• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:日本人は 人間にはならないのでしょうか)

日本人は人間にならないのか

来生 自然(@k_jinen)の回答

回答No.2

「のっぺらぼう」というより「千と千尋の神隠し」の「カオナシ」でしょうか? >>> 私の日記からの引用 ありとあらゆる「もの」(外見上の「まね」)を取り込み、泥でコピーを作り出して肥大化していく「カオナシ」は、自身のアイデンティティが見いだせずに、「知的欲望」に依存し、他者のコピーを取り込むことによってのみ、自身のアイデンティティが表現されうると思いこんでいるかのごとくである。 あらゆるものを吐き出した「カオナシ」は、自身のアイデンティティの拠り所が、「もの」ではなく、外部(全体)との「つながり」の内部にあることを見出す。ゼニーバ(銭婆婆)との共同作業の中に「カオナシ」は自身の居場所を自ずから知る(というより感じ取る)のである。。。 <<< このあたりの一般的な(?)解説(いわゆる日本人論との組み合わせ)は http://abecasio.s23.xrea.com/text/notes/10.html などで見ることができます。

bragelonne
質問者

お礼

 そしてこの好悪の感情で・感情だけで世の中を渡っていくというのが 顔無しです。意志の欠如と言ってもいいと思います。人間として生きようとしています。けれども人間になろうとはしていません。言葉をとおしての自己自身の表現 これはありません。感情とその思いこみ一本だけです。  千と千尋は――つまりその作品についてのわたしの感想は―― こうでした。  1. 親たちは 一生懸命に仕事をして来ているが その反面では ただの貪欲であり 豚である。  2. 親たちもこれについて 内に省みようという気はある。  3. ただし自分たちの仕事や生活の場そのものにおいては もう如何ともしがたい。と思っている。  4. その内省の中身の一端を 自分たちの子に託して 夢なり反省なりとして描いてみよう。それが 千と千尋の物語となって現われた。  5. けっきょくのところとしては 作品の最後あたりで 親たちが豚から人間に戻るというとき 千尋の頭にパッとひらめいたものだあったんでしたっけ そのような或る種の神業によって 〔人間への復帰が〕成し遂げられた。  6. その場面は あざやかに描かれていたという印象である。最高だとは言えないが ほかにすべはなかったかも知れない。人間の計らいといったいやらしさを その鮮やかな場面では感じなかった。  7. ひとつ不自然と思った箇所は 終わりのほうで 婆の妹の家へ千が電車に乗って出かけていくのだったと思うが その婆の妹の描き方が あいまいだという印象である。けっきょくどういう人物なのか。どういう役目を担ったのか。どう位置付けられているのか。分からなかった。  8. 要するにこれは いわゆる現代物質文明社会の中で 人間と人間的自然を取り戻し そしてなかんづく《わたし》を見出したいという問い求めである。  9. 最後の場面における豚から人間への復帰は 描き方としてあざやかであったと同時に 思索としてはそれ以上の内容を得られていないと白状しているということ。またそれは ひらめきという展開のほかに 実際にはそれほどうまく描かれるとも思えないとは思われるのだけれども それは 映像描写における限界であるのかも知れない。  10. 映像による表現も限界を超え得るかも知れないが 一般には言葉による文章表現のほうが 密度が濃いように思われる。  ■ (阿部) ~~~~~~~~~~~~   さきほど僕は、千とカオナシは、アイデンティティクライシスのなかで表裏をなしているともいった。そしてこのカオナシから発散されるアイデンティティクライシスこそが、この作品がもっとも現代性をもっている証左となるんです。  カオナシは作品全体がしめす反世界にすら違和をかたどるために、その下半身が主に透明状態――あるかなきかの状態で表象される。彼は喋れない。飲み込んだ者の言葉遣いや声をもちいて喋ることはできる。  彼が一見もっている顔は仮面にすぎない(しかし何という見事な仮面でしょう――角度によって表情が変わり、とくに俯いたときには悲哀を発するのです)。  そして縁側から湯屋に入るときふと登場する寂しげな彼の片足は、彼が飽食を繰り返し、番頭や仲居を飲み込んだときには、怪物的に多足化してしまう。  自らと同質な者と見込んで眷恋した一見「寂しげな」対象・千には、「あなたにはあたしのほしいものは出せない」と拒絶されてしまう――ここではたぶん「おたくは自身を他者に反射できない」という真実が語られているはずです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このあたりの評言は くだらんと思いました。  a. 女に振られることと《アイデンティティクライシス》とは 基本的にはつなげる必要はないでしょう。関連していても つなげる必要はない。  b. ひとが堕落することと コミュニケーションが取れないということとも 一対一に対応しているものではありません。  c. 仮面であっても まづは何の問題もないという互いの認め合いがむしろ 大事です。  d. 《下半身が主に透明状態》というのは 阿部に対してではなく作品に対しての批判になるのかも知れませんが 意味がよく分からない。  e. 《カオナシは作品全体がしめす反世界にすら違和をかたどるをかたどるために、その下半身が主に透明状態〔となっている〕》。――《反世界》というのは すでに上に見たように 親らは豚から人間に戻るのだから そしてそれは 何も豚である部分を取り除くというようにではなく そうではなく 豚ないし無明の部分をも内に持ちながら 清浄になると言っているのだから わざわざ《反世界》と言うこともない。まして《反世界にすら違和を持つ》という見方は 阿部のであるか作品のであるかを別として いただけない。

