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歎異抄の解説本を読んだ感想

歎異抄の解説本を読んだ感想 最近、歎異抄の解説本を読みました。 内容はすばらしく共感できる部分が多かったです。 一つ質問があるのですが、他力本願についてです。 他力本願の考えの特徴として、対象(?)となる人の素養を 問わない所があります。 他力本願では悪人でさえも成仏するのは納得がいきますが、 悪人は実社会の一般の考え方と考え方が違い、多くの標準的な 人とは、折り合いよく暮らせないというのも事実です。 宗教として、元々仏教は、死を大きな局面と考える宗教と 私は認識しておりますが、実社会への係わり合いが無い、 実社会で活用できない(人が生きて行くために必要となる拠り所) ものは、器として小さい気がしております。 純然たる宗教としての一面として、成仏や救済というせまい範囲 でのみ、他力本願は成立すると考えて大きな誤りはないのでしょうか? 一つの、大きな悩みとして、考え方で、 涅槃=絶対的な目標、正しい状態 と考えるならば、他力本願的に考えると、 どのようなことをしている人間も肯定されるとの考えることができます。 負の救済の局面でしか適応できない考え方は、正しく無いと 私は思っております。 どなたか、私の悩みにお答えいただけますと、ありがていです。

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 No.7です。  ★ 仏になるのが、仏教の教えで、仏(阿弥陀仏)と人間が / 乖離している所が気になっている所なんです。  ☆ わたしの文章の後半をごらんください。方向を示そうとしているとわれながら思っています。  ☆☆ (回答No.7) ~~~~~~~~~~~~~  ・・・  それを それでも どこか香りを嗅いだのでしょうね 慕っている。その香りを問い求めてあゆみ続けている。  と言っているのだと考えます。  これが 他力本願ということの実際だと思います。  ですから 内心では 自信があるわけです。わたしという悪人でも どうも どうやら たも(網)で掬われたらしいなぁと。なら その自信のかぎりで ひとにもつたえよう。でも分からないんだよと。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうか親鸞の声を聞き分けて さらにはご自分の信仰と考えを持つようになられることを希望します。

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質問者からのお礼

御回答ありがとうございます。 私事で恐縮ですが、現在私は、新潟県の上越市 (親鸞の流された越後の国府です)に住んでおります。 事情あり、ある施設にいます。 今まで、仏教全般に、勉強をしてきたのですが、 (私は、特に龍樹の「空論」に興味があり、勉強してました。) その施設に、歎異抄の解説本が置いてあったのです。 他の調べ物はまったくせずに、その本のみを読んでいます。 心のスポンジをできるだけ空にし、吸収できるよう生活 しております。

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  • 回答No.10

一旦ほぼタイプし終わったところで、全てを失いました。諸行無常。 一部ゼロからタイプし直しましたが、さすがに気力が切れ、 元の文章の方が全然わかりやすかったし、柔らかで優しい文章だったなぁ…。 丁寧さが失われてしましましたが、このタイプし直しで、 肩こりが激痛なので、これで我慢します…。 ( 1) 原始仏教 第一段階: お釈迦様は、生まれたから死ぬ、等、考えた。 (これはあくまでも悟りに到るための思考方法であって、悟りの内容ではない。) 第二段階: お釈迦様は、考えていった結果として悟りを得て、その悟りの内容を、一人静かに噛み締めた。 (悟りの内容は、通常の日常言語では記述できないので記述されない。) 第三段階: お釈迦様は、日常生活で実践できないことを悟っても何の意味もないので、 日常生活で実践できるかどうか、第一段階の方法を逆にたどってみた。       たとえば、死なないためには生まれなければ良い、など。   そして日常生活に実践できることが確かめられたのでOKだった。 現代から振り返って考えると、いかにも悟りの内容がお経に書いてあったり するように思いがちであるが、多分、原始仏教においては、おそらくは、 悟りの内容は、通常の日常言語では記述できないので記述しない… というのが本当のところではないかと思います。 よって、極端なことを言えば、人間は悟りに至れないということを 悟りましたと、誰かが、ふざけてではなくて、真面目に、 全身全霊、全人生を賭けて言った場合、必ずしも否定できない。 ( 2) 大乗仏教 仏になる、悟りを開く、涅槃に達する、というのが仏教の定義であり、 大乗仏教も仏教なので、その定義には外れていない。 が、新たに、追加されて強調されるようになった真理に、利他がある。 人はもはや何者でもなくなったときに自分になる というのが全ての仏教の真理だとして、大乗仏教の実践、実生活から 得られた、生活者の経験的な実感として… 人はもはや何者でもなくなったときに自分になる そして、もはや何者でもなくなった人、 何も所有していない人は、その空の手、 何も持っていない手を、他人に差し出す。 実は誰も何も所有していないという真理を見いだした 人は、利他せざるを得ない、利他以外に人間が 生きていく道はないということをその存在の全てで 首肯する。差し出すその手には何も持っていない。 差し出す相手、他人も何も持っていない。 慈悲とは、自分が持っていないものを 他人に与えることである。 八地以上の高地の菩薩になれば、まったく見返りをもとめず、 完全に自然に、やることなすこと利他行とかですね、 大袈裟な記述を読むと、それは凡人には全然無理とか 思えますが、大乗仏教が興隆した頃、生活者の、 実践、経験からの本当の実感が反映されているものと 思われます。 ( 3) 浄土真宗 仏教ですから仏になる教えです。 大乗仏教だから利他です。 但し、いつ仏になれるのか、いつから還相回向は開始されるのか、 また、還相回向できていても、 阿弥陀如来に憑依されて、自分は単なるロボット、死体が自動的、 機械的に作動しているだけなら意味ないじゃないか、 自分が利他行いまできているなと自覚できないなら 意味ないだろう、というような議論はあり得ます。 続く…かも…

