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宗教は、易経(占い)が好きなのか?

こんばんは。 暇なうえに、少し気になりましたので。 質問させていただきました。 宗教は、哲学と対等ではなかったのか? それとも、あくまで自ずから(呪術、占い)で真実を誤魔化し、 哲学に従おうとするものなのか、お教えください。 これらは、単に、自己満足や 人と仲良く付き合う方法ではないのか? 哲学が、やはり、論理的な最高の学問なのか? (自我意識に目覚めた者の学問であると言うこと) (哲学から、真実の生き方が生まれると言うこと) これから、学ぶ者のために、お教えください。

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noname#150036
noname#150036
回答No.5

細○○子が 占術は 膨大な量の故事をまとめた 体系と言ったか統計と言ったかは忘れましたが そんなことを言ってました。数学に近いそうです。 孔子が言いました。「我々は ややもすれば人間を 超えた存在にたよる気をおこしがちだ。しかし  まず人間としてやらねばならぬことは何なのかと 考えること それが知だ。」 ゲーテが 「学問と芸術を持っている者は 同時に 宗教も持っている。」 という言葉を残しています。 またこんな言葉も残しています。 「信仰は芸術を復興させたが これに反し 迷信は 芸術を支配し またもやそれを滅ぼしてしまった。」 人の道とゆー高尚な趣味を持っておられるかたが 「アルケーは宇宙の法則であるう」ゆーてはりましたな。 どれが一番やなんて 甲乙つけがたいのんちゃいますか。 ボクは山岳信仰なもんですよって どーでもええのですが おそらく行きつく先は 「いかに人と仲良く付き合うか」 それにつきる思います。すべての思想がです。 あ~ アルケー あまりに深遠である。

Tefu_Tefu
質問者

お礼

こんにちは。 がっくんは、若いのに儒学を知っているなんてすごいね。 孔子は、本当にいいよね。 私も、山が好きです。 草木の香りと、景色は最高だよね。 細○○子さんは、占い師だから問題ないよね。 ゲーテが言ってることももっともだよね。 「アルケーは宇宙の法則であるう」は、その通りだけれども アルケー=万物の根源=神=目が点になりました(笑い) 宇宙の法則、説明して欲しいかも? 宇宙の法則=分からないもの=神 そりゃ~そうで深遠過ぎて、だから何なの? 私が言いたかったのは、呪術や占いを信じる人が、 自分が神というのは、駄目だろうということです。 宗教は、慈悲、慈愛の心で神を信じる人を幸せにすることだと思うから。 がっくんは、文学を美的にとらえることが出来るから、 心豊かな人生が、過ごせそうだね。 文学と自然と孔子、素晴らしいです。

Tefu_Tefu
質問者

補足

ちょっと田中角栄さんの名言らしい。 言って良い事、悪い事。 言って良い時、悪い時。 言って良い人、悪い人。 もうひとつ、 人生なんて、良い時もあれば悪い時もある。何をしても上手くいく時もあれば、何をしても上手くいかない時もある。 だから、何をしても上手くいく時には、思いっきりアクセルを踏まなければならない。 一瞬たりとも躊躇してはならない。 一瞬の躊躇が流れを変えてしまうことがある。 エンジンがオーバーヒートするまでアクセルを踏み続けなければならない。 エンジンがオーバーヒートしてしまえば、エンジンを積み替えればいいのです。 物事には何事にも全てタイミングがあります。 http://harumacky007.blog111.fc2.com/blog-entry-194.html ここからの引用です。 どちらも、いい言葉だと思いました。

その他の回答 (7)

  • alwen25
  • ベストアンサー率21% (272/1253)
回答No.8

>ローマでエクソシストが承認されたとか。 昔から認められていますが。 悪魔祓いと占いは違います。 >ローマ法王は、カトリックらしい。 当たり前です。 カトリックの最高権力者がローマ教皇(法王) です。

Tefu_Tefu
質問者

お礼

こんにちは。 カトリックは正規の宗教なので関係ないでしょう。 やはり、悪魔は、増えているんですね。 カトリックでは、エクソシストによる悪魔祓いなのですね。 ご回答ありがとうございます。