bragelonne
質問者

補足

 じねんさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  そうですね。じねんさんは わたしの問い返しとしての問い掛けに答えるときとそうでないときとがあって わたしは正直に申して困惑するのですが いつものわたしのように応答してまいります。  いきなりですが 《顔無し》という表現が持つ意味内容は おそらく《人間以前の状態》を表わしているであろうと考えますが 作品に出て来る《カオナシ》との比較対照は 果たしてどうでしょうか。あいにくですが まづこれが わたしの偽らざる感想です。  千と千尋は どういうわけだったかもう覚えていませんがテレビの再放映で見ました。阿部嘉昭が引き合いに出しているほかの作品は ことごとく見ていません。ナウシカも知りません。ときどき紹介やらとして触れているのに出会いますが まだ魅力を感じて見てやろうと思ったことはありません。――そういう片寄った情報ですから 割り引きして受け取ってもらわねばならないかとも思いますが 阿部の論文についてとともに わたしの評言をつづっておきます。  ■ (阿部嘉昭) ~~~~~~~~~~~~~~  あの「春日様」はその顔部分に紙の護符をつけ、中国の文官のような帽子・黒衣をまとっているんだけど、あれは最初僕は顔に護符をつけたまま蘇った中国版ゾンビ――『霊幻道士』シリーズに描かれた死者だとおもいました・・・。「紙」が中国世界においていかに霊力をもっているかという民俗的想像力を駆使していたからでもあります ――ちなみにいえば、その「紙」は『千と千尋』においては空を飛ぶハク[龍]を襲う紙の小片――千に取り憑く紙[銭婆の化身の姿]――へと作品内で変遷してゆきます。あるいは「面」的なものは、   自我のない「カオナシ」がアリバイ的につけている面  へと隔世遺伝します。そういう同じ物質的想像力の「連鎖」が、あの作品においては前半顕著だった非親和性を緩和させる動力になっています  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 必要以上に引用したかも知れませんが このように《アリバイ的にでも面――つまりたとえ仮面でもという意味です――をつけている》なら それは 柄谷の言う《偽善》ですし そこに《言葉で表現すること》を添えれば岩井の言う《コミュニケーション》ですし わたしはそれを簡単に《貌をつくる》と言ったそれだと考えます。  ですから 《顔無し》ではないのです。ずっとつねに顔が無いのではないと言わねばなりません。  基本的にそういうもんだいが横たわっていると考えますが どうでしょう?  ★ 自身のアイデンティティが見いだせずに、「知的欲望」に依存し、他者のコピーを取り込むことによってのみ、自身のアイデンティティが表現されうると思いこんでいる。  ☆ これについては どうでしょう。わたしに言わせればですが わたしの考えでは 仮りにいやしくも《アイデンティティが見出せずに》というところで これは救済せねばならないと思ってしまいます。《わたしがわたしであ》ろうとしていると採れるという意味です。それなら まづは見守っていけばよい。これが わたしの結論です。  《思い込んでいる》のではいけませんが その場合にも《他者のコピーを取り込む》ときにそこにとにもかくにもおのれの意志があると 見なすかたちでにせよ 思ったならよいであろうとわたしは見ます。夢遊病者でいたのではいけません。そうでなく おれはまだ発展途上にあるがいまはこの《コピー》でしのぐだと思っていたとすれば じゅうぶん見上げたものです。これを 人にも言葉で説明しうるほどであるなら コミュニケーションは断たれていません。  ですから この《仮りに仮面をかぶってのかたちにおいてでもその自己表現をしうる》というのであれば だいじょうぶだと考えます。  ★ あらゆるものを吐き出した「カオナシ」は、自身のアイデンティティの拠り所が、「もの」ではなく、外部(全体)との「つながり」の内部にあることを見出す。ゼニーバ(銭婆婆)との共同作業の中に「カオナシ」は自身の居場所を自ずから知る(というより感じ取る)のである。。。  ☆ これでひとまづよいでしょう。さらにそこからは 情況をさらによく把握し 自分はどういう位置にあって その場所はおのれにとってふさわしいのかどうか 自分はさらになお何を望むか こういったことについて考えていくなら よいでしょう。    《のっぺらぼう》史観という場合は その《人間以前の状態》にあっても 言葉はじつはさえづっているのです。むしろおしゃべりです。ただし仮面も素面もありません。たぶん何らかの――生きることについての・あるいは要するに生活についての――思い込みはあるでしょう。好き嫌いと言ってもいいと思います。

