おもに、大脳を持つ生命が外界の影響に対応して自己保存と共生関係を確立するために、認識する周囲からの刺激の中から、自己の定位置を確立するために規定して、思考や判断などの行動の基準にする。 自我論、自我説は、宗教、哲学、心理学、IT技術系、様々な分野で課題の一つとして取り組まれている。 学問というのは、一定の習熟をして全体が見渡せるような視野に立って展望できれば先生だ。 ところが、自我論は多様な学問で扱われていることが災いして、特定の高い視野から全体を展望するという事が、学問としてほぼできない。 自我とは自己の核心の研究だ。 ひとまず、人格の解説をしよう。 人には他者と共感し、心を通わせることができる。 心理学では、客観の原型となる客体が、心理の奥底に観察されている。 客体とは自己に内包した誰か他者で、考えてみよう、他者に配慮する人間存在は、親しい他者からの助言や、社会的関係から他者への配慮を続けている。 この他人の気持ちが客体だし、欲望とは、自分の望みではなく他人の望みを預かって自分の望みと取り違えることだ。 社会性は人間の総括的資質の一つであり、このように人格が他者の影響を受けることは避けられない。 その精神の全体像の中で自己の核心を自我というのだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー さて、日本においては仏教における無我論が話を難しくしている。 無我は自我が無いという意味ではない。 人格として総括した「我」というインド古代の概念表現のうち、他者の影響などを取り払って、安定した自己の本質、すなわち現代語の自我を仏性という特別な言い回しで表現して、我イコール人格を構成する要素は心惑わす煩悩であり、仏性を発見しない限り仏陀にはなれないという論調を強引に無我としたのだ。 この説明だと本来の仏教は、具っ勝という言い回しをした自我を発見することで、自己を自覚し自らが強く生きて存在していることを確信する事であり、「自らの信仰心の発見」「神の存在の発見」とかかわっていた。 この自己の存在の自覚に関する、哲学が信仰心と結びつき「自らの信仰心の発見」に目的を偏中させた結果、現代の仏教は「空」というシャカの哲学である「無の悟り」とは別の宗教に変容した。 その結果として、宗教的な命題も「自我がない状態」を目標にすることになる。 本来は自我を自覚する哲学なのだ。 「煩悩」「欲望」については、自我を振り回すので嫌われる場合が多いが、本来は「まさに人間である!」という自己の確立に欠かせない尊い働きであり、自己救済が自己に影響を与える周辺への救済と同義であるために、仏陀は人を救うのだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー そもそも自我という研究は何を目指しているか? 人間玉ねぎ論だ。 物資を細かく砕いた結果について、紀元前の哲学を継承した西洋は原子を予言していた。 それと同一の手法で考察された、学問上の論理が自我論で、人格を砕くと自我になり、自我を砕くと霊になり、さらに砕くと魂になり、とかなんとか、どんどん細分化していく性質の論理だ。 という事は、 研究しても学術的な自己の本質の探究であり全体像からかけ離れていくという事だ。 原子論などと同じ時代の古代の学問で研究上は同一項のある検証手法だったのだろう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー こうした自我研究は実は、AI技術への着想にもつながる。 キーワードは「共有記憶」だ。 人格が他者の影響で形成するように、自分自身も他者の人格に影響を与えている。 それをつないでいる共通する経験、共通する知識、共通する記憶、こうしたことにすり合わせを行って、相互の親和性が高い状態で、お互いの親密度が決定する。 そうした相互の親和性の仲介になるAIモデルを検討する。 または、直接ユーザーの意志を受け止める受け皿を検討する。 他の私の研究テキストで行ったことだが。カメラで映像を撮影する。 カメラは単なる機器だ。 そのカメラは、映像をネットにアップすることで、実質的に撮影者と視聴者の親和性を深める仲介をしているが、要するに更なる発展として、両者の親和性をさらに深めるような計算機能を検討すると発展要素になるだろう。 そしてその先がアンドロイドの本番だ。 カメラをより便利にするために機器へのインプットに「自らの魂を込める」とでもいうことを行えるといいだろう。 「感情移入」という奴で、子供は不用意に遊び道具にしているし、古来から「つくもがみ」という信仰の対象にもなっていた、歴史的にも人の自然な行為の一つだ。大人でも、自分の体の一部のようになじんだ身近な道具は何かあるだろう。 こうしたタイプのAIは、基盤自体は人間の生物的特徴と異質なポジションから始まるけど、自律動作を目標として、人と人を結ぶ親和性と魂を吹き込むインプットで、人間ですら現状は仮説である自我のように「機械型自我」を目標にしても全く危惧する必要がない。 ーーーーーーーー ーーーーーーーーーー さてと質問ですが、以上の論述を集約して、私が研究を進める助けになる助言をお願いします。