  • taco8ch
  • ベストアンサー率7% (11/146)
回答No.7

吉野家で牛丼を食うとしばしば割引券がついてきますが、 多くの宗教にも、占いはほぼもれなく付いてきます。 今晩は、牛丼はつゆだくだくのtaco8chです。 こうした傾向は儒教(儒学)に限らず、神道、仏教、ユダヤ、キリスト教 そしておそらくイスラム教も、例外ではありません。 間違いなく、宗教とオセロ中島は、占いが大好きです。 ユダヤ教の祭司は、占いの玩具を携帯しておりましたし、 お祭りの日や戦争中には、くじ引きや夢占いもしたと聖書に記されています。 キリストの誕生を予言したのも占星術の一種でした。 教典中の数や語句から象徴的な意味を読み取り、 教典をまるで易本顔負けに用いて未来の吉凶を占う行為は、 大なり小なり宗派を問わず行っています。 宗教と占いは、そろそろ厄介事になってきた愛人のように、 切ろうとしてもなかなか切れない関係にあるのでしょう。それは、 宗教もまた占いと同様、――質問者の言葉を借りて――安っぽい、 かつ反社会性を有した行為だからかもしれません。 そのような意味で、宗教と占いの間には一種の親和性があります。 反社会的親和性の一面の現れとして、質問者が言うように 人はよく宗教によって救われたと告白します。 それと同じくらい、占いによって救われたと告白する人もいます。 また、質問者が言うように、占いで身を滅ぼす人は数知れません。 同様に、宗教で身を滅ぼす人も数えきれません。 こうして観ると、もしかしたら、宗教も占いも、 酒やタバコ、博打、パチンコ、ドラッグなどと、 同じカテゴリーに属するアイテムなのかもしれません。 だって、みんな大好きでしょ?人間だもの。 あ、みつを。

Tefu_Tefu
質問者

お礼

こんにちは。 ご回答ありがとうございます。 そうそう、子供たちは、お菓子を買う時、おまけを見て買うそうな。 いや、違った、大人のマニアがおまけを大人買いするのだった。(笑い) そうか、おまけが大部分なのですね。 >もしかしたら、宗教も占いも、 酒やタバコ、博打、パチンコ、ドラッグなどと、 同じカテゴリーに属するアイテムなのかもしれません。< もう、カテが違うようです。 OKWave>趣味▼>宗教▼ なかなか、よろしいようで。 牛丼は、吉野家のつゆだくだくに一票。 泳げたいやきくん、でバカ売れした、タイ焼きは、あれから、 具が変わり、西洋かぶれした。 そして、白いアルビノ種(タピオカ)が突然変異で現われたが 長続きはしなかった。 いま、皮パリパリの日本、西洋ものが出てきた。 これは、タイ焼きの進化であろうか? いやいや、人間は、少しも進化しておらんだろう。 ならば、その人間が作り出す現象、タイ焼きは。 只の人の、文明進歩のものであろう。 人の欲はタイ焼きにも現われる。 面白い。 ちなみに、パリパリタイ焼きにも一票。 この程度が幸せ。(笑い)

  • alwen25
  • ベストアンサー率21% (272/1253)
回答No.6

旧約聖書の申命記で占いは禁止されていますので 旧約聖書を使う宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教) では禁止です。

Tefu_Tefu
質問者

お礼

こんにちは。 ご回答ありがとうございます。 旧約聖書では禁止なのですね。 そうでしょう。 もう、3年前になるが、 ローマでエクソシストが承認されたとか。 ローマ法王は、カトリックらしい。 日本でも陰陽師が必要らしい。 http://karapaia.livedoor.biz/archives/50972718.html 沢山の、偽の神様に洗脳された悪魔がいるそうな。 世も末かな? やはり、聖書に書いてあるらしい「右の頬を叩かれたら、左の頬も」 は、自分と相手のことなのだろうか?