関連するQ&A

  • 日本人は 人間ではないでしょうか

     《コミュニケーションする意図を持たない人は 人間以前である》と岩井克人が述べています。この見解について 感ずるところ・思うところを述べて ご意見をおしえてください。    柄谷行人との討論形式による共著『終りなき世界―90年代の論理』で 岩井克人が 次のように発言しているところです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (岩井) 日本人が《偽善》を嫌うという話ですが それは日本人の世界宗教性のなさということの裏返しなわけですが 同時に 日本人が世界的な意味でコミュニケーションを拒否していることの裏返しでもあるわけですね。  いま柄谷さんが 人間は偽善者であるほかはないと言われたんですが その場合の人間とは 世界と言語を使ってコミュニケーションする意図を持つ人間という意味なんですね。そういう意図をもたない人間は ある意味で人間以前の存在なわけですね。もちろん 日本人であったり イラク人であったり アメリカ人であったりはするんだけれど 人間ではない。  (柄谷行人・岩井克人:『終りなき世界―90年代の論理』1990 p.131 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  わたしとしては この――もしそうだとすれば――コミュニケーションが成立し得ないような人間関係において とうぜん 広い意味での社会的な身分の上下関係から来る下の者のこうむるストレス これが 問題になると考えます。そのことを取り上げたいという意図が あります。要するに 権限のある人は 普段は 立派に振る舞うのですが どこかでは その意識をただただ排泄するという部分もみられるようで これを受け止める側のストレスという問題です。  母源病ということばがありますが 基本的には 人間関係を源とする疾患つまり《社会源病》と捉え 特定しようと思えば 《上司源病》――そしてさらに広くむしろ抽象的に《アマテラス病》――と名づけたいのですが もし よろしければ そのあたりまでも ご見解を伸ばして おしえてください。

  • 日本人は 人間以前か?

