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一階の言語で書かれた集合論と二階論理

述語の量化のためには二階論理を使う必要があるということを読んだのですが、 zfcの公理系は一階述語論理の言語で書かれていますよね。 zfcにおいては対象は集合であり、その量化は集合の量化つまり述語の量化になるのではないでしょうか。一階の言葉で書かれた集合論で述語の量化ができているようにみえるのです。 上の内容でなにか勘違い、思い違いをしていると思います。それはどこでしょうか、また集合論と二階論理は本質的に何が異なるのでしょうか。この方面に詳しい方、いらっしゃいましたら助けてください。よろしくお願いします。

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二階述語論理において 量化できて 一階述語論理において 量化できないものは [集合] ではなく ドメイン(議論領域)( 量化可能な個々の元(個体)の[集まり] ) です。 一階述語論理でかかれた zfcにおいては [集合]=[個体]だから [集合]≠[述語]で [集合の量化]≠[述語の量化]で [集合の量化]=[個体の量化]で 「∈」が述語で ドメイン(議論領域)は 全ての集合の[集まり]となります D=(全ての集合の[集まり]) が[集合]であると仮定すると D∈D となりますが、 D∈D となるDをzfcの中では[集合]として構成することはできません。 (ラッセルのパラドックス) D={X|X∈-X(XはXの要素でない)} とすると D∈Dと仮定するとD∈-Dと矛盾 D∈-Dと仮定するとD∈Dと矛盾 D∈DであるともD∈Dでないともいえません。 D={X|X∈-X(XはXの要素でない)} はzfcの中では[集合]として構成することはできません。 一階述語論理で書かれたzfc 集合論の ドメインは([集合]といえない) D=(全ての集合の[集まり]) となっているのに対して 二階述語論理の ドメインがDのような[集合]でない[集まり]の場合は 論理的に破たんするので ドメインは個体の[集合]に限定している 所が異なります

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