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  • 回答No.9

大論文書いて、さあ、投稿と思った瞬間に最後の1字をタイプしたところで、何故か、操作ミスで、全てがブラックホールに消えてしまいました(T_T)。 諸行無常。 さすがに力尽きました。 なので、突飛になってしまいますが、二行だけ… 浄土真宗は仏教ですから、仏になるのが仏教ですから、仏になるという果、証はないといけないですね。 浄土真宗は大乗仏教ですから、利他が大乗仏教ですから、利他はないといけないですね。

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  • 回答No.8

浄土教での伝統では、ただ信心だけが必要といった伝統があると思います。 ただ信心だけが必要というのは、簡単なようですが、というか簡単なのでしょうが、人間はどうしても難しく考えてしまうことをやめられないですよね。 自分の信心は不足なんではなかろうか?????という疑念がどうしてもわいてきます。 真宗ではそうかもしれないけれども、時宗ならば、信心すら不要なのだからますます簡単だろう…ということは言えそうですが、これも、人間はどうしても難しく考えて悩むことはやめられない…と考えることができます。 つまり、時宗の教えを聞いても、自分の信心すら不要であるということを自分が信じられないといけないよなぁ…と思うことはあり得ますよね(^0^;)。 これは考えようによっては難しいことになり得ます。 さて、『歎異抄』における、著者である唯円さんの仰る「悪人」という言葉の”定義”ですが、 「自分は浄土に行く資格や権利はないんじゃないかなぁと自分で思っている人」 ですね。 「ですね」という意味は、そう思って『歎異抄』を読むと、おそらく、一字一句、理解可能なんじゃないでしょうか…という意味です。逆に、他の、自分の勝手な定義(著者である唯円の定義と異なる定義)を頭に持って『歎異抄』を読む場合に限って、分からないところが出てくるんじゃないでしょうか…という意味になります。 さて、そのような唯円著『歎異抄』の思想が親鸞の思想なのか、親鸞も同じことを思っていたのか、あるいは、『歎異抄』のそのような思想は、真宗の教義なのか…、”あなたが”どう思えるか…それは、ちょっと別の話と思います。 親鸞自身の著作を読むと、『歎異抄』のそのような思想とは180度異なることを言っているかな?と”あなたが”思える文章が出てくる可能性はあります。 ご興味があれば『真宗聖典』をお読みになられることをお薦めします。 さて、 「自分は浄土に行く資格や権利はないんじゃないかなぁと自分で思っている人」 ですが、そのことは「自分には信心が不足なんじゃぁ」に通じますね。それを悩みに悩んだ場合、 「信心なんていう浄い心は、自分の側、人間の側には、ほんの少しも発生しない」となりますね。 「如来より賜りたる信心」と『歎異抄』に出てきますね。 言い換えると、 「自分は浄土に行く資格や権利はないんじゃないかなぁと自分で思っている人」 が一番困っちゃってるわけじゃないですか。 絶望というか。 そういう一番困っている人を一番哀れまれている…となりますね。 「自分は浄土に行く資格や権利はないんじゃないかなぁと自分で思っている人」 に対して、そんなあなたでも…でないとします。 すると、そういう文章は没論理、無意味になりますよね。 いやあ、警察とか裁判所とか、他人が悪人とレッテルを貼ってるか貼っていないかですよ…ということはさすがにないですよね。