     精確には 《人間以前の状態にある人間か?》と言い直したほうがよいと思います。  この問いは すでに【Q:日本人は 人間にはならないのでしょうか】として みなさんの参加を得てかなりじゅうぶんに問い求めて来ています。  ちいさな落とし穴があったかも知れませんし 積み残しがあったかも知れません。ので 再度問います。       *  《コミュニケーションする意図を持たない人は 人間以前である》と岩井克人が述べています。この見解をめぐってその主題の具体的な把握をおこないたい。これが 問いの内容であり ねらいです。    柄谷行人との討論で 岩井克人が 次のように発言しているところです。  ◆ (岩井:《人間以前》とは?) ~~~~~~  日本人が《偽善》を嫌うという話ですが それは日本人の世界宗教性のなさということの裏返しなわけですが 同時に 日本人が世界的な意味でコミュニケーションを拒否していることの裏返しでもあるわけですね。  いま柄谷さんが 人間は偽善者であるほかはないと言われたんですが その場合の人間とは 世界と言語を使ってコミュニケーションする意図を持つ人間という意味なんですね。  そういう意図をもたない人間は ある意味で人間以前の存在なわけですね。  もちろん 日本人であったり イラク人であったり アメリカ人であったりはするんだけれど 人間ではない。  (柄谷行人・岩井克人:『終りなき世界―90年代の論理』1990 p.131 )  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 質問者としては この――もしそうだとすれば――コミュニケーションが成立し得ないような人間関係においては とうぜんのごとく広く漠然とした意味での社会的な身分の上下関係(これをわたしは アマテラス‐スサノヲ連関関係と言っていますが)から来るのではないかと思っていました。思っていましたが どうもその分析手法からもこぼれ落ちる事例があるのではないかと思うようになりました。  どうやら別の問題点があるのではないか。要するに 広い意味の上司に対してアース役となってのように下の者がこうむるストレス これが 問題でありいわば病原だとも考えていたのですが どうもこの篩も目が粗いと思い始めています。    《大衆の原像》ということを思っているのですが それ自体は大した内容でもないとやはり思います。  問題は――ただの推測ですが―― 顔のない存在のごとくして自分の意志を決められず表示し得ずしたがって当然のごとく相手と意思の疎通が出来ないということ この《のっぺらぼう》と名づける事態(のっぺらぼう症候群)にあるのではないか。  ただしそうだとしても こののっぺらぼうは 果たしてどこから来るのか。何でそうなるのか。さっぱり見当がつきません。冗談を交えてよければ 《大衆》ゆえにという答えが出されるかも分かりません。  柄谷が《偽善》と言っていることについては 軽く漠然と《顔をつくる》――自分の貌をつくる――ことと採れば きわめてふつうのコミュニケーションすなわち社会的交通になるのだと考えます。  その姿は イツワリのであっても 善としてかたちを成している。ゆえに。  イツワリのむくいは 自分にだけ跳ね返って行くのなら 人様に迷惑をかけてはいない。かも知れない。  取り敢えず思ったことをそのまましるしました。  この問題に関心のある方は どこからでも自由に取り組んでみてください。わたしも考えるところがあれば 応答してまいります。どうでしょう。

  • 日本ってなんでこんなに人間が増えてしまったのですか

    先週の 池上さんの番組で1950年代に日本があまりに人間増えすぎて移民を推進したり(ブラジルなどにさせる) それも移民を送り込みすぎてアメリカなどには拒否されたとか。そして人口抑制に歯止めがかからず1975年の日本人口会議で 子供を作る者は2人までにしてくれと呼びかけた。 しかし少子化はうまくいったが、おもいもよらぬ女性は平均寿命は世界一などになり高齢者比率は世界一になり、高齢者数も世界4番目。それで 今度は少子化が問題になるしまつ。人間なんておおくても社会問題やストレスが増えるだけで、そこが日本の一番きらいな所と答える人も多いでしょう 今の高齢者比率世界一なんていうのも、あまりに増えすぎて他国を移民させても拒否されるレベルにうまれてきた世代なんですよね。3800万なんて高齢者かかえて 社会保障費用だけで年間60兆とかですよね日本。

  • 日本が人間増えすぎてしまったのは敗戦国だからですか

    今の半分程度でまわしていれば 社会保障問題、いじめ問題、財政赤字問題、自殺などが多い事や幸福度が低い事、 いろいろな社会問題が多くなることなどもそれだけ少なくすんだわけだよね。 よく、これだけいたから豊かになれたという人いるけど 世界中みまわしても1億以上もの人間がいる先進国は日本とアメリカぐらいです。 人口密度ならアメリカは日本の10分の1です。 むしろ世界でみたら人口が少なめの国に先進国が多く、ナイジェリアだとかインドだとか バングラデシュ、フィリピン、メキシコ、インドネシアやパキスタン、こういった貧困国や途上国が 人だらけですから、人口が多かったから豊かになれたというのはたまたまだと思いますね。 でも、そのつけで、多いから高齢者が4千万ちかくもあふれ国の歳出が100兆をこえる始末。 人が多ければ全てが働いて税金納めているわけでなく、半分は非生産人口ですからね。 多くて全てが朝から夜まで働いている人だけならば、たしかに数が多ければ多いほどGDPはあがりますけど。

  • 日本はなぜこんなに人間が多いの?

