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日本人の文章における人称指示に関する考察
- 日本語文章では主語や人称の指示を省略することが多いが、欧米言語ではしっかりと指示することが一般的である。
- 日本語には「代名詞」という考え方が存在せず、見かけ上の代名詞も文法上はただの名詞である。
- このような言語的特徴から、日本人が自己や他人を指示することにあまり拘らない心性の傾向があると言える。
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2. このことで日本人が欧米人に比して自己や他人を指示することに拘らない心性の傾向を示すものだと理解することは失当なものでしょうか? ○ そんなこと無いですよ。 日本人と欧米人は明らかに心情として違う部分がありますよ。 日本の「和」の精神はやまとの国の基本理念ですが、これは哲学的に言えば「我即他、他即我、更に一即多、多即一」に通じるもので、非常に精神性が高いという意味でもあるのですね。 この精神を反映して言葉にも、ご指摘のように、自と他の境界があいまいですね。 一方、欧米の心情は、はっきり言って、科学的ではあるが精神性は「和」の精神まで到っていないのですね。その分、自と他の区別がはっきりしてますね。それが、言葉「主語」に表れてますね。 これら2種類の精神のぶつかりで地球文明が出来ていると思いますよ。 主語を外す文化は「和」の精神文化であり、「主語」にこだわる文化は「科学的精神」を基盤とする文化ですね。 どちらも一長一短がありますので、どちらも大切にしないといけませんね。 ということだと考えています。 追伸、私は翻訳業を生業としてますので2種類の文化をいやでも使い分けないといけないのです。 日本語は楽ですが、主張を正確に伝えるには欧米語のように「主語」があったほうがいいですね。
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- littlekiss
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こんばんはkrya1998さん。 時期も時期ですので、気分はオープンキャンパスといきますか? ●淑徳大学って、千葉だったかな。社会福祉学部もありましてね、愛知にもあったのですね。 ↑ 淑徳大学って千葉と埼玉(みずほ台)のキャンパスと池袋にサテライトキャンパスがあるようですね。 で、こんな講座があったりと ↓ 講座案内【盛田隆二の「短編小説を書く」講座】 http://ext.shukutoku.ac.jp/course/detail/69/ 【盛田隆二アーカイブス】 http://morita-ryuji.hp.infoseek.co.jp/ で、愛知の淑徳大学 http://www.aasa.ac.jp/guidance/index.html 【大学案内】 1905(明治38)年、日本の女子教育の黎明期に創立された愛知淑徳学園は、愛知県で初となる私立高等女学校として、その一歩を踏み出しました。家事や裁縫が女子教育の主流とされていた明治の時代において、本学園の創立者・小林清作先生は次代へまなざしを向け、英語や理科を必須科目とし、スポーツを奨励しました――云々 ふむうむ、愛知県で初となる私立高等女学校愛知淑徳学園がそもそものはじまりと、 1975年に女子大学が設置されいまは男女共学の大学として運営 【淵沢能恵(うちざわのえ)】 http://www.bunka.pref.iwate.jp/rekishi/yukari/data/fuchizawa.html 【解説】 福沢諭吉の『西洋事情』を読んで西欧文化にひかれ、31歳のとき釜石鉱山の技師・バーゼル家の女中としてロサンゼルスに渡り、のちに自立してサンフランシスコで英語を学ぶ。帰国後、同志社女学校に入学、東洋英和女学院で教鞭をとるなど女子教育に没頭する。1905年(明治38)に韓国に渡り、翌年には明新女学校(のちに淑明女子高等普通学校と改称)を設立、その女子教育にかける熱意は地元・韓国でも評価され、李王朝から校地や資金を援助される。1936年(昭和11)、87歳で死去。彼女の創立した学校は、現在も名門私立学校として多くの人材を輩出している。 先の二つは淑徳だけれどもここと良く似た名の淑明って名の大学が海の向こうにあったよ。 【淑明女子大学校】 http://www.sookmyung.ac.kr/ 【消された日本人の功績~淵沢能恵】 http://blog.goo.ne.jp/bosintang/e/3b77b7051cc7b48be8ec98e00a08d134 淑明女子大学校の案内の中には 1906年の朝鮮皇室は、我が国の力で作成された、女性の教育機関の必要性を痛感して、龍洞宮の学校跡地を定め、宿命を創学した。日帝ていた当時の韓国の教育史上初の韓国人の校長が就任した中での予備選挙宮と英親王宮が下賜した黄海道、全羅南道、京畿道など3タイル新川、銀製品、莞島など6郡の農耕地の収益金を財源に11歳~26歳の女子生徒5人を選抜して、ドアを開いた私たちの宿命の創学は、外国の資本に依存していることなく、ただ我々の力で起こした民族の女性の教育の始まりだった。このことから、32年後、第二次大戦勃発直前の暗鬱な時代を送りながら、救国の愛族を念願していた当時の知識人たちは、より高い女性教育の必要性を痛感するようになり、これが挙国的な『宿命相変わらずの設立募金運動』に続いて1938年淑明女子専門学校が誕生した。私たちの大学の前身である宿命相変わらずは、皇室から提供された莫大な財源と行事の上に、歴史的に類例がない、このような知識人の募金運動に支えられ、生まれたので、その設立自体が、民族と知性社の一部であるだけに、感激的なスタートだった。 と、記載してある。 1906年といえば、1905年に日韓協約がむすばれた翌年。 淵沢能恵さんの女子教育にかける熱意は地元・韓国でも評価されたのだったら 彼女の名がどこにもでてこないのは何でだろう? 韓国でも言論封じがあるのかな? ノーベル賞候補に劉暁波氏の名があがったとき中国が快く思わなかったように 淵沢能恵さんの名があがることを韓国の中で快く思わない政治的圧力がはたらいて 言論封じのごとく名を口にすることも名を記述することも禁じているのかな?
