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吉良邸討入前にそば屋の2階に集合

 あれはウソだったのでしょうか?

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回答No.8

 補足させていただきます。 >元禄年間に江戸でそば切を外食できたかについてですが、今井金吾校訂『定本 武江年表』ちくま学芸文庫には、当時評判の「手そばきり 鈴木町丹波屋与作」を挙げています(元禄年間記事項中)。  『武江年表』 は斎藤月岑編。正・続12巻あって、正編は嘉永三年(1850年)成立、続編の成立はその30年後です。  討入事件から百数十年後に書かれたものだから、まずその出典から調べてみる必要があります。  こうした史料の翻刻では校訂者の考えが入り込んでいるので、なおさらです。   「鈴木町丹波屋与作」 の名の初出は、『本朝世事談綺』(菊岡沾涼)享保十九年(1734)にある 「けんどん」 の説明です。  引用しましょう。  「江府瀬戸物町信濃屋といふもの始めてこれをたくむ。そののち所々にはやりてさかい町市川屋 堀江町若菜屋 本町布袋屋 大鋸町桐屋など名をあらそふ中に鈴木町丹波屋与作といふものぞ名高かりしなり これをけんどんとなずくるは独味して人にあたへざる心また給仕もいらず, あいさつするにあらねばそのさま慳貪なる心また無造作にして倹約にかなひたりとて倹飩と書くと云ふ。この説よろし」  ほら、鈴木町丹波屋与作よりも前の瀬戸物町信濃屋の名がでてきたでしょう。ここに登場した店があった年代なんて、どこにもかかれていません。  『武江年表』成立以前に、寛文四年(1664)に 「けんどん蕎麦切」 の店が現れた、と書かれた有名な史料が2つあります。  ひとつは 『三省録』(志賀理斎著、天保十四[1843]年刊)。  もうひとつは喜田川守貞が書いた「守貞謾稿」として知られる『近世風俗志』(守貞謾稿)で、これは天保八(1837)年に筆を起し30年間かけて書き上げたものです。  この2つの史料の 「寛文四年」 出典は、新見正朝が享保年間(1716~1736)に書いた 『昔々物語』。  「寛文辰年(四年甲辰) けんとん蕎麦切といふもの出来て下々買ひ喰ふ貴人には喰ふものなし是も近年歴々の衆も喰ふ結構なる座敷へ上るとて大名けんとんと云ふて拵へ出す」  はじめは、「けんとん蕎麦切」 は、「買ひ喰ふ」 もので、下賎の者が買い食いするものだったのです。ところが、享保の頃になると大名が座敷に上がって 「けんとんを」 と言って注文するようになりました。  で、この 「けんどん蕎麦切」 は、寛政元年(1789)に姿を消したのです。←これが重要!  出典は 『撰要永久録』。南伝馬町名主、高野家の所蔵史料から、江戸町方に出された町触・御触・申渡等を編年体に集成したダイジェスト版で、収録されている年代の範囲は正保五年(1648)から文久二年(1864)です。  もうおわかりでしょう。  志賀理斎(1762-1840)は 「けんどん蕎麦切」 を実際に見たことがあり、彼が生きている間に禁止令が出て消えたのです。  喜田川守貞(1810-?)は浪華に誕生し、天保八年(1837)に江戸・深川に下った人なので、自分の目では 「けんどん蕎麦切」 は見ていない。  江戸麻布の永坂に寛政のはじめ(1790年ごろ) 「信州更級蕎麦処布屋太兵衛」 の看板を掲げて商いを始めた店は、今に続いています。  今は日本橋にある藪伊豆は、天保のころに京橋に創業した 「伊豆本」 が母体です。  寛政から天保までの半世紀の世相の変化を書いた 『寛天見聞記』 には、蕎麦屋の箸は太いものだったがいつの間にか細くなった、などが記されています。   こうしたことからみても、「けんどんそば切」 は、店舗を構えて商いをしていた蕎麦屋ではないことがわかるでしょう。  半藤一利著 『歴史をあるく、文学をゆく』(文春文庫)は、自ら史料を調べず孫引きで書かれたものでしょう。  『本朝世事談綺』 にはこうありましたね。  「独味して人にあたへざる心, また給仕もいらず, あいさつするにあらねば, そのさま慳貪なる心, また無造作にして倹約にかなひたりとて倹飩と書く」  「倹鈍」とは、 「垂直に上げ下げすること」 です。  倹鈍窓、倹鈍扉などは垂直に開け閉めします。  「倹鈍」の言葉は建築用語として使われていました。  そもそも 「けんどん蕎麦切」は、商いに用いる箱の構造からできたことばでしょう。 >「蒸切蕎麦」などというものができるようになった。  これは、小麦粉をつなぎに使う前からあったものです。  そば粉だけで打ったものは、茹でると切れやすいので。  最近の 「十割そば」 などは、製粉技術の改良によるものです。

kohinata7miwako
質問者

お礼

詳しいご説明ありがとうございました。 もともと、いつ誰が何にどんなことを書いたのか。そういうことまで説明されることは稀だと思います。 今後ともよろしくお願い申し上げます。