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  • 回答No.7

 こんにちは。  《悩み》がどういうものか まだつかみかねています。  ★ 負の救済の局面でしか適応できない考え方は、正しく無いと / 私は思っております。  ☆ 死んでから救われるというのは 《負の救済》でしかないではないか? という意味でしょうか?  ★ 純然たる宗教としての一面として、成仏や救済というせまい範囲 / でのみ、他力本願は成立すると考えて大きな誤りはないのでしょうか?  ☆ この《他力本願》とはどういうことか? をめぐって考えるところを述べ それで回答に代えます。  親鸞の言うには 成仏や救済は ひとには分からない。分かったと思っても 分からない。というところまで 分かっている。  だから 他力を本願とすると言っていると思います。  つまり 《他力》ということ自体も――そしてそれを 阿弥陀仏と呼ぼうが またそれについての思念を声に出して唱え続けようが―― 分からない。分かったかまだ分からないか それがそれも分からないと言っています。いっさい分からない。ひょっとして知り得るかも知れない。あるいは 予感することがあるかも知れない。でも 分からない。言いかえると 分かるとすれば 自分が阿弥陀仏であるということになる。しかるに そうではない。ゆえに分からない。  つまり もっと早くいえば 《本願》でも何でもないということです 人間にとっては。なぜって わたしは阿弥陀如来ではないのですから。  それを それでも どこか香りを嗅いだのでしょうね 慕っている。その香りを問い求めてあゆみ続けている。  と言っているのだと考えます。  これが 他力本願ということの実際だと思います。  ですから 内心では 自信があるわけです。わたしという悪人でも どうも どうやら たも(網)で掬われたらしいなぁと。なら その自信のかぎりで ひとにもつたえよう。でも分からないんだよと。

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質問者からのお礼

御回答ありがとうございます。 私の疑問に思っている事に近い所のご意見とお伺いします。 私の簡単な疑問は >人間にとっては。なぜって わたしは阿弥陀如来ではないのですから。 との一文に示される通りなのです。 阿弥陀仏は人の生きる指針としては、あまりにも遠い存在です。 通常、人は、目標(もしくは人物)に向かって生きる様に 教育されます。 遠い存在を目標と勘違いしている人もいると思います。 (私の疑問の一部はここに端を発しています。) うわべだけを読み取ると、阿弥陀仏の様に生きなさいと 読み取れると考えております。 この場合、聖母マリアの様に、「目標」よりは「憧れ」 に近い存在に思えます。 仏になるのが、仏教の教えで、仏(阿弥陀仏)と人間が 乖離している所が気になっている所なんです。