お礼
可愛くキッスさん。 ちょいと老人健診の結果とか、従姉妹がなくなったりして、あなたのご紹介のコーパスが読めなくて、締め切らないで居るんです。 朝の勤行が終わり、庭を掃除してから食事し、直ぐに戻ります。
補足
たくさんの文献と情報を有り難うございます。 淵沢能恵さん熊沢蕃山の字面に似ていましたが女性ですね。 瓜生岩子もご立派ですね。 淑徳もあちこと立派なキャンパスがあるんですね。 二時におき日々の所用を済ませ、先ほどパソコンにてこの新しいご回答をみました。 部屋の掃除、食事、そして庭の掃除をして先ほど戻りました。 漸く各URLにアクセスしました。 有り難う御座いました。 どうぞお達者で。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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クリヤさん 蝮のしつこさに我れながら辟易します。でも学問の王道は その執着にあるという一面も捨てきれないでしょう。 問題は 言語をクリヤさんが取り上げて問うておられるというところにあります。文化や民族性についての問いであるなら 何も目くぢらを立てることはありません。 ★ ものさし ☆ これは 文化に当てはめるのではなく――また当てはめることは出来ないでしょう―― 言語に対してなのです。 ★ 自己や他人を指示することに拘らない心性の傾向 ☆ 現代でこそ日本語でも《あなた》という一般的な対称がありますが 韓国語ではいまだにこの相手の呼称をどうするかで苦労しているところがあります。《どう指示するかに拘らなかった過去を引きずっており 現代においてどう表わすかについて苦労している》という意味です。 【Q:韓国語で「あなた(きみ)」「私たち」は何と言いますか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5287770.html ▲ (そのベストアンサー) ~~~~~~~~~~~~~~ 韓国語には元々、日本語の「あなた」にぴったり当たることばがありません。 「あなた」や英語の「 you 」の訳語として、「タンシン」ということばを当てたので辞書や学習本によってはタンシンで載っていることがありますが、「タンシン」は本来は使う場面が限られることばなので外国人は基本的に使わない方が良いでしょう。 * ( bragelonne 註):タンシンは 《当身》という漢語です。 英語の「 you 」的感覚として、タンシンを使う例も無くは無いですが、外人が一般会話の中で使う単語ではありません。 ⇒(面と向かって使うのではない場合の用例): ・「タンシンも保険を替えて安心を手に入れましょう!(保険会社のCM)、 ・「タンシンの信頼に応える銀行、それが○○銀行です!(銀行のCM)、 ・「タンシンはまだこの味を知らないの?そんなッ、この味を知らないなんて!(食品会社のCM)」・・・等あります。 一般会話で「タンシン」を使う時は、夫婦同士で呼ぶ時、ケンカを始める時・ケンカの最中に相手を呼ぶ時 (「オイ、 アンタ、 俺とやってやろうっていうのかよ!」「アンタねぇ、さっきと言う事がちがうじゃねぇかよ!」「タンシネドゥリ ~ (アンタがたが ~ )」みたいな使い方。 タンシン が口から出て来た時点で、ケンカ腰です。次の次の瞬間くらいにパンチがあなたの頬を強打するかもしれません。) です。 クッチョク(クッチョk)(直訳: そちら 、 訳: そちら、そちらさん )や、 テク(テk)(直訳: 宅 、訳: お宅、お宅さん )(漢字で 「宅」)などが飛び交っているのはまだマシな時です。平常時でも使いますので。でもタンシンになったら状況は悪くなります。 * 註:クッ=《それ・その》。チョク=《側》という漢語。 クッチョク(クッチョk) の複数形は、 複数形のトゥル(トゥr)を付けて 「クッチョkトゥr(クッチョットゥル)」で、 「そちらさんたち・そちらさんがた」 テク(テk) の複数形は、 同じく 「テkトゥr(テクトゥル)」で、 「お宅たち・お宅ら・お宅さんたち・お宅さんら」 * 《トゥr 》もしくは《トゥL 》と表記するのは 《ル ru / lu 》の母音が無いということを表わしています。《チョk 》も同じです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち韓国朝鮮人は 相手を呼ぶという場合に それを《指示することに拘らない心性の傾向》を持っていたと考えられます。言葉で指示しなかった。したくなかった。 この言語学的事実は その言語に関する限りで 物指しになり得ます。 ひとり日本語の問題のみを扱うという態度は いただけません。 言語に重心を置かずに民族としての文化〔のみ〕を扱うという場合には 別でしょうけれど 言語を取り上げるのなら・言語と文化を結びつけるのなら 一つの言語だけにしぼるというのは狭い見方になります。 たぶんクリヤさんもそういう方向で 物指し論議を出されたのだとは思います。思いますが いきおい余って 目くぢらをおさえるすべがありませんでした。