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その他の回答 (7)

noname#217196
noname#217196
回答No.7

 『泉岳寺書上』に関しては三田村鳶魚が『横から見た赤穂義士』で筆誅を下しています。この書上を参考にしたのか嘉永七年(一八五四)刊の山崎美成の『赤穂義士伝一夕話』にも楠屋十兵衛の話が出てきます。  義士討ち入り話の詳細は『塵点録』にあることは、朝日重章著、塚本学編注の『摘録 鸚鵡籠中記』岩波文庫、原典である日記本文に明記しています。  しかし、神坂次郎の『元禄御畳奉行の日記』中公新書で義士討ち入りの記録が『鸚鵡籠中記』には僅かしかないと書いたためか、井沢元彦も同様のことを『逆説の日本史』小学館(週刊ポスト連載)ほかで書いたためか、元禄快挙への事件直後当時の人々の関心は低かったとする説はここ四半世紀で割と広まっているようです。  ちなみに神坂次郎は『そしてまた、例の、その翌年の年の暮、元禄十五年十二月十四日の赤穂浪士たちの吉良邸討入りについても、わずかに、(改行)「夜、江戸にて浅野内匠家来四十七人亡主の怨を報ずると称し吉良上野介首を切り、芝専(泉)岳寺へ立退く」(元禄15・12・15)(改行)とあるだけである。(改行)それに文左衛門は、この後の浪士たちの切腹については一行の記入もしていない。』と書いちゃっています。

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noname#217196
noname#217196
回答No.6

 元禄年間に江戸でそば切を外食できたかについてですが、今井金吾校訂『定本 武江年表』ちくま学芸文庫には、当時評判の「手そばきり 鈴木町丹波屋与作」を挙げています(元禄年間記事項中)。  半藤一利の『歴史をあるく、文学をゆく』文春文庫では、出典の明示はありませんが、寛文四年(一六六四。前後の元号をあげると明暦、万治、寛文、天和、延宝、貞享、元禄の順)に江戸ではじめてそば切販売、二八そばとかけんどんそばという名でそば切が流行していき、元禄のころには江戸町人の好むものになっていたものの、当時はまだ俗に夜鷹そばと呼ぶふりわけ屋台のそば屋が主、店舗を構えたそば屋は寥々たるものだった、と書いています(「元禄十五年十二月十五日」の章)。  池並正太郎の『男の作法』新潮文庫では、そばについてこんなことを書いています。『金さえ持って行けば蕎麦が食べられるから大変便利になった。はじめは太く打った黒い蕎麦を箸でちぎるようにして口へ入れ、丹念に噛みしめるものだった。それがしだいに調理のしかたも工夫されてくる。(改行)たとえば「蒸切蕎麦」などというものができるようになった。これは、湯でさらした蕎麦を水で洗って、それを蒸籠に入れて熱で蒸すんだよ。これを柚子の香りのする汁につけて食べるんだ。』(「徳川綱吉」の章)。

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回答No.5

 追記します。  「鸚鵡籠中記」の元禄十五年十二月十四日条に書かれた吉良屋敷討入りに関する記述は、あとから余白に書き込まれたものです。  江戸に住む人だって、事件を知ったのは十二月十五日以降です。  「塵点録」に書かれたことを読むと、事件後しばらくしたら次々に情報が入ってきたことが伺えます。五部作のうち四つは他の人が書いたものとの類似からみて、写本のかたちで広まったものと思われます。  朝日文左衛門はこれらの情報や自らが過去に見てきた江戸の状況などから、オリジナルを書いたのでしょう。  江戸にはあちこちに辻番や自身番があって昼夜監視していたし、町では相互監視システムが出来上がっていました。文左衛門はそういうことを知っていたし、川や堀、運河などによる水路移動がよく行われていたので、討入のとき吉良屋敷までは舟で行ったのではないかということを書いています。  そば屋については、「泉岳寺書上」という史料に楠木屋十兵衛の名ででてきますが、そこには 「手打そは切」 という言葉が記されています。  しかし、、「手打そは切」 は 『仮名手本忠臣蔵』 が上演されたのちに使われるようになった言葉で、元禄時代に書かれたものにはありません。  ちなみに、「手打ちそば」 は現在は 「製麺機を使わずに作ったそば」 という意味で使われていますが、製麺機は明治になってから手動のものが発明されたくらいですから、もともとは 「機械打ち」 の対語ではなかったのです。「二八そば切」 と差別化する 「上等なそは切」 という意味で使われていたのです。   「手打そは切」 は、そもそもは 「手討ち」 と歌舞伎の世界での贔屓筋「手討衆」 によって行われる大入りを祈念しての 「手打」(拍手) の儀式からできた言葉です。

