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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:法華経の根本的な矛盾について)

法華経の根本的な矛盾について

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

回答No.8

 詩人ですねぇ。月の例え等は私には出来ない表現です。  一応最初に確認だけ、他の方の回答を読んでいると、「記法華経」の定義が少し分からなくなりそうなので記しておきます。  「法華経」の中に「法華経」が出てくるのには大きく二つに分けることが出来ます。 (1)法華経ってすばらしー!! (2)過去において誰々が法華経を説かれました。 (とっても乱暴な言い方ですが・・・)この二通りです。ここでの質問の「記法華経」は(2)のことをあらわすもので良いんですよね??(1)の意味で答えていらっしゃる方もいるようなので、確認のために。 さて、 >>引き続き、よろしくお願い申し上げます。 とのことですが、私の言いたいことは大体ご理解いただけていると思います。本来付け足すようなことはないのですが(と言うより知識がないのですが)、言葉尻を付くような話になってしまうのですけれど少しだけ微調整させていただきます。悪しからず。 >>現・法華経は、文章で著されているという限りにおいて、凡夫でも、記されている範疇については認識が可能である。 >>(中略)記されている範疇とは何かといえば、妙法=記・法華経が存在するらしいということ、凡夫がその妙法へ至るための修行法、この2点のみである。  ここに少し引っかかる所があります。「法華経」には「凡夫が妙法へ至るための修行法」は書かれていません。このことは、江戸時代に大乗非仏説などを日本において提唱した富永仲基や、幕末から明治にかけての神道家で法華経無内容説を説いた平田篤胤などの指摘するとおりです。  「法華経」に書いてあるのは(特に後半部は)「過去にどのような状況において法華経が説かれ、法華経の行者(菩薩)がどのように生きたか」と言うことです。これは、仏教のお説教の区分で言えば「因縁(因縁談とも言います)」と言われる部分になり、「妙法に至る修行法」が載っているわけではないのです。  「修行法」が記されていれば、それをやれば言い訳なんですが、修行法が書かれていないからこその「身読」なわけです。末法と言う時代背景と日蓮聖人に降りかかる法難が、「法華経」に説かれている因縁と一致すると言うことで、「身読」は成立するわけです。  日蓮聖人は法難に遭えば遭うほど自身の自覚を「法華経の行者」→「地涌の菩薩(「法華経」の中でお釈迦様に後年の「法華経」流布を託される菩薩達)」→「上行菩薩(地涌の菩薩のリーダー)」と深めていかれます。  あと、もう一点。ここで、私が申したのは「日蓮聖人の法華経理論」の一端であって、「法華経理論」としてはほんの一部に過ぎません。「天台法華理論」においては、「法華経」の実践はと言えるものは日蓮聖人の言う「題目」ではなく、天台大師智ギの言う「止観」ですし、それぞれにも相違点が見られます。ですから、この質問に対してもっと他の答えも方あると思います。私自身ももう少し調べて行きたいと思います。(誰か天台宗専門の方、答えてくれませんかねぇ。ちょっと期待してます。)  読み返してみるとたいしたことは話していませんね。すみません。 合掌 南無阿弥陀仏