お礼
bragelonneさん、碩学に再度再々のお運びをたまわりました。 韓国・朝鮮語に“相手”を表示するに該当する語が定着していない。というか未だ拘らない歴史性を継承しているというのは新しい知識ですね。 韓国・朝鮮語の細やかな機微が覗えます。私にはただ驚きの一語です。 お隣のそういう歴史と感覚も大事なことですね。 蝮と比喩され続けないように、そろそろない尾っぽをまいて引き下がらせていただきます。 有り難う御座いました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
出しゃばりに徹します。 次の見方を参照すべきではないでしょうか。 ▲ (日本文化论概况) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://www.dltcedu.org/index_5/html/93526/over/noallow/page/2.shtml ■ 日本語と朝鮮語と文化・・・(* ほとんど最後(ページの一番下)のあたりに出て来ます) 日本語と韓国朝鮮語(以下韓朝語)は共に膠着語として同一のルーツをもつといわれている。 言語社会学者の渡辺吉鎔(キルヨン)(* 女性)は、『朝鮮語のすすめ』(1981)で、朝鮮語と日本語における助詞や主語の省略の共通性をわかりやすく説明している。 そのなかで、文化論との関係で、日本語学者の大野晋や金田一春彦の日本語独自論を、朝鮮語を無視し欧米語との比較に偏っていると批判して次のように述べている。 ◆ (渡辺吉鎔からの引用1) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ”日本語の「主語なし文」が野暮を嫌う日本的な美意識のあらわれであるとか、省略の美学のあらわれであると唱えても、全く同じ「主語なし文」を有する韓国人にはそんな美意識はない。 したがって,論理的に美意識と「主語なし文」は無関係であるということになる。 むしろ、私にとって「主語なし文」を美学とか美意識とかに結びつけようとする心情が、非常に日本的な言語観のように映り、興味深い。はたして言語現象は、すべてその文化独自の性格を投影するものなのであろうか。” (渡辺吉鎔『朝鮮語のすすめ』講談社 1981 p95) ◆ (引用2) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ”日本人が言葉を通じて自分を見つめようとするならば、朝鮮語は必要不可欠で最適なモノサシである。このモノサシなしで、日本文化・日本人の特色を測ることを試みれば、欧米語との違いを日本語の特色と誤認し、その日本語の特色を日本文化の特質と無理やりに関連づける、従来の日本語論の轍をふむことはさけえない。その結果、ゆがんだ自国語論・自国文化論から脱け出ることができないのはあきらかである。 地理的には日本に最も近い韓国、そして言語的に類似性の高い朝鮮語に目を向けたうえで、日本人は自らが何であるのかを正しく見つめ直す作業を一日も早く開始すべきである。日本の本当の意味での国際化への道はここにはじめて可能になる。” ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 日本語が韓朝語と ・ 同一のルーツをもち、(* 定説ではない) ・ 語順(SOV型)や (* SOV型で割りきるのは一面的) ・ 助詞の多様性、 ・ 主語の省略、 ・ 指示詞(コソアド)など 文法的・語用論的に似通っていながら ・ 自己主張の強(韓朝)弱(日本)や ・ 「暗黙の了解(以心伝心)」の有(日本)無(韓朝)について 隔たりがあることは、著者が指摘するとおりであろう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 主語の省略 あるいは 主役語の多様性といった言語の特徴が 俳諧に見られるように世界の渾然一体性を日本人が好むということと 簡単に結びつけることは出来ない。この見方については 一考に値するとわたしは考えます。(この点 大野晋も微妙であるかも知れません)。 そもそも わたしは俳句などは分かりません。短文を持ち合ってそれを通じて意志疎通を図るということにはなるほどという思いを持ちます。 それに世界の一体感なら インド人も持ったでしょうし どこでも多かれ少なかれその傾向を持つと見るべきではないでしょうか。 ことは重大です。言語および民族性について通りすがりの議論で済ますわけにはまいらないと思います。