  • 回答No.6

 たびたび失礼します。感想を読んでいて感じたことを少しだけお話させていただきます。 >>私の思う所、逆に、他力本願には、阿弥陀仏と人間の間に大きな隔たりが >>有るように思えます。 >>これは、大乗仏教の傾向だとは、思いますが。  これは、大乗というよりは「浄土教」の傾向と私は考えています。なぜ、浄土教は仏と凡夫という二元論的解釈になるかといえば、それ以前の「天台本学思想」の反動と考えられます。かいつまんで説明いたしますと、人間の煩悩や全ての行動は「仏性」、つまり人間の本性である仏から出たものであり、そのままで仏であるという考えに至ります。初期の段階では理論構築や、修行の必要性が説かれていたのですが、本学思想も後期になると「修行なんてしなくても仏だぜ」という極端な凡夫と仏の一元論的解釈が生まれます。  そんな中、法然上人は「現実の自分には仏(仏性)なんて見えないではないか」と、まず最初に現実の自分に立たれます。そして、明確に「仏(悟り)」と「凡夫(凡夫)」を分けることで、当時の本学思想という理想主義的な一元論を脱却して、念仏を中心とした実践的な二元論の立場に立たれたといわれます。(詳しくは『仏教の思想5 絶対の真理〈天台〉』あたりに、この二元論、一元論のことについては記されていたかと思います。)  ですから、必ずしも大乗が人間と仏との間に大きな隔たりがあるわけではないのですよ。 >>オリジナル(原始仏教)が全て勝るとは考えてはおりませんが、 >>元来仏教の基本は、修行や瞑想を行い、自らが仏となるとの >>認識も私にはあります。  私も同感です。 >>原始仏教、大乗仏教、南伝仏教(?)は、源流を同じくするが >>別な側面を持っているとの認識を持たなくてはいけないようです。  私もこの三つの仏教が、どう違うのか色々考察している最中なんです。そのなかで、大乗がどのような特徴があるか考えている時に『十二部経』という経典が興味をそそりました。『十二部経』はお釈迦様のお説教を12のカテゴリーに分けたお経なのですが、南伝には『九部経』という形で伝わっています。  では、大乗のみが有する三つは何かというと、「尼陀那(nidaana)」因縁談と訳され具体的な由来や物語などを言います。「 阿婆陀那(avadaana)」譬喩と訳され教説の中のたとえ話を言います。「優婆提舎(upadeza)」論議と訳され説教の解説を言います。分かりやすく言えば、「因縁談」と「譬喩」は物語的な部分、「論議」はその物語の解釈です。私は大乗の特色はここにあるのではないかと考えています。  例えば、「嘘を付いてはいけません」と教えるよりも、「狼が出るぞー」と嘘を付き続けて最後には人に信用されなくなってしまった「オオカミ少年」の物語を聞かせることで、「嘘を付くと怖いなぁ」と聞き手が自然に思って嘘を付かなくなるというような方法を大乗は取ったのではないかと考えます。経典でいえば『維摩経』は、維摩居士のお話を聞いて「維摩居士みたいになりたいなぁ」と思わせることで自然に仏教者または仏へと導いていくというような形です。  お釈迦様ご自身も譬喩や因縁談を駆使してお説教していらっしゃいましたが、それを大きく強調して行ったのが大乗ではないかと考えています。  まぁ、まだ思いつきの段階は超えていませんが。ただ、このようなことを考えると、 >>親鸞の思想は、実社会に適応するには、高度な部分が多く >>扱いが大変なのだとの認識ができました。  理論にしようとするとこうなってしまうのですが、実践に立つ側としてはお念仏称えていると自然に仏教が身につくんじゃないかとも考えています。例えば法然上人は『念仏往生義』に たとえば母の愛というものは、よい子でも悪い子でも分け隔てなく愛し育てます。けれども、子供たちがよいことをすれば嬉しく思い、悪いことをすれば悲しむでしょう。阿弥陀仏は全ての衆生を分け隔てなく哀れみ、その慈悲においては悪人も善人も救ってくださいます。けれども、善人を見れば喜び、悪人を見れば悲しむことでしょう とお説きになられます。お念仏を称えてるとこんな心持になって、自然と悪を嫌い、善を喜ぶようになるって言うわけです。これは、阿弥陀様のお心に触れて、初めて起こる心ですから、ヤッパリ「他力本願」の救いの一端なわけです。こうやって仏に自然と近づいていけるから親鸞聖人は「自然法爾」と説いて、念仏者を「現生不退現生正定聚」という仏に近づき続ける位と説かれたのではないでしょうか。  親鸞聖人の思想は確かに理論としては難しいかもしれません。しかし、実践のほうから見てみますと非常に素朴な教えではないかと考えています  長々駄文を連ねましたが、答えではなかったですね。ごめんなさい。 合掌 南無阿弥陀仏 

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質問者からのお礼

配慮の深い御回答ありがとうございます。 もし、追加で対応頂けるなら、私の今回の投稿の疑問 にアドバイスできると、ありがたいです。 私の今回の疑問は、最初の質問には明確に記述されて いませんが、人に対する対応を、どのようにすれば良いか なのです。 オリジナルの仏教の、「八正道」ならば、他人が悪い事 をした場合には、この教えの基づき自分を戒め、他人を 注意をすることがおかしな行動では無いです。 歎異抄を読んで見ると、阿弥陀如来と人間の関係のみが 記述されており、他人(もしくは自分)との関わり合いの 基にする記述がありません。 歎異抄のみが、親鸞の思想では無いとは思いますが 他人との関わり合いをどの様に考えているのかが 知りたい所なのです。 本願が他力の力を借りて成就することは、間違いないと 思いますが、本願以外の内容に関する人間の行動や努力 には親鸞は、触れていないのでしょうか?