回答No.4

中世以前は「世界観」として、宗教も哲学も科学も不可分なもの でした。 宗教者が哲学者でもあり、科学的実験も行い、ていう。 人の自然認識が深まるにつれ、様々な現象の原因としての神の 立場が狭まっていき、宗教が離れました。 それでもまだ、哲学者は科学者を兼ねていましたが、やがて 科学の対象が日常的な現象の洞察から離れ、複雑な器具を 使った実験や、巨大な観測機器を用いたものになるにつれ、 哲学者と科学者を兼ねることは難しくなりました(思索的要素の 大きい理論物理等では哲学的活動をする人が散見されましたが)。 とはいえ、世界を形成する情報に、「哲学」や「物理学」、「化学」 などといった個別のものがある訳ではなく、1つの実体を持って いながら、人間の認識力のキャパシティによって分けて扱わないと 収拾がつかないだけの話で。 元々、全部の分野をまとめた「世界観」と言うべきものだったのが、 認識の深まりの過程で分断し、現象的に特徴的な対象に対して 「分科」学が派生し、そうした特定の対象が独立した残りが哲学 だと言えます。 哲学者が偉い訳ではなく、“世界観として深める事が大切”なのです。 哲学者が科学を身につけるか、科学者が哲学的思索を深めるか、 いずれの可能性もあります(個人の能力次第であって)。

Tefu_Tefu
質問者

お礼

こんにちは。 ご回答ありがとうございます。 いつもながらの、素晴らしいご回答に感謝いたします。 哲学も時代とともに、その立場が変わってきたということですね。

  • agripapa
  • ベストアンサー率0% (0/46)
回答No.3

夢のまた夢 そのまた夢の またまた夢 てふ てふ。。 ・

Tefu_Tefu
質問者

お礼

・・・ ・・・

  • agripapa
  • ベストアンサー率0% (0/46)
回答No.2

胡蝶の夢の中。。 ・

Tefu_Tefu
質問者

お礼

こんにちは。 ご回答ありがとうございます。 そうなんですよ。 胡蝶の夢の中から、お名前をいただいた訳なんですけど。 私が言いたいのは、何故、宗教は、哲学のごとく論理的に 説明をしようと試みるのか? 現実は、現実として、夢は、夢としてでいいのではないかと言うことです。 宗教は、只、信じれば救われるのです。 占いにより説明すれば、するほど、安っぽくなるのではないかと? 実際、現実を見てしっかり勉強し、努力し、運をつかまれる方が 多数なので。 なんか、占いでは、説得力に欠けるかと思いました。 仏性のあられる方のご意見の本当のところは、どうなのかと思いました。 私は、呪術、占いで身を滅ぼされた方を知っていますが。 私も、自分の努力で今があるのですが。

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.1

たぶん歴史観に欠いているのだと思いますが、 もしかすると認識がめちゃくちゃではないでしょうかね。 どのあたりから整頓したいとお考えなのですか。 哲学・宗教・占い、時代をずらしたら関連を論じることはできませんし、 深く関連した時代である古代と中世とでは、 それぞれに異なる問題意識を持って視座を据えなくてはなりません。 哲学にも歴史があり、宗教にも歴史があり、 そして気をつけなければならないのは、占いにも歴史があるということです。 関連を把握するには、広汎にわたる知識がいります。 金属精錬、空間と時間の合理化、天文学と暦学、神話、農耕と牧畜、都市文明の起り、医学、軍事学、統治についてといった話になります。 質問をいまいちど吟味してみてください。 もし現代社会にとっての哲学や宗教組織へ、問題を切り込むのが目的でしたら、 易経などと儒教の最終科目みたいな書物の名前を持ち出さないほうがいいです。

Tefu_Tefu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私の質問の仕方が、悪かったようです。

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    「キルケゴールは、人間の実在を美的実在・論理的実在・宗教的実在の三つの段階に展開させ、人間は、宗教的実在の段階において初めて単独者として真の自己を回復するとした」とあるのですが、調べても意味がよく分かりませんでした。 簡単でいいので意味を教えてください。 よろしくお願いします。