お礼
bragelonneさん、再々ご訪問に感謝します 。 朝鮮半島との影響関係は無視できないことですが、引用されている渡辺吉鎔氏の「朝鮮語は必要不可欠で最適なモノサシ」というのは俄に同調だけしていくわけにはいきませんね。つまり“ものさし”という“選択ことば”については問題があると存じます。 主語省略は一つの現象であり、これを美学という言い方をするのは取り違えに走ることになるかと存じます。 主語省略を美学だとは云っている人はあまりいなく、欧米の何かと拘るかのように明示することのかったるさを感じているということにあたりの前後に尽きるかと存じます。 【欧米語との違いを日本語の特色と誤認し、その日本語の特色を日本文化の特質と無理やりに関連づける、従来の日本語論の轍をふむことはさけえない。その結果、ゆがんだ自国語論・自国文化論から脱け出ることができないのはあきらかである】 まぁそういうこともいえるでしょうね。感じる人から見れば私達の対欧米比較言語論を片腹痛く思うでしょう。 でもそういう対欧米比較言語論で尽きるとは誰も思ってはいないのではないでしょうか? 俳諧が必ずしも主語の省略性を特徴としている、或いは要件であるとはあまり思いませんし、その必要もないと存じます。 “渾然一体”という言葉を私も使用しましたが、これはそういう次元の事柄をいうつもりはありませんでした。 韓国・朝鮮の言語、離れた場所から言葉を認知しないで会話聞いていると、日本語の会話と同じ抑揚とくぎりですね。 大事な兄弟性があるのだとは存じます。でもものさしというのは違うと存じます。 有り難う御座いました。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
万葉・古今形が出されていますので、江戸ぐらいからの追伸まで 「静けさや岩に染み入る蝉の声」 「荒波や佐渡によこたふ天河」 有名な芭蕉の句ですが、これ精神性のみでしか解釈できませんよね。 西洋的に主語といえるのは最後の「せみの声」「天河」でしょうか。 でもそれでは解釈を誤るのですね。 「岩」も「蝉の声」も「荒波」、「佐渡」も「天河」も全て主語として解釈して初めてこの句に意味があるのですね。 西洋的に「物と生物を分ける。」という概念が存在しないのですね。全てを生き物と解釈しているということですね。それ故、受動形という概念が欠落していますね。 これは日本に仏教が入ってからだと思われますが、本来の神道の「和」に通じるものがあって受け入れられたと考えています。 おそらく、江戸300年の間に「自己や他人を指示することに拘らない心性」が神道と仏教精神を色濃く受けて成立したのではないかと。
お礼
mmkyさん、再度のご訪問、ありがとう。 正に、芭蕉の心性界に親しめなかった、中学入学時では思いや感慨が表現と意味と一緒になっている句の意味に馴染めませんでした。 つまりともにすることができませんでした。 主語、あるといえばいずれも最後の蝉の声と天の河ですね。 でも主役という主格はこの全体であり、そしてまた現れてこない吟者のこころなんでしょうか。 素晴らしいご分析でした。 日本的仏教、いわゆる無常や寂寥性。 そして和と信仰的、尊崇的アニミズム。 それらの渾然たる心性世界が、日本文化の底流となっているのですね。 有り難う御座いました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.4ですが おぎないます。 ウチとソトを意識的にまでも分けるというくせ・ならわしを持ったわけですが だからと言って日本人がその風潮に流されてばかりいるのではないことをしるしておぎないます。 あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長ながし夜を ひとりかも寝む (柿本人麻呂) これは伝承ですが そしてそのまま取れば しょうもない中身のうたに思えますが 《ひとり》に注目することができます。 世の中を憂しとやさしと思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば (山上憶良 五・893) ともうたったのがあるように 《独り》をしっかりと人びとは見つめていました。どこか桃源境に逃げ道を探すのではありません。その場にしっかりととどまります。 《わび》(侘)しくて侘しくて もはやそのワビが《さび(錆び)》ついてしまった。それでもなおその《独りある》ことを見つめつづけました。 おそらくそのたどり着いた場は――或る種の仕方で さかしらにブディズムの影響で《さとり》だと言ってみる人びともむろん出ていますが―― あまり言挙げしなかったのでしょう。《夜長をひとり過ごす》とだけ言っています。 