    それも100年で倍上に増えた。(1920年頃は5500万、2020年は1億2000万もいるわけだから) ウザイだけ。 感染症が起きれば人間が多いほどいろいろな問題も起きてるし ガキの騒音問題 高齢者の年金や医療費問題 など、人間が多ければ多い国ほど、ガキ(子持ち)も高齢者もうっとうしいほどいる。 現に日本の住宅環境で4割以上が騒音関係でトラブルや不満を抱えている この上位の5個ぐらいはすべて子供の騒音または子供の親の騒音系。 高齢者も3500万ぐらいいるので、年金、医療などが個人税収をはるかにうわまわる支出がでている。 世界の住みやすい国ランキングをみてもわかる通り 共通しているのは人口密度が低い事 カナダ、オーストリア、オーストラリアの3か国がトップ3に君臨して 世界の人口の6割ぐらいがいるアジアなんてトップ10はおろか トップ20にも18位ぐらいのシンガポールしかランクインされていない。 GDP、GDPというけど国力だけはそれであがるのかよくしらないけど 中国やアメリカが日本よりGDPは高いがどちらも日本と同じく住みやすさのランキングでいえば トップ20にも入っていない。 ひと昔前みたいに 生まれて、ほとんどの国民が高校でたぐらいで働いて60ぐらいが定年で そこから男で10年ちょい、女で15年ちょいで死ぬというならたしかに日本の高度経済成長期なんかがそんな感じだったのでまだしも 今はうまれて 半分以上は大学までいく(それも日本の大学は7割が今や全入大学)、大学でても2割、3割は定職につかない、保育園や高校なども税金から無料、 定年過ぎて男で20年、女で30年も生きている、さらに日本の女の場合は定年はおろか30歳程度から扶養にはいり60年も消費税等微々たる税金しか払わないのに その何倍~何十倍も税金の恩恵は受ける。 中国だって人口があんなにいるからいろんな問題が起こりまくる。 今の緊急事態制限だって東京23区と大阪市内以外は外出率は5~20%程度しか下がっていない。 自己中ばかり。 そりゃ他人なんてそもそも大事な人なんてほとんどいませんから、他人にうつすリスクがあっても 自分がならなければいいという人間がかなりの割合でいるんでしょうね。

  • 日本に取っての国連の存在意義

    国連のド偉りゃ~パン君を始め、ペーペーの職員の 給与の大半を日本が補てんしているが、経済規模か らして少なすぎる中国の補てん分が、ロビー活動に 使われている?か?どうかは、よく分からんが、 こんな糞偽善者団体に加入している意味あるの? 実質、国連の負担金を世界一負担している日本 中韓の反日世界活動の場に使われ、常任理事国入りは 中国が存在する為、永久に無理! 国連から日本が脱退して、何か問題ある?

  • 日本史必修

    2/15の新聞に神奈川の高校で日本史必修になるという記事が ありましたが, 世界史必修に加えて日本史必修ってそんなに歴史の授業ばかりして 意味があるのかなと思ってしまいました.  時間がない中でなんで歴史の授業を増やすことにしたのか  意図がわかるひといましたら教えてくださいませ.

  • なぜ日本人は日本のことを悪く言いたがる?

    私は20代後半の男です。 昔(小学生くらい)からずっと思っていたことなのですが、 なぜ日本人は日本のことを悪く言いたがると思いますか? 例えば、誰しも故郷があると思います。 その故郷を他地方の人に悪く言われると、誰しもムカッときますよね。 でも外国の人に「日本は○○がダメだ」と言われて、 納得する人は多いように思います。(あくまで相対的な話ですが) この問題について、私なりにいろいろ考えてみたのですが、 ・日本人特有の「謙譲の美徳」のため ・戦後教育の、戦前日本についてのイメージの延長(拡大解釈?) ・常に外国の文化を取り入れて発展してきたという歴史のため ・外国のいい所を見習おうという姿勢の裏返し 私自身はこの日本に生まれて本当によかったと思っています。 四季が見せる自然はとても美しく、世界屈指の生活水準を保ち、 文化は他国のよい所を取り入れながらも、独特のものを持っている。 国民の教育水準や倫理観も極めてハイレベルです。 世界に誇れる国だといつも感じています。 それなのに、必要以上に悲観的に語る人が 多いような気がしてなりません。 こんなに自国についてへりくだる国は珍しいのではないかと思います。 それがいいとか悪いとか言う問題ではなく、 なぜそういう人が多いのか、ご意見を頂けたらと思います。 様々な視点からのご回答をお待ちしています。

  • これからの日本で望まれる人間とは?