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回答No.4

 尾張徳川家の家臣朝日文左衛門の日記 「鸚鵡籠中記」 の元禄十五年十二月十四日条には、次のように書かれています。  「夜、江戸に而浅野内匠家来四十七人亡主の怨を報ずると称し、吉良上野介首を取り芝専(泉)岳寺へ立退。評見塵点録廿五雑言部」  「評見塵点録廿五雑言部」を見落としたのか、あるいは孫引きか。「鸚鵡籠中記」には、赤穂事件・討ち入りは数行しか記述がないと本に書いた人が何人もいるので。。。。  「塵点録」は、文左衛門が父から受け継いで書き残した随筆集です。日記には書ききれないし、詳しくは「塵点録」を読んでください、ということです。  「評見塵点」のなかには赤穂事件もの五部作があります。このコピーは、大河ドラマ『元禄繚乱』の製作中に、私はNHKドラマ部に資料のひとつとして提供しました。  五部作のうち四部は、あちこちからかき集めたものを筆写したようです。それだけの数が尾張にまで届いていたということになります。  文左衛門のオリジナルと思われるものは百ページ以上の大作です。  江戸に行ったことのある文左衛門なので、江戸の地理や治安などについてもいくらか知ってたようです。そこからの推測と思われる部分は、「なるほど」(笑)  「塵点録」は翻刻出版されていませんが、愛知県図書館で閲覧できますよ。

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  • oska
  • ベストアンサー率48% (4105/8467)
回答No.3

>あれはウソだったのでしょうか? ウソというか、忠臣蔵は「物語」です。 歴史資料では、ありません。 物語は、色々とフィクションを付け加えます。 歴史的資料価値が認められている「鸚鵡○○記」(尾張藩奉行日記)でも、赤穂事件・討ち入りは「数行記述」です。 決して、全国的なニュースでは無かった様ですね。

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回答No.2

 kusirosi さんが書かれたことに、少し加筆さ・訂正せていただきます。 >元禄年間の江戸には、  二階に四十七人入るような立派な そば屋は、まだない。  元禄年間の江戸には、店舗を構えて座敷あるいは上がり框で客にうどんやそば切を供することを専業とする者はなかった。 >実際には吉田忠左衛門他数名が、移動の途中で、うどん や そばがき を食べたということらしい。  寺坂吉衛門が書き残した記録(寺坂信行自記)には、次のように書かれています。  吉田忠左衛門らは米沢町の堀部弥兵衛の借宅に立ち寄り、そこでしばらくの間、討入の門出の祝儀として盃などを酌み交わしました。  その後、思い思いに、本所林町の堀部安兵衛、徳右衛門町の杉野十平、相生町の前原伊助の三軒の店(たな)に別れて入った。  で、ココです。  原文に続いて現代語訳も示します。  「忠左衛門・沢右衛門其外六、七人ハ両国橋向川岸町亀田屋と申茶屋に立寄申候そは切なと申付、緩々と休息」  吉田忠左衛門・沢右衛門その外六、七人は 「両国橋向川岸町亀田屋と申茶屋に立寄申候そは切なと申付」、休息した。  「八ツ前安兵衛宅江参、内蔵助父子一所に装束致し候」  八ツ前(午前2時頃)に一行は安兵衛宅に到着し、大石内蔵助親子とともに討入り装束で身を固めた。  真夜中の移動です。  その途中にある 「両国橋向川岸町の亀田屋という茶屋」 で 「そば切なと」を注文したとは。  米沢町の堀部弥兵衛宅を出て両国橋を渡る。両国橋の向こう、川岸にある町の亀田屋という 「茶屋」 で・・・  両国橋を渡ると広場がありました。右手は当時は 「御石置場」。その先を右に折れて竪川の方に歩くと、竪川の川岸に一箇所だけ町のようになっているところがあります。  竪川に架かる一之橋(一つ目の橋)の手前。  ここはのちに江戸の岡場所のひとつとなった場所です。  この当時は 「岡場所」 という言葉はなかったのですが、無許可の風俗営業の店があったのです。  吉田忠左衛門ら一行は履物を脱いでこの茶屋に上がり、そば切などを食べながら茶屋女とともにひと時を過ごしたのでした。

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  • kusirosi
  • ベストアンサー率32% (2838/8861)
回答No.1

元禄年間の江戸には、 二階に四十七人入るような立派な そば屋は、まだない。 信州から伝わった ソバの屋台が江戸の街で営業始めたのが、享保年間なので\(^^;)... 実際には 吉田忠左衛門他数名が、移動の途中で、うどん や そばがき を食べたということらしい。 このことにヒントを得て 「饂飩屋久兵衛口上書」という史実を装った義士物の創作読み物で 堀部弥兵衛が、三両払い、うどん屋の二階に集った赤穂浪士が、うどん や そばがきを食しながら 一献かたむけ、討ち入り前の腹ごしらえ したという話になり、 さらに、江戸っ子 に ソバが親しまれるようになり、 討ち入りウドンから討ち入りソバに変じたらしい\(^^;)...

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