むろんこのような哲学的な《問い求め》をしつつも 実際の生活日常では《おれとおまえの仲 / なあなあ主義》がほとんどそのまま続いたかも知れません。ですがいわゆる集団主義の空気に流されるわけではないことを 示してもいます。 その例は つぎの人麻呂のうたです。 おほきみは神にしあれば あまくものいかづちのうへに いほ(盧)らせるかも (人麻呂 三・235) 世の中の空気は 神がひととなって現われているのだというところにあります。そうでない人のスサノヲらも この神となって現われているアマテラス(その子孫)とは じつは・じつに じつの姉と弟であるわけです。なるほど神であれば いかづち山の上に住まいを持っておられる。そうかな。そうかもね。 とうたっているだけです。大君讃歌と言い慣わしていますが どうしてどうして。ただ現実に立脚して 現実を見ている。それを認識している。のみです。 少なくとも 一般につねにその情況――《わびしくさびしい》ならそれ――に逃げず逸れず真向かいから向き合う。やがてその情況を突き抜けて どこかあらたな場にたどり着く。という《問い求め》を日本人はして来ていると言いたいところです。 相手に合わせて言葉は言っていますから また必ずしも言挙げをしませんから きわめてへっぴり腰の人間的交通・弱腰外交として現われます。でも 《ひとり》の見る見方がそこに築かれていないわけではないでしょう。 《以心伝心》と言われていますが これも 《おれとおまえのなあなあ仲間》であると同時に それとは別に じつは・じつに 知る人ぞ知る しっかりと現実を見つめている《ひとり》の人間たちがいたし いるのですね。 この《ひとり》という眼をもって世の中をながめるという見方――これこそが《さとり》――のほうでも ゆっくりと・しかもゆたかに《以心伝心》がおこなわれて来ている。のではないでしょうか。《個人 インディヰ゛デュアル》という概念とくらべてどうでしょう? 凌駕すると言わずとも ひけを取らないでしょう。いちいち《自我》などと言う必要がありましょうか。 おそらく一般に わたしたちの先祖らは その場その情況に沈潜してそのことをとおしてあらたな境地を得た。そうしつつさらに問い求めをかさねて行った。ものと考えます。いかがでしょう。 時がかかります。地味であり なかなかつたわりがたいところがあります。 これを わたしのような出しゃばりにはならぬように いい塩梅に言葉にしても表わし 世界にお披露目してもいいのではないでしょうか。
お礼
#7のmmkyの再訪問の前に、bragelonneさんの再訪問があったのを気付きませんで大変失礼しました。 。 御所論、ご論説の取り違えになっているかも知りませんがそのように存じます。 内なる意識存在性と同時にindividualという個、分離し分けた意識は人間としての存在性であり、根底にはあり続けているでしょうから、意識とその現れのうねりの中で、何かと現出もしてきておりましょうね。 たいへん示唆に富むおはなしを有り難う御座いました。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
日本のように稲作農耕+島国というW集団主義文化なところでは、 以心伝心、腹芸、沈黙は金、などと、思ったことをハッキリ言わず、 お互いに察し合うのが美徳とされます。 その点、キッチリ自己主張して議論し、妥協点を見出すのを美徳とする、 大陸的な文化とは異なります(日本人は「議論」をケンカと同じに捉える)。 そうであれば、“言わずもがな”な主語や目的語は省略して察するのが、 “お約束”を守っている仲間意識を示す、マナーであって当然です (ウダウダ言うと「分かってるのにあえてそこまで言うか!?」ていう)。 また、集団主義的文化圏では、個人の意志よりも周囲に流されるのが 良しとされ、「自分がどう考える」よりも、“状況による意志決定= 日和見”が尊重され、その姿勢を示すためにも、主語をぼかして “自分が!”という印象をぼかすのが美徳となる(仕事での書類にも そうした意見だか分析だかわからない、“なんとなく”の記述が多く、 個人的には苛立つことが多い)。
お礼
psytexさん。 ご訪問、有り難う御座います。 私の拙たない理解ですが、お話はbragelonneさんの、日本人の内と外のことに通じますね。 はい、いろいろあげつらうことは好まれません。察することが大事です。 江戸下りの大石内蔵助と垣見五郎兵衛との宿場での会見など、しびれますね。 そして大参謀西郷隆盛吉之助と山岡鉄太郎との出会い、いいですね。 これは【稲作農耕+島国というW集団主義文化】の由縁、所以ですか。 私も昔は議論をしましたが、今は(「議論」をケンカ)と考えるようになってきました。 “言わずもがな”は、もう主語や目的語ばかりではなく、いいません。 (ウダウダ言う)な!です。 みんながどうか? どうも町会のことが、・・・。