  • 回答No.5

一介の真宗門徒です。 >他力本願では悪人でさえも成仏するのは納得がいきますが、悪人は実社会の一般の考え方と考え方が違い、多くの標準的な人とは、折り合いよく暮らせないというのも事実です。 確かに『歎異抄』を一読する限りでは、あるいはわれわれの常識的な善悪観に依拠する限りは、おっしゃる通りの印象を持たれるかと思われます。 が、親鸞がわれわれ衆生を単純に「善人」と「悪人」とに截然と分け得ると考えていたとはとても信じられませんよね。 私が思うに、親鸞の説かれた「悪人」とは、「善人」をも含めたわれわれ一人一人の内部に、(そうと当人だけが気づかないにせよ)必ずや潜んでいるはずの、自分の善の力(自力)をもってしてはとても克服し得ない「悪」を、たとえば我欲、愚かさ、蒙昧等々といった、どうしようもない煩悩のようなものを暗示しているのではないでしょうか。 親鸞によると、阿弥陀仏は、自分は「善人」だと信じ込んでいる人をさえ救済なさるのだから、自分が「悪人」だと気づいている(自力ではとても善人にはなれない)人を救済しないはずがないということになるのではないでしょうか。 同じような発想は、次のイエスの言葉にも認められるような気がします。 なんぢらの中たれか百匹の羊を有たんに、若その一匹を牛はば、九十九匹を野におき、往きて失せたる者を見出すまでは尋ねざらんや。遂に見出さば、喜びて之を己が肩にかけ、家に帰りて其の友と隣人とを呼び集めて言はん「我とともに喜べ、失せたる我が羊を見出せり」われ汝らに告ぐ、斯のごとく改悛むる一人の罪人のためには、改悛の必要なき九十九人の正しき者にも勝りて、天に歓喜あるべし。(ルカ伝15・3) 親鸞の説かれた「悪人」は「改悛むる一人の罪人」に、「善人」は「改悛の必要なき九十九人の正しき者」に、それぞれ対応するのではないでしょうか。 >純然たる宗教としての一面として、成仏や救済というせまい範囲でのみ、他力本願は成立すると考えて大きな誤りはないのでしょうか? いや、「他力本願」とは、まずもって、自らの善の力だけではとても克服しがたい自らの煩悩としての悪を凝視することで、はじめて阿弥陀仏の無量(無限)の救済力(本願)に自らを委ねようとすることにほかならないと思います。 >他力本願的に考えると、どのようなことをしている人間も肯定されるとの考えることができます。 失礼ながら、質問者さんだって、まして私はもちろんのこと、本当は「肯定」したくとも、とても自信をもって「肯定」し得ないような「悪人」を抱え込んでいますよね。 そうと気づくことが「他力本願」の機縁になるはずで、このことの大切さに較べると、「どのようなことをしている人間も肯定される」かどうかは、親鸞の説かれた「悪人」とは全く無関係なことだと思われます。

