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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:法華経の根本的な矛盾について)

法華経の根本的な矛盾について

mmkyの回答

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.5

「しかしこの法華経の中で法華経自身が語られるという矛盾について、全く納得ができませんでした。」 ○法華経については天台チギでさえ良く理解できなかったと思いますので、叡山天台系のかたがたが理解できるとは思いませんし、解説も不備が多いように思います。そこで、一旦、完全に白紙に戻して「現代的ビジョン」を考慮して俯瞰すると、法華経の中で法華経自身が語られることはおかしくないのですね。 釈尊の晩年に、霊鷲山で弟子を集めて行なった「奇跡的なビジョンを伴う前代未聞の(摩訶不思議な」説法」とその時の状況および登場人物の話を纏めたのが鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』ですね。 釈尊が弟子に説法をし、三妙によりビジョンを見せたわけですが、その時、別の仏(多宝如来)が現れて良く法「ここでは法華経と称してますね」を説かれた。といっているのですね。また、他の世界から無数の人々が現れ、同じことをいってますね。 これで法華経のなかに「法華経」が出てくることになるのですが、これは矛盾ではなく訳語の問題だと思いますね天台チギから中身もわからず訳した人ばかりですから致し方ないと思いますね。例えば、『良く妙法を説かれました。』と訳して経典全体を「妙法蓮華経」とすれば問題はないように思います。法華経自体にも多くの混じりが入っていると思いますが、まあ立派な方が新理論をプロジェクターなどを使って講義し、それに感嘆した多くの人々が新理論を褒め称えているという現代的ビジョンを参考にして、その全体を何とか文章にしたと考えればよろしいんじゃないかと思います。

myo_ho
質問者

補足

  ご回答ありがとうございます。 “立派な方が新理論をプロジェクターなどを使って講義し、それに感嘆した多くの人々が新理論を褒め称えているという現代的ビジョンを参考にして、その全体を何とか文章にしたと考えればよろしいんじゃないかと思います” まさに状況としては、その通りですね。つまり、釈迦のプロジェクターで映し出される新理論=妙法の解説画面が、私たち凡夫にとっては眩し過ぎて見えず、釈迦の講義も、新理論=妙法の核心へ迫ると、まるで犬笛のように凡夫には聞こえなくなる、ということで、しかしながら、参列した菩薩や縁覚、声聞には、それぞれの能力に応じてその新理論が伝わり理解され、その新理論=妙法を褒め称えている、ということですね。 そこに立ち会う釈迦以外の如来たちも、先に新理論=妙法を完全に理解したノーベル物理学賞の歴代受賞博士のように、その様子を微笑ましく見守り、後輩たちを励ましている、といった感じでしょうか。 ここでの、眩し過ぎて見えない、犬笛のように聞こえない、とは、凡夫にとって経典で単に文章化されていないため不可知、という程度の意味ですが。 そうならば凡夫の読者には、妙法=記・法華経の存在はハッキリと把握されないままですから、現・法華経内で新理論=妙法=記・法華経のことを、何らかの意図を持ってか、もしくは単なる訳語の誤用か分かりませんが、現・法華経と同名で記されれば、それが記・法華経のことだとは気付かずに、現・法華経のことだと短絡的に勘違いするのも避けられません。 まして現・法華経を読み進むに連れて、それは西暦50年頃から150年頃にかけ諸章が付加され現・法華経が成立する過程とほぼ同様の流れだと思いますが、次第に、現・法華経=記・法華経という誤解へと誘導するような記述が増すように思われます。 しかし、そのような誤解への誘導に惑わされる事なく、現・法華経の中で語られる法華経とは、あくまでも妙法=記・法華経のことであり、現・法華経≠記・法華経なのだとスッパリ割り切れば、本件の矛盾が根本から解消される、ということですね。 ここまでは、もちろん私も同意なんですけれど、そこから先がどうにも不可解な点です。 私の質問に戻りますと、“この矛盾に対し、法華経を支持する立場からの論理的な解説などはあるのでしょうか?”ということで、寡聞ながら私の知る限り、法華経を信奉、支持される方々は、上記でのような現・法華経≠記・法華経という割り切りとは全く逆の、現・法華経=記・法華経という認識でおられると思います。 おそらく天台チギ以降、そのような認識が法華経に対する常識ではないかと感じているのですが、それではそのような認識が、本件でいう矛盾をどのように止揚して得られたのか、私には皆目、検討が付きません。 そこで、“法華経を支持する立場からの論理的な解説”があれば参考にしてみたいと思い、質問させて頂いた次第です。 引き続き、よろしくお願い申し上げます。  

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