と思ってもまぁまぁですね。 これって、集団主義的文化圏の、仰せの“周囲の通り”なんですね。 何かと波風がないように。 異人にならないように。異端や奇人変人とならないようにとしていますが、どうも修練が足らずに町では知らない人がいない。 いえそれにもう65年もいますしね。駅までいくのに、10人と挨拶します。 お役目のごみだしでは、少ないときで6人と挨拶します。陽気なんです。 “自分が!”、 “自分が!”だと付き合いにくいし、息苦しいですね。 やはり“ぼかす”は美徳でもあるとされるのですね。 だからそういうことを尊重しながら、意見をいい、改革改善していく努力が必要とされるのですね。 戦前からの伝統と正当性を標榜しているラディカル革新政党の気安さであり、意外性の豊かさはなかなか日本人心性に浸透しにくいかも知れませんね。 有り難う御座いました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
言語学は得意です。つい出番だと思ってしまいます。 1. 日本語はかなり世界のいくつかの言語の中でも 韓国語とともに 特異です。詳しく説明しませんが その対極に英語があって 同じく特異です。それらの中間には 能格( ergative )を用いるバスク語やコーカサスの諸言語が位置すると見ています。 この始原( Japanese & Korean )と中間( Basque )と最先端( English )の定規の上から漏れるかのように別の意味で特異なのは 中国語です。文法自由という特徴だと思います。 2. 日本語では 人間関係として内と外を結構やかましく言うのだそうです。身内とよそ者とを 分けるというくせがついたのでしょうね。 《内》には コレとソレが属し カレ(またアレ)が《外》なのだと。アレェーッというのは 正体不明だと言おうとしているのだと言います。(ちなみに 日本語学については 大野晋です)。 3. そこで ワレとナレが 内にいる場合の呼び方です。第一人称や第二とは言わずに 自称と対称という言い方をするようです。自称が対称に無理なく用いられるというお話を挙げられています。互いに内にいるという感覚なのだと思われます。 オノレは 己称です。再帰代名詞ですね。 self 。オノオノ∽ウヌ(ウヌ惚れ)。 ジブン(自分)も用いられるようです。互いに内にいるという感じにもとづけば どの呼称を用いても 用が足せるものと思われます。相手も判じることができます。 4. 欧米語の人称代名詞の話としては そこでは内と外を厳しく分けないからでしょうか 順序の呼び名で呼んでいるようです。それは 一・ニ・三の違いで結局 述語動詞をしるし分けするかたち――活用ですね――をきっちりと取るようになっている。性(男性・女性・中性)や数(単数・双数(ペア)・複数)によってもその活用のかたちをきちんと区別するわけですが 人称の違いも その区別が――例外を除いて――厳密に守られるようです。 5. その例外:二人称単数は もともと thou でしたが その複数形 you が今では用いられている。相手をうやまう気持ちの表われでしょうか。仏独伊西等々ヨーロッパ諸語では 親しい相手には 単数形を用いても かしこまれば 複数形を用いるという使い分けがあるようです。 6. 西語では Te quiero.( You love-I. )と言いますから つまり述語動詞がその活用形において主語を示しますので わざわざ主格語の代名詞を言いません。言わないのがふつうです。言うときは 特定を強調するためです。 7. 同じく西語であらたまった二人称代名詞は Usted (ウステ)と言います。これは Vuestra merced ( = Your mercy ・貴殿)の縮約形だそうです。代名詞ではなく ふつうの名詞からの転用です。 ですから それに対応する述語動詞は三人称の活用形につくります。コモ・エスタ・ウステ?=あなたの恵みなるもの(存在)は いかにありますか?= How is your mercy ? ⇒ How are you? 8.★《1. このことは、日本人が欧米人に比して自己を指示する志向が薄弱であるということを示唆するでしょうか?》 ☆ そんなことはありません。ふつうに日本語でも自己を指示するはずです。目の前の相手との区別が 内に属すときには 薄くなってしまうだけだと思います。言葉としてはふつうに指示するはずです。そして日本語内外において いろんな指示の仕方もあるということだと見ます。 9.★《2. このことで日本人が欧米人に比して自己や他人を指示することに拘らない心性の傾向を示すものだと理解することは失当なものでしょうか?》 ☆ たぶんもしそうだとしたら やはり内と外との区別そして内側ではあたかも人称が交替するかのように用いられるくせ これによってそういう傾向が感じられるということではないでしょうか。 あるいは 所有形容詞( my, your, his, her, its, ・・・)が日本人にはうるさいように現われる様子を考えるなら こだわる・こだわらないというよりは 日本語では省略する傾向を持つというようなやはり癖ではないでしょうか。省略しているのであって やはり必要な場合には 指示しているはずだと思うのですが どうでしょう。 このとうとき場をけがしはしなかったことを祈ります。