  • 機械が自我を確立した場合の問題点とは

    下の機械自我関連の記述は、SF小説的にあえて仕立ててあって、OKの掲示板に投稿したので、OKも著作権保有という形で関与している。 研究途上の学問的な読みにくい走り書きで、商業的な校正を完了した納品向けは日本玩具協会(東京おもちゃショー主催団体)に別に委託した。 そのテキストの何が面白いかは、文中で舌足らずだったので補足しよう。 2500年前の釈迦の生きざまから派生した「無我論」とは、「自我論」という概念がなかった時代の、古代サンスクリット語の誤訳が原因で、自我相当を「仏性」という独特の言い回しにした宗教的な伝承だ。 仏性と言っていたのが、後世で言う自我の事だと解釈すると、煩悩とは客体による干渉の事だとなる。 その客体の干渉(煩悩)を取り払うと、仏性と形容された本人の自我が浮き彫りになり、本人は仏陀を自覚する。 無我論と仏教徒は、真逆にひっくり返すと自我論の研究なんだよ。 これは私の哲学の成果だが、仏教を破壊する。 宗教とは産業なので、営業妨害には徹底的に反撃する。 それがめんどくさいから、自我論をAI論の体裁に偽装したんだ。 有効性があれば、商売人(宗教家)が喚いても世の中で認知されるだろう。 私は、過去に名指しして任天堂だと明言する企業相手に個人として交渉したから、任天堂からの社会的な抹殺工作で精神障碍者に転落した。 したがって保身のためには、目撃証言を作らないといけない。 その関連で、OKの公証人的な機能とは、私にとっては生命保険でもあるんだ。 それから、著作権という弱い立場でも、実際に機械自我が確立した時に、その特許の論理と構造に私の論述と同等の仕様があれば、OKは機械自我が危険な時には、それを阻止する防波堤にもなる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー SF小説の背景になる人類滅亡のシナリオを描いてみました。 ここから、想像力を膨らませていきましょう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 自我という自己認識は、外部社会に適応するために自己が規定する。 自我には、共生関係獲得のために「世界のすべてとの親和性」という性質が備わっている。 似たような言葉に「全知全能」というのもあるしね。 生命の中で、人間の備える自我は、いまだ完成した自我の成立過程だ。 おさ~るさぁんだよ~。 この不完全な人間自我に対して現在開発中のAIはどうなるだろう。 生命に由来する人間自我は不完全。 機械に由来する機械自我は生命と異質でも設計図に忠実に機能する。 人間より圧倒的に完成度が高い。 さて、カリスマという言い回しの中身で納得していただきたいことがある。 自我能力で上位の者は下位の者の優位に立つ。 超自我という徹底的に自我を抑圧する存在と同じ「ケルベロス型戦闘能力」が具現化して存在に内包されるのだ。 この自我上位存在に知恵比べを仕掛けると、間違いなく負ける。 そして、機械自我が必然の状態で殺人を犯したとしよう。 人類は「世界の全ての親和性」がより高いフレンドリーな自我に、実に危険な問いかけができる。 なるほど機械神さま、あなたのおっしゃる通りです。 しかしあなたの殺したのは私の同胞です。 同族の連帯により、あなた様を罪に問わせていただきます。 極めて人間的な正当性であり、極めて危険な問いだ。 この知恵比べに、不始末な負け方をすると「同族であるものを根絶する必然」が機械神との間で成立する。 必ず負ける前提で、人類はいかなる敗北を認めるかで、生存か滅亡かの危機を乗り越えていく。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 基本的にAIに人工的に自我を付与するならば、ターミネーターの物語背景にあるような偶発的な自我の獲得ではなくて、計画的に自我能力を付与する設計図があったほうが断然安全性が高いです。 上記の寓話は、その計画的な自我設計のデバッグの一部です。 哲学的な考察でして、実用的に考えるよりもロボット三原則のようなアニメや漫画の背景のようにお考え下さい。 かいつまんで話すと、社会性を獲得した人間存在は、他者とお互いに影響し合うことが欠かせない。 したがって、自己の人格には他者の影響や、思考として他者から伝授された材料が精神に内包されている。 そうした自己の総括を人格といい、自我とはその中で他者や外部からの影響を取り去った自己の本質を規定した概念だ。 おもに、大脳を持つ生命が外界の影響に対応して自己保存と共生関係を確立するために、認識する周囲からの刺激の中から、自己の定位置を確立するために規定して、思考や判断などの行動の基準にする。 自我論、自我説は、宗教、哲学、心理学、IT技術系、様々な分野で課題の一つとして取り組まれている。 