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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:法華経の根本的な矛盾について)

法華経の根本的な矛盾について

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

回答No.9

 最後にもう少しだけお話させていただきます。 >>>「修行法」が記されていれば、それをやれば言いわけなんですが、 >>>「修行法」が書かれていないからこその「身読」なわけです。 >>というと、体験と修行とは違うものなのでしょうか?  確かにおっしゃっている意味は分かります。行住坐臥全てが修行となると言う考えは仏教の中にもあります。しかし、ここで私の言っている「修行法」と言うのはそういうことではないんですよ。  私の専門は浄土教なので浄土教の『観無量寿経』で少し説明をさせていただきます。  『観無量寿経』の中には数多くの修行法が説かれています。例えば、日想観(日没を見て浄土を観想)・水想観(水を見て瑠璃の輝く浄土を観想)等の「十六観」と言う瞑想法や、持戒や大乗経典の読誦、六念(仏・法・僧・戒・施・天を念ずる)等々、枚挙にいとまがありません。  では、「その数ある修行法の中でも、なぜ念仏なのか?」もちろん浄土三部経の内『無量寿経』のなかで阿弥陀仏が念仏するものを助けると誓いを立てられたことも理由の一つですが、『観無量寿経』の中だけでも説明がつけられます。それは、『観無量寿経』に 佛告阿難。汝好持是語。持是語者、即是持無量壽佛名 とあり、お釈迦様は最後のまとめのところでアナンに向かって「このことをよく心にとどめておきなさい。このこととは阿弥陀仏(無量寿仏)の名前を心にとどめておきなさい。」と説かれるのです。お釈迦様は最後に「阿弥陀仏の名前」即ち「南無阿弥陀仏」の念仏を心にとどめよと説かれるのです。これに対して念仏以外の修行法はお釈迦様のお勧めがないということになります。これを親鸞聖人は「勧無勧対(念仏は仏がたが勧めておられ、諸善は勧めておられない)」と説かれています。この理由をもって浄土教において中心となる修行法は「念仏」となるわけです。  つまり何が言いたいかというと、これは他の経典解釈においても同じことです。教えがあってもお勧めがないということは、「修行法」が載っているわけではないということです。ここが法華経の無内容説につながる部分です。「法華経」にも多くの菩薩が修行している姿は記されていますが、お勧めを見るとほとんどないのです。  ここは、メジャーどこの常不軽菩薩で考えて見ますと「汝当に作仏すべし」と数多くの人々に言ってまわる。これは確かに「修行法」と捉えることが出来ます。しかし、これをしなさいというお勧めはないのです。確かに、この常不軽菩薩の姿をもって修行とする宗派も長い歴史の中から見ればあったかもしれませんが、日蓮聖人自身はそれを修行法としたわけではありません。日蓮聖人が「お勧め」のない「法華経(現法華経と言い換えてもいいでしょう)」から、お釈迦様の真意(記法華経と言い換えてもいいでしょう)を読み解いて広められたのが「南無妙法蓮華経」の題目であり、題目こそが法華経の真意を表す「修行法」となるわけです。  確かに日蓮聖人は自分と常不軽菩薩を重ねて、 不軽菩薩は過去に法華経を謗じ給う罪身に有ゆえに、瓦石をかおるとみえたり。 と述べておられますが、常不軽菩薩と同じ事をしていたわけではありません。あくまでしつこいようですが、日蓮聖人の言う「法華経」の修行法は「南無妙法蓮華経」の題目でありそれ以外のものではありません。この題目という真実の仏法である「法華経」の修行法を広めることで降りかかる法難に遭う自分の姿と常不軽菩薩の姿が重なっていく事が「身読」なわけです。 >>自らが修行と期して体験すれば、それは何でも修行になるかと思いますので、身をもって「法華経」の内容を体験する、これを修行だと捉え実践することが身読、だと考えていました。  ですから、確かにmyo_hoのおっしゃる通りで、全てを修行としてしまうことも出来ます。私も「そういった解釈ができる(もしくは「ある」)」という事に異論を挟んでいるのではなく、日蓮聖人の「法華経教学」の立場に立ったときその解釈で良いのかということです。  私もまだまだ勉強中のなものでうまく言葉に出来ていないのですが、私としては「法華経」(特に後半部)に記されていることは「修行法」と言うより「因縁」であると考えるほうが自然なんですよね。  あぁ~、なんだかホントまとまらなくてすみません。私も勉強を続けたいと思います。急ごしらえの文章のため誤字脱字乱文どうぞご容赦ください。 合掌 南無阿弥陀仏

myo_ho
質問者

お礼

  ご回答ありがとうございます。 なるほど。 突き詰めて行くと、なかなか厳密なものなんですね。 私などは、例えば観無量寿経を現代文で読むと、九品往生に「何だか階級制みたいで、阿弥陀さん、そりゃイメージ違うよ」などと突っ込みつつも、木津川の浄瑠璃寺でズラリと並ぶ九体の阿弥陀像を目の前にするや「こりゃよっぽど薬師如来さんコントロール悪いね、阿弥陀さんも分身の術9人がかりでキャッチャーとは、何とも恐れ入った、有り難いお姿」と感激する始末ですから。 そんな私が法華経に興味を持ったのは、近くの妙見さんへお参りするのが好きでたまに足を運ぶんですが、そこは日蓮宗なものですから、ご挨拶としては「南無妙法蓮華経」となるわけで、このお経に南無をつける感覚が自分としてはどうにも納得いかずに、困ったことからです。 お経を大事にして感謝し丁寧に取り扱うのは当然としても、肝心なのは内容や仏さん自身であってお経そのものだとは思えずに、こりゃともあれ法華経を読んでみるしかないか、と何冊かの解説書に当たり、幾度か通しで読経してみると、やはり“変”なんですよ、漠然とですが。 そこでハッキリさせなきゃと現代語訳(図説法華経大全)を読んでみたら、やっぱり間違いなく“変”でした。 この“変”と思う点を細かく上げればキリないんですが、とどのつまりは、現・法華経=記・法華経とされる1点に集約される問題だと思い至り、ようやくこちらで質問させていただいたような次第でした。 このような素人の疑問へ、お忙しい中ご丁寧にお付き合いくださいまして、本当にありがとうございました。 私としては、身読を始めとした様々な要点をアドバイスいただき、今後の課題として取り組ませていただきます。 それでは、いったんこの質問はお開きということで、ご回答いただきました皆様にも厚く御礼申し上げます。 と言いつつ、最後に蛇足ではありますが、私がこれから法華宗系のお寺へお参りさせていただく際には、是非ともこのようにご挨拶させていただこうと思います。 「南無妙法蓮華」(ナムミョウホウレンゲ)  

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