お礼
補足(お礼コメントを含む)からの続き: ★《1. このことは、日本人が欧米人に比して自己を指示する志向が薄弱であるということを示唆するでしょうか?》 ☆ そんなことはありません。ふつうに日本語でも自己を指示するはずです。目の前の相手との区別が 内に属すときには 薄くなってしまうだけだと思います。 ◆ この内に属すときに、薄くなるってのが、欧米人との違いなんですね。 ★《2. このことで日本人が欧米人に比して自己や他人を指示することに拘らない心性の傾向を示すものだと理解することは失当なものでしょうか?》 ☆ たぶんもしそうだとしたら やはり内と外との区別そして内側ではあたかも人称が交替するかのように用いられるくせ これによってそういう傾向が感じられるということではないでしょうか。 ◆日本民族心性のこの内と外は本当に重要なキー観念ですね。 ☆ 所有形容詞( my, your, his, her, its, ・・・)が日本人にはうるさいように現われる様子を考えるなら こだわる・こだわらないというよりは 日本語では省略する傾向を持つというようなやはり癖ではないでしょうか。 ◆この省略ということの許される言語習慣世界というのは看過できない特性ですね。 無論必要になれば、省略できずに浮かびあがってくるだけですが。当然省略の中にも指示はしているから、省略で通じ合うのでしょうね。 【とうとき場?】 ◆社交辞令でも恐縮します。
補足
bragelonneさん、お越し頂き感謝します。 私はこのgooとかOKWaveに参詣し始めたのはここ三年ほどです。最初に愚問に御付き合い頂き、実は今日始めてbragelonneさんにお会いしたような感じです。 世界の主要言語を三区分しての位置づけとご説明は、とても秀逸以上ですね。 こういう知見は膨大な勉強にして始めて提示できるお話と存じます。 私などは一生掛かってもたどり着けませんでしょう。最高最大の成果です。 日本語(日本の心性)はそうですか、身内と部外を分ける曲(くせ)ですか。 村境、流れ者、来訪者、遍歴者。藩の外。っていうことですね。 惚れちゃいけない他国者ですね。 でも一旦入っちゃうと、とても防備が甘く為りますね。そして影響されやすい。 大野晋さんや白川静さんしか、私は存じ上げていません。 人称の第一、第二、第三でなく自称と他称という“理解カテ”の方がピタリですね。互いに内なる者同士ですか。 互いに内なら自称と他称を入れ替えながら使いこなせますね。 欧米語での人称代名詞は、内と外を厳しく分けない事情からの生成・展開なんですね。 あちら(仰せの外世界的言い方ですね)はみんな外ですものね。 パブリックというのも日本では、世間様とか後ろ指とか、君主、ないしは奉公の場面しか日常ではないですよね。 あちらは、性(男性・女性・中性)や数(単数・双数(ペア)・複数)をきちんと区別した自己の中の整理と伝えが必要なんですね。 thouって複数と単数の区別がないと、ある英語の教授(英語専門の大学)から教わりましたが、you(t ⇒ y)に含まれていたのですね。これも尊敬観念性、正式性なんですか。 西語、つまり西班牙ですね。普通では述語動詞での表示なんですね。 Usted、慈愛深い貴殿よ。ですか。それぞれの言語族で味わい深い表現があるんですね。
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
こんばんは、krya1998さん。 【法廷ディスコース分析 ― コーパス言語学からのアプローチ】 http://wwwsoc.nii.ac.jp/jais/kaishi2006/pdf/12-03%20Nakamura_edited2.pdf
お礼
おはよう御座います、お久しぶりです港神戸のlittlekissさん。 父は外国周りのコックだったので、新婚は神戸港でした。 法廷における攻守弁論に、コーパス言語学でのアプローチですか。 実は図書館学の他に法学も少し、12年ほど、そして今も勉強しております。 題名にそれほどアレルギーがないので、勉強してます。 淑徳大学って、千葉だったかな。社会福祉学部もありましてね、愛知にもあったのですね。 貴重な情報を有り難う御座います。中村幸子さんてよく出会うお名前ですね。
補足