     或る、組織で教育を行っておられる方が、  現在日本の若者は真面目だが覇気が無いと云う事でした。  今韓国は偏った反日教育で日本に向けて非難をしており、これは遺憾だと私は思いますが、  この体制で教育を受けた若者こそが組織では使え、  その若者を育むのが徴兵制であると云っておりました。  やたら、「毅然たる態度で」とか云う人程、  日本を非難する教育を行っているので、中国韓国を非難するが、  国民は中国韓国の様にしたい様な気がします。  要約すると  1 今、日本は人権がつきまとうので 社員にも強気に出れない  2 いろんな人の意見を聞くと難航するので突っ走れる人が良い  3 突っ走るとその弊害は出るが、今の日本ではその人達の受け皿を用意しなくては成らないので    無駄である  4 弊害に於いての犠牲者は弱者と切り捨てていく  5 弱者切り捨て、弊害に対しての対策は行わない、絶対者の一声で決まるので表面上   国力は強くなり、数字上は発展する  唯々、数字上世界で強くなると云う事を考えればこの様な政策が不可欠なんでしょうか?  1 例えば、元自衛官の田母神俊雄氏が福島の原子力発電所の被害に於いて、    問題発言をされましたが、   人権を無視して、軍事、国力の処だけで考えていく人間からは支持されていくのですね?  2 教育問題でもいじめの問題でやられる方が悪い    徴兵制等で死亡者が出ても、公表はされない、    弱い人は沙汰され、強者のみが残る、「教育」とか    「社会的存在」にするというよりも、    強く逞しい人間ばかりにしたいと云う事なんですね?    昔スパルタでは病弱な人 運動音痴な人は殺されていたらしいですから?    だから、彼等が憂いているのは犯罪の多さや公害でもなく、    暴力的でない人 運動音痴な人がこの世にいることを憂いているのですね?    そして、以上でも以下でも無い自分の領分を守るという人間も嫌われ、    支配するかされるか、その為に命を掛けろと云う事で    だから、学校でも普通に云う事を聞く人間は軟弱者で、    野心と支配欲を持って戦え、唯絶対者には逆らうな、    絶対者の元では、はけ口として、又鍛えるという名目で苛めも認める    と云うのが理想なんですね?    だから、強く逞しい人間を育てるのはこの様な考えが理想なんですね?    (私は君が代も日の丸も反対ではありませんし、国防もある程度必要かと思います    又、成績の順位付けやマラソン大会廃止等は可笑しいとおもいますし、競争は或る程度必要かと    思います    唯、私は喧嘩いじめ嫌いです、だからと云ってやり返したことが無いと云う訳ではありませんが、    保守で有名な戸塚宏氏や田母神俊雄氏は、以上でも以下でも無い感覚で生活している人間を    嫌い、いじめや争いを肯定し、それが大枠(軍隊等)で   大荒れに成らず纏まるのが良いと云われたり、    口での注意や罰則は或る程度まで行くが、超えられる強い精神は体罰で生み出されるので不可欠と云われます、 唯強くなるそこだけで考えると彼等の様な考えが理想なんでしょうか?)    ご回答宜しくお願い致します  

  • 優秀な人間らしく

    私は学部はともかくとしても、日本人なら誰でも知っている某私大に通っています。 その大学は一流の大学かも知れません、しかし、「一流大学だから優秀なのではなく、優秀だから一流大学なのだ」、という言葉を耳にしました。一流大学に通っていてもその人が優秀とは限らないという意味だと思います。 自分はバイトをしていますが、別にいじめられているわけではないですが、自分のことを「勉強のできる人間=頭のいい人間とは限らないという典型」みたいなことを言われることが少なくなく、少なからず悔しい思いをしています。 バイト自体は、そうとう数はこなしています、恐らく同期の中では最も経験数が多いと思います。 知識はあるけれど、その場の対応力やコミュニケーション能力の不足だと思います。 相手のいわんとしていることを読み取る力にかけるのだと思います。 俗にいう「キレモノ」とかそういう言葉に憧れるのですが、そういった人間になるにはどうすればいいと考えられますか?