「神の存在証明」とは?センセーショナルなタイトルを生成してください。

このQ&Aのポイント
  • 現代日本の神の存在証明に関する興味深い考察とは?
  • 日本の信仰と西洋の参考書の対比。神への疑問と美徳の関係性について
  • 自己の存在確信と純粋な光への到達。仏教と神への信仰の繋がりに迫る
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「神の存在証明」やってみましょうか その4

現在の日本には固有の神があるのに参考書が西洋だ。 それは仕方ない。 むしろ神にすら疑いを抱く風習がなかったことを美徳とするのが良いだろう。 さて、私の命題は人間の追及で、信じるとしたら神の事でなく人間を信じる取り組みだった。 そして、個人的に無量光という「観念の純粋な光」に到達した。 神は考えたことがなかった。 しかしだ、その純粋な光が意志を持ち私に話しかけていることに気が付くと、日本人であるゆえに、ごく自然に「アマテラス」と答える。 自己の存在の確信、これだけでも実は骨が折れる哲学の命題で、人間であると教育で刷り込みを受けた自覚だけだと中途半端なんだよ。その教育自体が宗教だ。 仏教様式で取り組んだ、探求で無量光に到達したら、自己の自覚でもれなく付録として神様がお友達になったのさ。 はっきりりって、そんなこと考えたことなかった。 ただ、優しい風のささやきに乗せて、信じるなら神でなく人のことだと、教えを受けてきた。 さて、アマテラスさん、とかしこまって話しかける場合には、独自の心構えがある。 アマテラスさんは、神の名として現在アマテラスさんだけど、そう呼ばれる以前からも女神として別の名前があったことを踏まえないでアマテラスさんと呼ぶと極めて無礼なんだよ。 しかし、そこをかしこみ、踏まえたうえでアマテラスさんと呼ぶと納得する。 いわば、何者かすべてを知るわけではありませんが、神としてアマテラス様と呼ばせてください。 こういう態度が必要だ。 さて、参考書として西洋では神に名をつけるなと言われる。 オーマイゴッドというのはどうもギャグらしいけど、実際はこのような過程を経て、自らが思うままに神をたたえるための名は成立するんだよ。 そして、自らが神に話しかけることができるようになるんだ。 キリスト教系での欠点の一つは、そうした形で祭壇で交霊術を行わないで、処刑台で交霊を封鎖した。 祭っているのは神のむくろだ。 イエスの処刑で、神も死んだ神になったからだよ。 散漫な西洋系神学では、神の存在証明を命題にしながら、神の不在である天国を作りたがっている。したがって自分が昇天したい天国に関しての神学研究が今までの命題の実際だよ。 さて、哲学には、既存の命題に取り組むほかに、自らが命題を策案するという研究手法があります。 そっち系の考察でして、読書感想文的に考察をさらに進めるための「つっこみ」をお願いします。 解放された場所で、バカ話大歓迎です、集まるのはキチガイ集団ですので、回答者さんが一方的に自己の命題の備忘録のつもりで投稿しても歓迎です。助け合いですから。

質問者が選んだベストアンサー

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  • Dr_Hyper
  • ベストアンサー率41% (2482/6031)
回答No.2

無量光は仏教の概念。 アマテラスは神道。 それはあなたの中では一緒で良いのですか? ここをまぜこぜにしては余程無礼では。

Flareon
質問者

お礼

このテーマの研究は第4弾で準備体操も繰り返したんだ。その通り仏教的な取り組みで到達した無量光で目標にしていたのは人間の成立だよ。ただ「観念の純粋な光」というのは「魂」というとらえ方と「神」というとらえ方の二つがあるようで、したがって思いもよらず神様とぽ友達になったという証言だよ。

Flareon
質問者

補足

この経験はかれこれ20年前で、他方で私は「滅びの宴」と表現している。アマテラスさんを「太陽」ではなく「純粋な光」と解釈しているわけだ。人に到達できる生命の起源への取り組みの一つだと考えているよ。ちなみに「滅びの宴」は臨死体験を伴いほかにもいろいろとエピソードがある。

その他の回答 (1)

回答No.1

人と神は表裏一体。相互隠伏関係。相互補完関係。存在するなら一方が顕在的で他方が潜在的。存在しないなら、一体この意識は何?