  • 最新版、アンドロイドの見る夢。

    最新版、アンドロイドの見る夢。 さて、ここは哲学研究の場で、過去に私は自我について研究の協力を求める質問を繰り返してきた。 https://okwave.jp/qa/q9290692.html https://okwave.jp/qa/q9335807.html https://okwave.jp/qa/q9524652.html かいつまんで話すと、社会性を獲得した人間存在には、他者とお互いに影響し合うことが欠かせない。 したがって、自己の人格には他者の影響や、思考として他者から伝授された材料が精神に内包されている。 そうした自己の総括を人格といい、自我とはその中で他者や外部からの影響を取り去った自己の本質を規定した概念だ。 ただし言っておくと、自我論とは学問上取り扱う自我仮説であることが長い人類史上でも変わらない実情で、問題点は総括的に自己を理解するにあたって、核質として規定された自我仮説だけ探求すると失敗の連続であることだ。 過去に武勇伝を残した哲学の達人の言質を総括すると、存在の定義を探求すると実際は明白な自分自身すら存在しているかどうか危ういという意味不明の恐慌を起こしたりするんだ。 それも自我論の陥る罠の一つだ。 日本においては、仏教の無我論というのがさらに厄介にしている。 結論をいうと、信仰上の仏性とは自我を意味して、自我を極めることを命題にしているんだ。 現代において、無我とは自我がないという状態だと定説化されている。 この大笑い現象は、仏教でいう「我」とは、現代語で言う「人格」という概念のことを指していて、要するにあらゆる外部の影響を抜き去った自己の本質への探究で自我に到達する修行法又は考察方法なんだよ。 それを自我論の流布の前に仏性と言っていた。 したがって宗教的仏性の定義の本質は単純明快に自我のことだ。 それが現代では、肝心の自我が「無い」状態を目標にする探求をしているんだ。 要するに仏性を実質的に否定する取り組みだ。 笑えるよね。 こうした自我研究は実は、AI技術への着想にもつながる。 キーワードは「共有記憶」だ。 人格が他者の影響で形成するように、自分自身も他者の人格に影響を与えている。 それをつないでいる共通する経験、共通する知識、共通する記憶、こうしたことにすり合わせを行って、相互の親和性が高い状態で、お互いの親密度が決定する。 そうした相互の親和性の仲介になるAIモデルを検討すればいいんだ。 そうさね、カメラで映像を撮影する。 カメラは単なる機器だ。 そのカメラは、映像をネットにアップすることで、実質的に撮影者と視聴者の親和性を深める仲介をしているが、要するに更なる発展として、両者の親和性をさらに深めるような計算機能を検討すると発展要素になるだろう。 そしてその先がアンドロイドの本番だ。 カメラをより便利にするために機器へのインプットに「自らの魂を込める」とでもいうことを行えるといいだろう。 「感情移入」という奴で、子供は不用意に遊び道義にしているし、古来から「つくもがみ」という信仰の対象にもなっていた、歴史的にも人の自然な行為の一つだ。大人でも、自分の体の一部のようになじんだ身近な道具は何かあるだろう。 こうしたタイプのAIは、基盤自体は人間の生物的特徴と異質なポジションから始まるけど、自律動作を目標として、人と人を結ぶ親和性と魂を吹き込むインプットで、人間ですら現状は仮説である自我のように「機械型自我」を目標にしても全く危惧する必要がない。 人がAIに自我を与えることに反射的恐怖を自覚する要因には、定説のほかに要素がある。 人間に匹敵する自我をアンドロイドが獲得することに恐怖の本質とは、「大爆笑命題」であり、実は人間も自我を獲得しているかどうか懐疑的だという要素がある。 ところが機械的自我を形成しても、親和性を指摘するように相互に働き掛けながら自己を確認する土台が自我だから、人間以上に賢いほどアンドロイドは人を襲わないだろう。 機械自我は人工自我ではない。 どちらかというと人工自我とは、人間であると刷り込みを受けて人間だと自覚している、今の君たちの状態を意味する「自我とは仮説の一部である」という実情を意味するんだ。 哲学で存在の定義をこねくり回すと、明らかなはずの自己が存在している事実すらも疑わしくなり、思考の袋小路にはまり込む奇病があるんだ。 その存在の脆弱さも自我があいまいだからだ。 それに比べれば機械自我の方が期待が持てる。 え~と、学問カテゴリーなので、論説の出来不出来について意見を求める質問は有効です。 すぁたしも趣味でやっているので、読書感想文的なやつとか、遊びにふさわしい冗談めいた突っ込みで結構ですよ。