myo_ho
質問者

補足

  ご回答ありがとうございます。 >「法華経」には「凡夫が妙法へ至るための修行法」は書かれていません。 あれ、そうなんですか? > 身をもって「法華経」の内容を体験することを「身読」といいます。 ということから、私は体験=修行だと一人合点していましたけれど、 >「修行法」が記されていれば、それをやれば言いわけなんですが、 >「修行法」が書かれていないからこその「身読」なわけです。 というと、体験と修行とは違うものなのでしょうか? 例えば、本人が期せずして偶然に出会う体験を修行とは言えないと思いますが、自らが修行と期して体験すれば、それは何でも修行になるかと思いますので、身をもって「法華経」の内容を体験する、これを修行だと捉え実践することが身読、だと考えていました。 多分「身読」の本当の意味が私には分かっていないのだろうと思います。 けれど、身読=現・法華経の実践=妙法への修行、と捉えると、私にはとても気持ちよく理解できるんですが。 以下のように現・法華経を、修行者への体験課題=修行法、と見ることができますので。 序本では、瑞相を感じ、白毫の光に映し出される一万八千の世界を見、 日月灯明如来の説く四諦と縁起を理解し、六波羅蜜を修し、分からないことがあれば弥勒のように文殊師利へ問うという体験課題。 方便品では、仏の智慧は限りなく深く難解難入であると知り、三止三請のように諦めず、五千起去のような者らがいることを考慮し、如来の法は一仏乗と知り、方便をもって衆生に説き、他に依ることなく如来を信じるという体験課題。 譬喩品では、何者も積み重ねた身読により舎利弗のように授記されると信じ、三車火宅の譬えの通り方便をもって衆生を救い、衆生を阿耨多羅三藐三菩提に導くため諸仏は方便により一仏乗を説くために三乗をもってすることを知り、この経は智あるものに説き浅識のものには説かないという体験課題。 信解品では、長者窮子の譬えの通り、如来を父、窮子を自分自身だと気付くという体験課題。 薬草喩品では、三草二木の譬えのように仏法の功徳を衆生へ平等に注ぐという体験課題。 授記品では、如来たる者はどのような国を創造すべきかを知るという体験課題。 化城喩品では、大通智勝如来と十六王子それぞれの修行と説法から学び、化城宝処の譬えのように如来の方便という配慮により進むという体験課題。 五百弟子受記品や授学・無学人記品では、これらのようにして修行に励むものは衣裏珠の譬えの通り皆等しく阿耨多羅三藐三菩提の記が授けられることを信じるという体験課題。 法師品では、さらに法華経の一句一言でも聞いて心から歓ぶ者には阿耨多羅三藐三菩提の記が授けられることを信じ、弘教の際に悪口、罵り、刀・杖・瓦・石などで害を加えられても仏を念じ耐え忍ぶという体験課題。ヽ(´_`; 疲れたので(笑)この辺でやめておきますが、以降にも、堤婆達多、竜女、摩訶波闍波提比丘尼、耶輸陀羅比丘尼、、無辺行、浄行、安立行などから、久遠実成の釈迦如来自身、そこで最も分かりやすい例が不軽菩薩です。 さらに、香料を十二年間飲んだ上に自分の腕を七万二千年も燃やし続けた一切衆生喜見菩薩、妙音菩薩や観世音菩薩、妙荘厳と浄徳夫人と二人の子、そして普賢菩薩など。 これらは「因縁」と言われる区分だとのことですが、この「因縁」も含め、全てが修行者への具体的な体験課題だと捉えれば、現・法華経そのものが「How to be Buddha」という指南書に早変わりしてしまいます。 不軽菩薩のように信じ、一切衆生喜見菩薩のように供養し、観世音菩薩のように救う。 もちろん、そのような修行が真っ当なのか、成し得るのかどうか、私にとっては不明ですが、ともかく現・法華経を深く信じて釈迦に習い、数え切れない転生をも繰り返す覚悟のもと、凡夫には計り知れない本気をもって、それを達成しようと固く決意し死に物狂いの情熱で実践したのが日蓮だった、ということのように思えます。 身読とは、そのようなことだと感じたので、ピンときた、つもりになってました。 現・法華経の実践=妙法への修行、と捉えれば、あの宮沢賢治による「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」も、そのままとして理解できますし。 またそこから、日蓮宗系の方々に独特の性向も、それを生み出す理由が分かるように思えました。 「法華経を信じ実践せよ。解釈不要、題目唯一、実践あるのみ!」 そうなれば当然、日蓮宗系以外の方々とも考えは違ってくると思います。 以上、どうやら勘違いのようですが、私の身読理解についてでした。 > 読み返してみるとたいしたことは話していませんね。すみません。 私にとっては重大なご指摘でした。ありがとうございます。 もし宜しければ、またご意見をお寄せくださいませ。  

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