littlekissさん。 ご紹介のPDF、拝読しました。欧米での訴訟法廷現場での言語使用と意味のことですね。 日本でも法律の世界と日常言語との違いは、意味とその内容や感覚が異なることではややこしい問題をもたらすこともあります。 無論、発言の仕方での主語や対象語の扱い方も法的文章や発言と、日常や文学でも違うことがあります。 私のここの、この質問は日本語と欧米語との主語の扱い方の違いについて、それが何か双方の心性との違いの原因か結果になっているかということでした。 (bragelonneさんがご親切に、言語学のご薀蓄から貴重な知見をご披露してくださいました。 しかし朝鮮や韓国、その他の事は今は問題の目に入ってはいないのです。 東洋の者としては、或いは言語学の観点からは不十分な事はよく判っていますが、) 申し訳ありませんでしたが、お教えいただいた文献においては、上記の質問にはあまり関連したことはなかったかのように存じます。 有り難う御座いました。今後ともどうぞよろしくお願い申しあげます。 淡谷のり子さんの港がみえる丘って、私は横浜かとおもっていたけど、懐かしい港、神戸だそうで、美しい港風景に思いを馳せています。
- perfeaus
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対象の人の立場で言うと代名詞が変わっちゃう、つまりはそういうことかな。 村社会で今後も同じメンバーでやっていくことを考えると責任の所在を曖昧にして空気を読んでシャンシャンっていうのが都合が良かったんだと思います。 それには誰がやったかというのを問題にするんじゃなく何が問題でどうすればいいかの方に重きを置いてたんだと思います。
お礼
perfeausさん 有り難う御座います。 そうですね。そういう側面が見受けられます。見受けられるということは目立つが基底的かどうかは疑問ではないかと存じます。 つまり結果としてそういう現象面も出てきていますね。 良かれ悪しかれ素通りできない側面ですね。何処の民族のどんな心性も何かと側面が現象するもので、どれもが良かれ悪しかれですね。 ありがとうございました。
お礼
mmkyさんありがとう。(ございますを今回は省略、省略してないって?そうか。) 【日本の「和」の精神はやまとの国の基本理念ですが、】 この理念って、知的定義体系たる統治権力の法が代表する人為的な当為の(人為的)理念と、そうではない理念とがありますね。 「和」の精神はどっちの当為理念か。私は両方の側面があるように思います。 「和」の精神というが、これかくらい中身のはっきりしない、そして何処の何を切り取っても生きている原理も珍しいですね。 あたかも意識が意識を意識できないのに通じますね。便利なことば表現ですが、失礼ながらイメージがなかなか創成できないのもこの語ならびでうね。 「我即他、他即我、更に一即多、多即一」、「自と他の境界」はぴたり私の抱懐する観念合致しました。 私達、Self-Realization Fellowship(http://www.yogananda-srf.org/ http://www.srf-tokyo.org/tokyo_group.php)のグル、パラマハンサ・ヨガナンダもインドからアメリカと世界ににインドの叡智を伝えに行きました。 キリスト教も小アジアの片隅まででしたら、人類もこれほどその叡智を知ることができませんでしたでしょう。 かのヨーロッパ語族にもたらされて変改しながらも、多くの人のアクセスを可能にしております。 西洋と東洋、一長一短ですが、この融合はとても難しい。 東洋、特に日本の精神的文化、気持ちの持ちようを翻訳するのは著述以上に難しいと拝察します。 グル・パラマハンサ・ヨガナンダが英語で著述したヒンドゥ聖典、バガヴァッド・ギータを日本語にノートしながら読んでいますが、語の置き換え自体がもう辞書通りにはいきません。 一回読むのに2年半、今、五回目です。たった上下巻、2,000ページほどなんですが。 苦労が楽しみなんです。 有り難う御座いました。
補足
今回はみなさんに大変いいご回答を頂き、とても勉強に為りました。 bragelonneさんやpsytexのご薀蓄とご見解は大事なものと存じます。 mmkyさんの日本人の心性、感覚についてのご見識と知見は私の伺いたいことに的確であります。 有り難う御座いました。 今後ともどうぞよろしくお願い申しあげます。 翻訳って著述以上ですよね。 つまりパブリック性があって、あたしの読書ノートとは違いますよね。 ギョーテとは俺のことかとゲーテいい。 クリストフが、靴底をすり減らして世界中を旅して帰ってくると、生みの親である著者は“何、君かね。クリストフ。君がクリストフかね”とさけぶのである。 って、序文で読ました。もう60年前です。 翻訳って民族や言語の橋渡しでしょうから、たいへんですね。HPを期待しております。