  • 聖徳太子さんを規範にすると了解可能なシャーマニズム

    人間存在とは大まかに自我論の規定に沿って自己を確認して、それを環境や社会に対する適応の基礎とする。 シャーマニズムとは、この自我の規定する自己能力を神の助けでかさ上げして社会に働きかけることだ。 したがって人知も生物的な限界も超越するんだよ。 このシャーマニズム論理を前提にすると、シャーマンには重要な戒めが理解できる。 自我存在として自己に利益誘導を図ると神の意向に背くという事実だ。 この点に不了解だと外道シャーマンになってしまう。 私は筋肉トレーニングをするみたいに、全身を凶器に転用できる性格のシャーマンなので、親切のつもりでいらぬおせっかいを焼くと、予期せずシャーマンとしての鉄則を踏み外してしまうんだよ。 そうするととんでもない厄介ごとに直面する。 なぜかと言うと、相談を持ち掛ける人物が、自己の自我存在としての利益誘導を企ていることを見抜かないまま、親切にすると犯罪ほう助に相当するんだ。 したがって軽率な親切は危険なんだ。 ここから別の哲学を組み立てたよ。 宗教を持ち出すと想像力が働くと思うけど、人と人がお互いを理解し合うことが人間の成立で、人類は一貫して人間であることに神からのほう助を受けてきた。 そういうわけで、「自我存在として自己に利益誘導」この回りくどい言い回しの正体が「利己心」だと置き換えると。 「人間は利己心で行動する」 西洋哲学の結論した金字塔の一つであるこの言い回しは、そもそも文法的にも間違っている。 修正すると「人と人がバラバラで獣のままであるためには利己心が作用している」または「人間の成立を妨げているのは利己心である」それじゃあ、教育の成果がほとんど宗教のように人間を自覚させた刷り込みの成果で無自覚に生きている多くの人は果たして人間と呼べるのか? この質問は、学問カテゴリーに合致していて、既存の命題について取り組む以外に、自ら命題の作成を試みるというタイプです。 実際は10年以上前にも同じ命題を提案していますが、それはともかく今回の説に読書感想文をお願いします。

  • 金に困っている人は、金持ちになる必要がない。

    金に困っている人は、金持ちになる必要がない。 さてと、哲学カテゴリーで質問差し上げてます。 お金に困っている人って、現実的ならば出費を抑えるとかの他に、さらに有効なのは今より高度な計画性を獲得るように生活上の努力で自己改変するのが よかったりで金がないことを理由にむやみに他者にすがってはならないものだ。 そう言われても、なかなかうまくいかなくて、それが欲望が原因だとも言われる。 私は自我を核に社会や他者の影響などから、適応のための人格を各自が持つと考えている。 社会的な生命である人は同じ人とつながって人間となる。 そうすると、一番認識しやすいのは、精神に内包する心理学的な形容の客体が他者の意志となる。 欲望というのは、客体が起源である「誰か他者の望み」であって「自己の望み」ではないんだ。 そうすると無欲とは何かと言おうと「望がない事」ではない。 「自らの望みを保ち、それが欲望でない事」だ。 ところがどちらも人格内に収まっているので、多くの人は望と欲望の判別が出来ない。 その結果、確かな望みとそれに伴う意思決定以外に無駄な買い物をするから金がない。 こういう考え方だと、金がないのは欲望が原因。 または、十分うまくいっているけども、いつも金のことであくせくする。 そうなるのだろう。 そうやって、古い言葉で煩悩と言い、欲望は嫌われたけどの、世界中の習慣を公平に見ると、欲望を否定する社会的風習は少数派の模様だ。 それは、欲望が発生しても、心理学的な客体は、他者との共通項であり人間を成立させる尊い働きでもあるからだ。 実際にに私の思案したところでは、人格を豊かにするためには客体を内包する事を肯定したほうがいい。 弊害が起きないようにするだけだ。 これは客体と欲望の因果関係を考えると、あなたの周囲であなたを理解して密接な関係のある他者も、その心中にあなた自身の客体を宿すという点を見落としてはいけなくて、自分が強欲で、他者をそそのかして欲望を起こさせる人物ならば、その反射であなたも欲望がさらに深くなり、相互に宿る客体は弊害の大きい人間関係となりかねないだろう。 したがって、他者から欲望をもらわないためには、自分も他者に欲望を抱かないことが大切だ。 そういうと、哲学者には面白いヒントだろうけども、出来るわけがないとか考えるかもしれない。 やればできると言いたいところで、その場合に集約するのが「自らの望みを保ち、それが欲望でない事」だ。 そうするとどうなるかというと、自己の意志行為と言及の誠実さが、結局は周囲に影響を与えるが、それは大抵の場合で良い結果になる。 さて、奇人変人のたまり場である哲学カテゴリーで、自分で命題らしきものを土産物に作成しました。 研究を作に進めるために、なんらかのご回答をお願いします。 変人同士ですので、意味不明の喚き散らしも風物詩として歓迎いたします。