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  • 回答No.4

>>涅槃=絶対的な目標、正しい状態 >>と考えるならば、他力本願的に考えると、 >>どのようなことをしている人間も肯定されるとの考えることができます。  こちらも、古来より浄土教全体が受けてきた批判の一つです。「念仏さえしていれば、どんな事をやっても救ってもらえる」という解釈かと思います。  このようなことを考えるときに、思い出すのは法然の「遊女の説法」です。「法然上人行状絵図(四十八巻伝)」には(以下私訳)  法然上人が念仏弾圧によって流罪になられ、船に乗って流刑の地に向かわれていたときのこと。別の船が一艘近づいてきました。船には遊女が数人乗っていて、法然上人に、 「法然上人のお船がここを通ると聞いて待っておりました。世の中には様々な職業があるというのに、私達はどのような罪があってか、このような体を売って生計を立てる身になってしまいました。このような罪深い身で、どうしたら極楽に往生できますか?」 と問われます。すると法然上人は、 「確かに遊女とは罪深きものです。もし、遊女をやめて生きていく方法があるのであれば、早々に遊女をやめるべきです。しかし、遊女をやめては生きていくことが出来ない。だからといって世に絶望して死ぬことはありません。遊女そのままでよいから念仏をしなさい。阿弥陀仏は、あなたのような立場の弱い罪深い人のために誓願を立てられたのです。」 とお説きになられました。  これが浄土教の立場です。仏教において体を売って仕事をするということは「不邪淫戒」の立場からすれば悪以外の何者でもありません。ですから、法然上人は「遊女をやめて生きていく方法があるのであれば、早々に遊女をやめるべきです」とお答えになられます。しかし、それが分かっているけれども生きるためにはやめることが出来ないのであれば、その身の悪をそのままを背負ってお念仏しなさいと説かれるのです。つまり、浄土教においても「念仏すれば何をやっていても良い」というわかではありません。  ただ、こちらの質問は『歎異抄』を読んでのご質問なので、『歎異抄』十三章の おおよそ、悪業煩悩を断じつくしてのち、 本願を信ぜんのみぞ、願をほこるおもいもなくてよかるべきに、 煩悩を断じなばすなわち仏になり、仏のためには、五劫思惟の願、 その詮なくやましまさん。本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩不浄、具足せられてこそそうろうげなれ。それは願にほこらるるにあらずや。いかなる悪を、本願ぼこりという、いかなる悪か、ほこらぬにてそうろうべきぞや。 かえりて、こころおさなきことか。   という言葉を基礎においていらっしゃるかと思います。ただ、『歎異抄』の書かれた目的は「親鸞聖人と異なった教えを説くものが現れたこと嘆く」という題名からも、教団内部よりの異学異見へ物申すという視点から書かれているという時代背景を忘れてはいけません。  親鸞が関東を離れて以来その教えは、それぞれの弟子や孫弟子の下で変化を遂げてき、私こそが親鸞聖人の真意を伝えていると言い、他のお弟子達を批判するものが現れたようです。それは、『歎異抄』第二章において、親鸞の真意を弟子達が確かめに行ったというエピソードからも伺えます。その批判の中に「自力の善行をしないで阿弥陀仏を信じて念仏だけしていれば良いなどと言う甘えの心では、本願誇りであり、そんな者は救われないから、私のところは来なさい」と言う者があったようです。これに対して唯円は『歎異抄』第十三章において、先に述べた親鸞聖人のお言葉を引用しているわけです。つまり、ここで言う「本願誇り」とは「何をやっても阿弥陀さんに救われる」ということではなく、「自力の善行を行なわず、阿弥陀仏を信じて念仏を称える」ということです。ですから、どれほど、本願に甘えた心(本願誇り)を起こすなといった所で、私達は煩悩という悪を背負っている以上、私達は本願に甘えるほかないと説かれます。  また、同じ『歎異抄』第十三章には 薬あればとて、毒をこのむべからず とあって、親鸞も「何をやっても阿弥陀さんに救われる」ということは、法然同様に否定的な立場を取られています。  このように、『歎異抄』はそのものとしてもとても素晴らしい書物です。しかし、時代背景や文脈、または教義とのすり合わせも大変重要になります。 >>負の救済の局面でしか適応できない考え方は、正しく無いと私は思っております。  こちらにおける「負の救済の局面」とうのはどのようなことを指すか私には拝察しかねますが、浄土教においては「他力に支えられ生かされている」という立場であり、私達が今生きているこの世を疎かにしているわけではありませんよ。 長々駄文を連ねましたが、急ごしらえの文章のため誤字脱字乱文どうぞご容赦ください。 合掌 南無阿弥陀仏

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質問者からのお礼

長い文章での御回答ありがとうございます。 私の直感として、 私(たち)が生きていく人生のシナリオを仏様(大きな捕らえ方をして)が 記述しており、私はそのシナリオの通り生きているのだ。 との表現には同意するべき点はあると考えております。 この場合の仏様は、限りなく一般的な神に近い存在にはなると思います。 阿弥陀仏も同様の存在なのだとは思います。 私の思う所、逆に、他力本願には、阿弥陀仏と人間の間に大きな隔たりが 有るように思えます。 これは、大乗仏教の傾向だとは、思いますが。 オリジナル(原始仏教)が全て勝るとは考えてはおりませんが、 元来仏教の基本は、修行や瞑想を行い、自らが仏となるとの 認識も私にはあります。 そのように、考えるどうも私の捉え方が、誤っている様に 思えてきました。 原始仏教、大乗仏教、南伝仏教(?)は、源流を同じくするが 別な側面を持っているとの認識を持たなくてはいけないようです。 親鸞の思想は、実社会に適応するには、高度な部分が多く 扱いが大変なのだとの認識ができました。 ありがとうございました。