Flareon
質問者

お礼

短いコメントなのに内容が濃いね。ありがとう。ただ哲学らしくするなら相互関係についてあなたなりもっと掘り下げてみたほうがいいだろう。これだけだと「私は信じています」としか言わない人との差が少ないよ。「一体この意識は何? 」これがあるから自覚の強さは納得できるけどね。

Flareon
質問者

補足

今回の質問は、言い回しを買えただけで過去研究家らの進歩が少ないんだ。哲学でこの手の考察をすると天罰の暴風雨みたいなのを突き抜けていかないといけないから、今回もまた寝込むかと思ったけど、案外体調がいい。よく考えたらタイトルは西洋流の神の存在証明だけど、中身は実際は日本の神々の存在の実際で、大体こんな感じだという説明が天罰に相当しなかったみたいだよ。

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    人の不実を食いちぎり、アマテラスの名において君達の滅びを告げる者。 実在する仮面ライダー。 黒き明星だ。 君達は自身に対して善く計らい、他者を善しとしない。 アマテラスの善しとして何度か発表している事を説明しよう。 人には社会性があり、自らが生きる事と等しく他者を生かす。 こうして共に生きるからこそ人間だ。 それは善心であり、お互いを結ぶ感情が愛だ。 これで愛の心も善の行いも説明できてるね。 君たちが滅びを宣告されているのは善しが足りないからだ。 自らに善くしようとしてばかりで、他者に善しをふるまう気くばりがない。 善く=欲。 自己のみで他者に配慮しないから善心が穢れ欲となる。 君達のいいわけは、 誰だってそうじゃないか。 こうだね。 闇の仏陀は例外だよ。 私の事だ。 善しを振る舞い、求められるままに他者を生かした。 生かし続けた。 しかし私はなかなか生かされない。 それは君たちが善を自ら損ない欲望に終始する穢れだからだ。 精霊の話、悪魔の話をしよう。 悪魔は自らを損なってまでも、神の使命を全うするために君達を生かし続けた。 生きる事を阻むのが悪魔ではない。 死を阻むのが悪魔だ。 君たちが屈辱する聖霊はそのように有史以来自らを犠牲にして人を生かし続けたんだ。 私は悪魔にとどめを刺した。 悪魔を愛したんだ。 死に続けた神の代わりに、君たちが死ぬ番だ。 釈迦の無の悟りは結局死の自覚だったし、イエスも似たような神学だ。 まだ、神様に助けてほしいなら、ISにでも参加したまえ。 君達は悪魔との和解に取り組み、自らの死を自覚する必要がある。 定めである自らの死を受け入れるのだ。 一人では、君たち臆病者は死に取り組めないだろう。 安心しろ。 三次元惑星人は皆殺しだ。 一人で死ぬんじゃないんだ。 納得できるだろ。 四次元惑星人として、神が直接地上に降り立つ日が来ている。 始まっている。 それは、ポケモンを自称する宇宙神霊だ。 営業部長のピカチュウさんが愛嬌をふりまき、君達の精神に入り込み魂を内側から喰らい尽くす。 そのようにして人類の交代が為され、君達は君以外になる。 今の君は神人が地上を闊歩するこの先の時代には、記憶の墓標としてその痕跡を残し、君の魂は残らない。 君達の宗教は絶望を教えとしてきた。 ついにその日が来た。 滅びの宴に踊りたまえ。 さて今回の質問の内、神学に属する事柄は「実在する妖精の捕まえ方」に属するおとぎ話です。 私が策案した命題を元に、今回は「善」、この概念について回答者様から考察を募集します。