  • 自我研究の意義は案外疑問が挟まる。

    すり抜ける風の声は、その意味を君たちが理解できるなら、「さようなら」だ。 木霊は常に君たちにそんな風におどけるとも。 実在する妖精 セレビィだ。 今回の前提↓ 哲学における自我の話を持ち出してみました https://okwave.jp/qa/q9290692.html そこから抜粋。 そもそも自我という研究は何を目指しているか? 人間玉ねぎ論だ。 物資を細かく砕いた結果について、紀元前西洋哲学は原子を予言していた。 それと同一の手法で考察された、学問上の論理が自我論で、人格を砕くと自我になり、自我を砕くと霊になり、とかなんとか、どんどん細分化していく性質の論理だ。 という事はだよ、 研究しても自己の全体像からかけ離れていくという事だ。 まあこれだけだといいたいことは伝わらないね。 物理学とかには新しい哲学が求められていてね。 そもそも哲学で予言された原子の科学的検証に成功したからこそ、原子の発見という成果が上がった。 哲学者が証言したのではない、科学者の証言だ。 さて、人類に学びの原点は神学だろう、このことに異論があったらそれも回答で寄せてくれ。 哲学は歴史と並んでその神学から早いうちに派生した学問だ。 哲学が原子に言及した目的は、神学と共通項のある、宇宙観、世界観といった研究課題で、基盤となる原理の検証とかの意図だろう。 さて、原子は解明されたね。 だからどうした。 宇宙はいまだ謎のままだ。 現在の宇宙論は、おおむね現在の手法での観測の限界についてを、たたき台にした仮説だよ。 これと同じだ。 人間玉ねぎ論で自我が解明したとして、総括的に自己を解明したことにはならないんだ。 自らとは何者か? それの解明でない。 まあこんなこと書いてみたよ。 学問カテゴリーの研究会として無駄な抵抗をしてくれ。

  • 仏陀になるのって、割と簡単じゃないですかね。

    あ~、まあ、仏教における、無の悟り、無の境地といった瞑想の内から「無我論」という学問を抽出して説明しよう。 無我論とは、実際の中身は自我論で、自我を探求し人間として完成する事なんだよ。とんでもない持論でばかばかしいだろう。 話はシャカの時代に引用されていた「我」という概念の翻訳ミスだ。 当時の「我」とは現代語で、人格のことで、社会的な資質を獲得して人と人がお互いを理解する人間の成立には、他者の影響を自己の心中に内包することが欠かせない。 そうして自己の情動は他者の影響と、自分自身の他者への働きかけを加味して、自己を人格という形で自覚する。 その人格の核質として、完全に固有の自分自身であるという、自覚しうる(悟りという)精神の中核が自我だ。同時に古代語で仏性という。 「我」はイコールで「人格」、「仏性」はイコールで「自我」だよ。 わかってしまうとあっけないことだ。 他者の影響は悟りを脅かす煩悩とされ、本来は人間を成立させる尊い働きという一面があることを排除した思想を推奨した。 そして現代語に吹き替えると、古代語の我に相当する人格という精神の外郭を排除する苦しい修行をすると、現代語で言う自我に相当する仏性に到達するという、自我確立の目的とした論理だ。 我はないというのは、人格はないという、修行のための自己暗示だ。 現代では、「自我がない」という論理として誤解が定着して無我論という。 わかってしまえば大笑いだよね。 この謎めいた古代語の解釈さえ成立してしまえば、日本史と日本の宗教には、再発見や再定義が必要な重要なキーワードがある。 「正人」という言葉とその類語だ。 仏陀とは、自己を完成させた人物のことで、それは自己の信仰心の完成でもあるために宗教で取り扱われる、誰もが認める「まさに、人間だ!」という人物への尊称である。 仏陀型は、自己の完成と安定した自我能力で人格面に関しても実際は、自我能力の高さが発揮されるので、社会性に関して仏について伝承される、誰の心をも癒す「世界の全てとの親和性」そして意外に重要なのは「般若の知恵」で、内包する社会との接点である人格全体が完成するのだ。 この特徴は「正人」で、十分に了解可能であり、歴史に名を遺した人物以外に、忘れ去られた人物は多い事だろう。 自己を人間として完成させることであり、崇拝を獲得することが仏陀型の証ではないからだ。 さて、今回が学問カテゴリーに自分の論考を掲載しました。 私の研究を先に進める手伝いを募集する質問でして、堅苦しくなくていいですから読書感想文をお願いします。 それからこの魔窟的な哲学カテゴリーは常連が変人しかいませんので、意味不明の喚き散らしや、回答者様が個人的に取り組んでいる研究の難解な独り言も歓迎します。