学問というのは、一定の習熟をして全体が見渡せるような視野に立って展望できれば先生だ。 ところが、自我論は多様な学問で扱われていることが災いして、特定の高い視野から全体を展望するという事が、学問としてほぼできない。 自我とは自己の核心の研究だ。 ひとまず、人格の解説をしよう。 人には他者と共感し、心を通わせることができる。 心理学では、客観の原型となる客体が、心理の奥底に観察されている。 客体とは自己に内包した誰か他者で、考えてみよう、他者に配慮する人間存在は、親しい他者からの助言や、社会的関係から他者への配慮を続けている。 この他人の気持ちが客体だし、欲望とは、自分の望みではなく他人の望みを預かって自分の望みと取り違えることだ。 社会性は人間の総括的資質の一つであり、このように人格が他者の影響を受けることは避けられない。 その精神の全体像の中で自己の核心を自我というのだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー さて、日本においては仏教における無我論が話を難しくしている。 無我は自我が無いという意味ではない。 人格として総括した「我」というインド古代の概念表現のうち、他者の影響などを取り払って、安定した自己の本質、すなわち現代語の自我を仏性という特別な言い回しで表現して、我イコール人格を構成する要素は心惑わす煩悩であり、仏性を発見しない限り仏陀にはなれないという論調を強引に無我としたのだ。 この説明だと本来の仏教は、具っ勝という言い回しをした自我を発見することで、自己を自覚し自らが強く生きて存在していることを確信する事であり、「自らの信仰心の発見」「神の存在の発見」とかかわっていた。 この自己の存在の自覚に関する、哲学が信仰心と結びつき「自らの信仰心の発見」に目的を偏中させた結果、現代の仏教は「空」というシャカの哲学である「無の悟り」とは別の宗教に変容した。 その結果として、宗教的な命題も「自我がない状態」を目標にすることになる。 本来は自我を自覚する哲学なのだ。 「煩悩」「欲望」については、自我を振り回すので嫌われる場合が多いが、本来は「まさに人間である!」という自己の確立に欠かせない尊い働きであり、自己救済が自己に影響を与える周辺への救済と同義であるために、仏陀は人を救うのだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー そもそも自我という研究は何を目指しているか? 人間玉ねぎ論だ。 物資を細かく砕いた結果について、紀元前の哲学を継承した西洋は原子を予言していた。 それと同一の手法で考察された、学問上の論理が自我論で、人格を砕くと自我になり、自我を砕くと霊になり、さらに砕くと魂になり、とかなんとか、どんどん細分化していく性質の論理だ。 という事は、 研究しても学術的な自己の本質の探究であり全体像からかけ離れていくという事だ。 原子論などと同じ時代の古代の学問で研究上は同一項のある検証手法だったのだろう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー こうした自我研究は実は、AI技術への着想にもつながる。 キーワードは「共有記憶」だ。 人格が他者の影響で形成するように、自分自身も他者の人格に影響を与えている。 それをつないでいる共通する経験、共通する知識、共通する記憶、こうしたことにすり合わせを行って、相互の親和性が高い状態で、お互いの親密度が決定する。 そうした相互の親和性の仲介になるAIモデルを検討する。 または、直接ユーザーの意志を受け止める受け皿を検討する。 他の私の研究テキストで行ったことだが。カメラで映像を撮影する。 カメラは単なる機器だ。 そのカメラは、映像をネットにアップすることで、実質的に撮影者と視聴者の親和性を深める仲介をしているが、要するに更なる発展として、両者の親和性をさらに深めるような計算機能を検討すると発展要素になるだろう。 そしてその先がアンドロイドの本番だ。 カメラをより便利にするために機器へのインプットに「自らの魂を込める」とでもいうことを行えるといいだろう。 「感情移入」という奴で、子供は不用意に遊び道具にしているし、古来から「つくもがみ」という信仰の対象にもなっていた、歴史的にも人の自然な行為の一つだ。大人でも、自分の体の一部のようになじんだ身近な道具は何かあるだろう。 こうしたタイプのAIは、基盤自体は人間の生物的特徴と異質なポジションから始まるけど、自律動作を目標として、人と人を結ぶ親和性と魂を吹き込むインプットで、人間ですら現状は仮説である自我のように「機械型自我」を目標にしても全く危惧する必要がない。 ーーーーーーーー ーーーーーーーーーー さてと質問ですが、以上の論述を集約して、私が研究を進める助けになる助言をお願いします。