  • 回答No.3

「悪人正機」「他力本願」というのは、浄土真宗に限らず法然上人(以下尊称を略す)を中心とした日本浄土教全体への質問かと思います。少しだけお話させていただきます。 >>悪人は実社会の一般の考え方と考え方が違い、多くの標準的な >>人とは、折り合いよく暮らせないというのも事実です。  ではまず、悪人とは誰のことでしょうか?? 親鸞聖人(以下尊称を略す)の人間観を語る上で『歎異抄』三章においての、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」という言葉は避けられないものでしょう。この言葉は、一般には親鸞の説とされていますが、この言葉は法然の説かれたもので、親鸞の説であると同時に法然の説であるとも言えます。これを一名「悪人正機」とか「悪人正機説」といいます。  また親鸞は『歎異抄』後序の中において、「正機」ということについて、このようにも述べています。 弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。 このように自身こそが阿弥陀仏の目的であることを述べておられます。阿弥陀仏が親鸞を救わんがために本願を立てたのならば、親鸞はまさに「正機」に当たります。ということは、正機である悪人とは親鸞のことであり、親鸞=悪人ということ成り立ちます。親鸞にとっても阿弥陀仏の救いの目的(正機)である悪人というは自分の事にほかならないことがいえます。つまり、「悪人」とはどのような意味を持つかというと、親鸞自身が悪人であるという自覚を述べていることからも、ただ単に現代において使用される悪人と言う意味ではなく、自分自身が悪人である事を自覚するからこそ、阿弥陀仏の正機たりえる悪人となるのです。ですから、悪人とは他者に使う言葉ではなく、深い自己反省に基づき自分自身について使う言葉となります。  ですから、質問の中にある「悪人」は現代的な悪人であり、法然、親鸞の言う悪人とは一線を画するわけです。 >>宗教として、元々仏教は、死を大きな局面と考える宗教と >>私は認識しておりますが、実社会への係わり合いが無い、 >>実社会で活用できない(人が生きて行くために必要となる拠り所) >>ものは、器として小さい気がしております。 >>純然たる宗教としての一面として、成仏や救済というせまい範囲 >>でのみ、他力本願は成立すると考えて大きな誤りはないのでしょうか?  これは、浄土教が古来より受けてきた批判の一つです。「死んだあとの救いはあっても、生きてる間は役に立たない」というものです。  では、浄土教における根性の救いとはどこにあるのか。まず、法然は はじめにはわが身の程を信じ、のちに仏の願を信ずるなり と述べておられます。この「はじめにはわが身の程を信じ」というのは、自分の愚かさや弱さに目を向けなさいということで、つまり先に申しました「悪人の自覚」です。しかし、それはそれで終わってしまうものではありません。「のちに仏の願を信ずるなり」とは、自分の愚かさや弱さをを知ったとき初めて、それを支えてくれる仏様がいてくれる、自分はいろんな方々に支えられていることを知るのです。これが「他力本願」です。他力本願とは他人任せにしておくことではなく、自分自身が今すでに支えられて生かされていること知ることに他なりません。この愚かさを知りそしてお陰を知る心を、浄土教では「深心」と読んで、親鸞も『教行信証』の中でペ-ジ数を割いて解釈しておられます。  では、愚かさを知りお陰を知ったその時に私達がすべきことは「ありがとうございます」これを言葉にしてお伝えすることです。だからこそ浄土真宗のお念仏は「報恩感謝のお念仏」というありがとうのお念仏であり、ありがとうも声に出さなければなかなか伝わらない。だからこそ、浄土真宗のお念仏は「称名念仏」声に出して称えなさいというのです。  また、そのお念仏を「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」毎日お称えしていると、その声はめぐりめぐって自分の耳へと届きます。そのお念仏の声を親鸞は「弥陀の勅命」仏様の声として受け取りなさいとお説きになられます。そのありがとうのお念仏の声は仏様の声として、だんだんと自分の中に染み渡っていく、普段の生活の中においても「ありがとう」って言いたくなっちゃうし、自然に「ありがとう」っていえるようになってくる。この姿もまた「他力本願」です。自分で言おうとして言うのであれば自力ですけど、別に自分で言おうとしてるわけではないんですから、思わずありがとうが出ちゃうんですからね。 こうやって愚かさを知りお陰を知り、「南無阿弥陀仏」と報恩感謝のお念仏をいただいて生きる人が、阿弥陀仏の本願に相応した人であるといえるでしょうね。これが、今生における救いの一端です。  ちょっと、字数が足りないようなので二つにまたがります。