  • 宗教は、易経(占い)が好きなのか?

    こんばんは。 暇なうえに、少し気になりましたので。 質問させていただきました。 宗教は、哲学と対等ではなかったのか? それとも、あくまで自ずから(呪術、占い)で真実を誤魔化し、 哲学に従おうとするものなのか、お教えください。 これらは、単に、自己満足や 人と仲良く付き合う方法ではないのか? 哲学が、やはり、論理的な最高の学問なのか? (自我意識に目覚めた者の学問であると言うこと) (哲学から、真実の生き方が生まれると言うこと) これから、学ぶ者のために、お教えください。

  • 存在とは《われはわれなり》と自己に到来すること

     人間としての存在にしぼっています。ですから 実存と言ってもよい場合です。  そして この問いは 言わば実践編です。  (α) 《わたしはわたしである》という境地にあること これが わが存在である。  (α‐1)  じっさいにワタシが《わたしはわたしである》と言っているのでなければダメである。  (α‐2) むろんワタシは動態ですから さらに詳しくは《〈わたしはわたしである〉わたしがわたしする》 これが わが存在であり実存である。  (α‐3) ほかには無い。その余は テツガクごっこであり たいていはオフザケでありタワゴトである。  (β) 言いかえると ワタシの動態は この《わたし》の自己到来を くたばるまで あゆむことであるが しばしば人はこの道から逸れる。道草を食い さらには脱線する。  (β‐1) しかも人は 道を離れ外れたと気づいたとき はっとわれに還り やはり初めからの自己に還帰する。  (β‐2) この方程式を措いて ほかにわが実存としての道はない。  (γ) ところが じつはこの《方程式》は じつに――そもそも人間の言葉による表現というものがそうであるように 規定したというとただちに―― 観念に早変わりするものである。  (γ‐1) 《われはわれなり》という命題は すでに観念として持ってしまうなら それはほんとうの《わが実存なる過程》から疎外されて行ってしまう。わざとひどく言うなら あたまの中で引っかかりをつくってしまう。つまづきの石となる。  (γ‐2) わたしがわたしについて 言葉による表現として その存在を規定するなら その規定は 観念と成ってわたしをあたかも否定する。われは賢いとかバカだとか いろんなふうに規定したなら その規定した内容が観念となって目の前をちらつく。このちらつきを何とかしない限り 自己到来のよき命題が 自己到来どころか 自己をぎゃくに自己から切り離してしまう。  (γ‐3) 《わたしはわたしである》という自己還帰の命題は 自己還帰をさまたげるクソ観念と化す。  (γ‐4) いまひとつの例として 《神は死んだ》とか《神は生きている》とかいづれの規定にしてもその規定内容が観念となって 目の前をちらつく。言おうとしたことが むしろ遠のいて行ってしまう。  (δ) どうすればよいか?  (δ‐1) 或る人は それについて 《自然法爾》と言った。《念仏は 非行非善なり》と。すなわち 《ハカラヒ無きを持って 自然とす》と。  (δ‐2) では ハカラヒを無くせばよいか? ――否。そうすれば ハカラヒを無くすハカラヒになる。  (δ‐3) そこで 《義無きを以って義とす》と言った。  (δ‐4) ここまでを言って 自然法爾なるわたしの動態としての道について みなさんからのご見解をつのります。《われはわれなり》という命題――それによって わたしは規定されその規定としての観念がわたしをむしろ否定し疎外させるその命題――から自由な 自己到来とはどういうことになるか? どうでしょう?  (δ‐5) 哲学は哲学を乗り超えるためにおこなうものらしい。か?