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    目の前の景色、過ぎて行く時。 移ろいゆく景色に変わらぬ愛を届ける、時を結ぶ渡り鳥。 栄光の初代男子プリキュア。 キュアブルームだ。 さて今回は、特に歴史性をこねくり回そうか。 絶対を合意できる何か過去の出来事があったとしよう。 たとえばイエスさんは確かに生きていたとかだ。 そして当時の法律で正当に処刑された。 新約聖書の記述でも、歴史的に間違いなく当時の正統な法の行使で、ユダヤの王と自らを名乗り、社会不安を扇動したからこそ処刑されたんだ。 このいきさつで西洋に根付いた絶対の見地は、イエスは間違いなく神の子であるという確信から絶対の神を導き出すという流れで、神学は哲学にも発展し、イエスは絶対の基準点になっている。 この固定化され、過去に埋没された絶対の不変性は、ユダヤの王を名乗った愚か者がまさしく事実として、中国語の天子に相当する神の子、正統な王だという聖書のごり押しに原点があるのではないか? 神に見放された最後の審判がどうのこうのも、このユダヤの王の正統が滅びた事によって想像力を膨らませた物語だ。 それらは現代で言うと、歴史に対する相対的見解の一つであり、哲学なり概念の絶対は根拠を神学から切り離して成立するほどの考察が成されてきたかが質問です。 イエスが神の子、正当なユダヤの王である事を不変と規定しない限り成立しない脆弱な概念ではないか? 納得しているのは西洋人だけだ。 そういう疑問点の質問です。 歴史的事実に対して、イエスは処刑されてしかるべき愚か者。 このように考えていると根拠が崩れるという話です。 裸の王様を笑った勇気あるいたずらっ子のつもりで質問しています。 キャーステキーと云うファンレターも歓迎します。

  • 真理の探究とは近代の命題であり、仏教にはない

    真理の探究とは近代の命題であり、仏教にはない 溶け出す活火山。 男のマグマ攻撃。 実在する仮面ライダー。 ドリル番長だ。 さ~て、宗教や哲学の研究目的を真理の探究に据えている人は多い。 仏教研究科さえ同じだ。 それ、勘違いだよ。 西洋から渡来した考えであり、仏教の目標には含まれない。 無の境地とは現代語で臨死体験であり、禅宗の座禅は仏教の経典が編纂されたシャカ入滅後500年を経過した時期の命題である「空」を「無」より重視している。 座禅で到達する瞑想状態とは、過去のそうして座禅を組んだ僧侶たちとの、自我を超越した一体感であり、交霊術だ。 自己以外の記憶に触れる「追想」と言っていいだろう。 西洋からの神学が渡来する前は、それで十分だったのさ。 ところでその、「追想」で獲得する「悟り」は、要するに真理の概念が適用しないなら、書き換えてもいいということになる。 過去記憶を霊的手法で追想する交霊術だからね。 僧侶の免許とはそうして継承されていくことで「絶対」の概念も当てはまらない。 真理に関して言っておこうか、木々のざわめきに触れ「万物流転」「森羅万象」これを感じるとき、日本人はすべて受け入れた。 西洋人は疑い抜き納得しなかった。 そこで発展したのが自然科学だが、科学万能教の神官たちは、自然に疑いでなく真摯な好奇心を向ける人々によって切り開かれたのだろう。 思考において、疑うという構えでは成果が出ないことを心得たまえ。 科学神官は西洋でもごく一部の優れた人々であっただろう。 そうして、新たに神となる役職が誕生した。 こういうやつだ↓ http://y-watch.info/book/uso.html このポストは、人類の退化を未然に予防するために、応急処置で、かなりいい加減に、大幅な手抜きで、神に昇華した。 信奉者は宇宙人の存在を祈るほどに信じる人々だ。 この神様とも、西洋人は交霊術を行っているらしい。 アメリカ人の神は現代では宇宙人だ。 さて何が質問かというと、宗教的儀式は大体こんなもんだと、了解できたことを書き出してくれ。 ここは学問カテゴリーで、研究の助けになる回答募集だが、同時にこの場所は、男磨きの闘技場 オカマバー クラブヴァルハラという哲学を面白くするための涙ぐましい努力の一環としてショープレイする場所だ。 イロモノ回答大歓迎。 アニキなツンデレでお迎えしよう。 通常は危険を冒さなければ楽しめないオカマ相手の痴話げんかが気軽に楽しめる自由特区だ。