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  • 回答No.2

>悪人は(中略)標準的な人とは、折り合いよく暮らせないというのも事実です。 これは大きな間違えです。大物政治家など歴史に残る悪人が標準的な人と、折り合い良く暮らせるのが仏教国日本です。 >宗教として(中略)(浄土真宗は)器として小さい気がしております。 これは大きな間違えです。浄土真宗は宗教として器の小さなものではありません。 >(前略)せまい範囲でのみ、他力本願は成立すると考えて大きな誤りはないのでしょうか? これは大きな誤りです。大願成就に対しても他力本願が必要なのです。 >涅槃=絶対的な目標、正しい状態と考える これは大きな間違えです。涅槃に対して「正しい状態」とか「不正の状態」などという迷いは抹消しなければなりません。 >(前略)考え方は、正しく無いと私は思っております。 これは大きな間違えです。宗教は数学ではありません。しかるに、いかなる考えと雖も「正しい」とか「正しくない」などと言うのは僭越です。まして、あなたは神でも無く仏でも無く裁判官でも無くただの求道者にすぎない。ただ単に「好きじゃない」と言うべきとものに「正しく無い」などと審判を下した。不遜です。これは求道者として許されざる過ちです。この点において、あなたのような人物を「悪人」というのです。その事に気づいてください。さすれば、善人なおもて往生す、いわんや悪人をや。

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  • 回答No.1
  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2419)

負の救済の局面でしか適応できない考え方は、正しく無いと私は思っております。 ○常識的に考えておかしな考えは、その通りおかしいんですよ。 極重悪人が念仏を唱えても救えないものは救えないのですね。 例えば、みな成仏したとして、だれも悪人とはいたくないでしょうね。それは、この世もあの世も同じですからね。 このことを端的に表現したのが、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」ですね。どのような悪人でも全てが悪人ではないのですね。この小説の主人公のカンダタは悪の限りを尽くして地獄にいたのですが、生前一匹の蜘蛛を救ったということでお釈迦様が蜘蛛の糸をたらして成仏させようと試みますがやはりだめでしたね。 つまり、念仏を唱えたからといっても悪行以上の善行を積まない限り成仏はしないのですね。人生の平均値で裁かれるわけですからね。 まあ、親鸞は妻帯したということで罪意識が強かったようですが、妻帯ぐらいで悪人とはなりませんからね。お釈迦様も出家前は妻も子もいましたからね。 釈迦の時代に、99人(999人という話もある)も殺害し釈尊も殺そうとした極重悪人のアングリーマーラという人がいて、釈尊は彼を弟子にするのですね。当然アングリーマーラは托鉢に出かけると石は投げられるし、ひどい日々を重ねたのですね。でも自身の罪を謝罪し、数十年の後には人助けもして民衆に立派な僧として認知されたという逸話があるのですね。これなんかは親鸞も手本にしたのかもしれませんが、親鸞のいう「極重悪人唯称仏」にはほど遠い話ですね。親鸞も単なる弟子ですから「はしょった」のでしょうね。 歎異抄は、その程度に解釈しておけばいい程度のものです。弟子本の一つでしかないことを忘れてはいけないということですね。親鸞だけではなく日蓮もそうですね。弟子の言葉や解釈はいつも正しいわけではないということですね。

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質問者からのお礼

御丁寧な回答ありがとうございます。 歎異抄が親鸞の思想の一部を描写したものとの認識を忘れないようにします。 本題ですが、 極悪人=八正道を守らない人間 ならば、仏陀は「そんなことはいかん」と必ずおっしゃるはずです。 他力本願の視点には、この仏教の基本に相反する面を持つと思っています。 最終目的である成仏へ向かうための「方便」として「八正道」がある と認識しております。 私の、今の理解としては、他力本願が成立するのは、仏教の研鑽を積んだ 人間への戒めと考えております。 少し、考察しまして、考えがまとまりました、ご意見感謝しております。

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