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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:法華経の根本的な矛盾について)

法華経の根本的な矛盾について

馬鹿 禿(@baka-hage)の回答

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回答No.6

 私の専門は浄土教のほうなんですが、鎌倉仏教全体を勉強しようと思いしばらく日蓮聖人の法華経理論の勉強をしておりまして、その中で法華経に触れているうちに同じ疑問を抱きました。質問を読んで感銘いたしまして筆を執った次第です。 >>しかしこの法華経の中で法華経自身が語られるという矛盾について、全く納得ができませんでした。  ヤッパリそこで引っかかりますよね??私としては『妙法蓮華経』だけでなく、異訳の『正法華経』『添品妙法蓮華経』や梵本の法華経も比較検討してからここで質問してみようと思ったのですが、『妙法蓮華経』の資料が多すぎて抜け出せない所です。  異訳経典との比較について言えば、日蓮聖人の『法華取要抄』には「羅什三蔵は広を捨て略を好む」とあり、『妙法蓮華経』を訳した鳩摩羅什三蔵は逐語訳よりも意訳を好んでいると指摘していますから、日蓮聖人自身は『妙法蓮華経』のみではなく他の異訳の法華経の研究もされていたことがうかがえます。    これを踏まえましても、『妙法蓮華経』を含めた「法華経」にはいろんな分からないことがあります。一つにはこの質問にあるような疑問。もう一つよく言われる疑問は「法華経には法華経の内容が書かれていない」一口にこれを「法華経無内容説」といったりするんですが、この質問もこれに付随するものだと私は考えています。  なぜなら、「法華経」の内容と、現在説かれている状況(お釈迦様が説いている状況)、過去に説かれていた状況が記されていれば、この質問も生まれなかったはずです。『妙法蓮華経』を読むと、お釈迦様が説法されている状況と、過去に「法華経」が説かれた経緯しか記されていないのが問題であると言えます。  では、「法華経」内容はいかにして読み解くか。  これに日蓮聖人は「身読」ということを説かれておられます。『単衣抄』には 法華経の第四に云く「如来の現在にすら猶怨嫉多し」等云云、第五に云く「一切世間怨多くして信じ難し」等云云、天台大師も恐らくはいまだ此の経文をばよみ給はず、一切世間皆信受せし故なり、伝教大師も及び給うべからず況滅度後の経文に符合せざるが故に、日蓮日本国に出現せずば如来の金言も虚くなり多宝の証明もなにかせん十方の諸仏の御語も妄語となりなん、仏滅後二千二百二十余年月氏漢土日本に一切世間多怨難信の人なし、日蓮なくば仏語既に絶えなん とあり、また『寂日房御書』には 日蓮は日本第一の法華経の行者なり。すでに勧持品の二十行の偈の文は日本国の中には日蓮一人よめり とあり、日蓮聖人の思想の中核を表すといわれる『開目抄』にも 末法の始のしるし 恐怖悪世中の金言のあふゆへに但日蓮一人これをよめり とあって、天台大師智ギ(ギの漢字は化けてしまうのでカタカナ表記にします)や伝教大師最澄は「法華経」を読誦して居られましたが、「法華経」に説かれているような時代とは相応していない方々であって、自分(日蓮聖人)こそが「法華経」に説かれている法華経の行者が遭遇するはずの受難に遭い「法華経」そのものを身をもって体験した唯一の法華経の行者であるとしています。  このように身をもって「法華経」の内容を体験することを「身読」といいます。これをもって日蓮聖人は「法華経の内容」を感知感得し「南無妙法蓮華経」の題目を広めていかれます。  つまり、 >>現・法華経=記・法華経という関係はあり得ませんから。なので、この矛盾を解明した論説などがありましたら知りたく思います。 ということを考えるとき、「身読」という解釈をもって「現法華経=記法華経」の式が成り立つわけですよ。また、「法華経」には内容が無いのではなく、読み解くべき者(ここでは日蓮聖人)が現れたときその内容(ここでは「南無妙法蓮華経」)も明らかになるってことですね。  私自身は専門ではなく、あくまで勉強途中なのですが、「身読」ということについて御紹介させていただきました。私もまだこの質問の答えの出せないのが現状で、ここに書いたのは参考意見程度に受け取っておいてください。  法華経系の研究者としては田村芳郎氏、末木文美士氏の二人を推薦いたします。田村氏は法華経の信仰者であり仏教学者としても幅広く研究されておられます、また末木氏の『日蓮入門 現世を撃つ思想』(ちくま新書)などは読みやすくとても参考になりますよ。  それでは失礼いたします。 合掌 南無阿弥陀仏 

myo_ho
質問者

補足

  ご回答ありがとうございます。 「身読」ですか、それはピンときますね。 今のところ、日蓮の著作など詳細について何も調べられておりませんが、この「身読」から私が感じる考え方、もしくは思いつきのイメージですけれど、下に記してみます。 現・法華経は、文章で著されているという限りにおいて、凡夫でも、記されている範疇については認識が可能である。 では、記されている範疇とは何かといえば、妙法=記・法華経が存在するらしいということ、凡夫がその妙法へ至るための修行法、この2点のみである。肝心の妙法そのものの内容については、文章で凡夫に説明できる方法が存在しないため、現・法華経の範疇外となる。 そこで凡夫にとって、妙法=記・法華経の内容を知る唯一の方法としてあるのが、まず現・法華経に記された妙法=記・法華経の存在を信じること、次に現・法華経に記された修行法をそのままに実践すること、となる。これらの修行の結果、凡夫も菩薩へ、菩薩から如来へと成長し、遂には妙法蓮華の花が咲く、という帰結になる。 つまり、現・法華経と記・法華経は表裏一体、そして陰陽あるいは顕密という関係にあり、現・法華経≠記・法華経でもあれば、現・法華経=記・法華経でもある。そのため、それらを総じて、法華経と呼ぶ。 さらに、月の例えで考えてみました。 夜空に浮かぶ月を、現・法華経としてみる。凡夫は誰でも皆その月を観ることができる。しかし地上からでは、その月の裏側=記・法華経を伺い知ることができない。まして凡夫には、知りたいと思う者などいないに等しく、裏側があるということにさえ中々想像が及ばない。 そこへ一人の聖者が現れ、その月の裏側を見たと言い、それはとても素晴らしい世界であると言う。凡夫らはこぞってその聖人を狂人とみなし、排斥を始める。 しかし凡夫のうち僅かな者は、月に裏側があるという話しに魅入られて、聖者に指導を請う。 聖者はそこで、月の裏側を見るに至る困難を思い、当初その凡夫らの要請を断るが、あまりの熱心さに指導を開始する。 それから修行を続ける凡夫らの幾ばくかは脱落、離反するも、聖者を信じ実践を怠らずに努めた者らが、長い歳月をかけ遂に月の裏側を見る時が来る。 修行者の眼前へ月の裏側が如実に現れると、それまで平板と思い込んでいた月は、実のところ球という裏表に境のない立体であり、振り返れば、これも平板だと思い込んでいた自分たちの大地さえ、実は青く輝く美しい巨大な球だったことを知る。 そして周りを見渡せば、太陽を始めとする無数の星々が、全て正確な軌道を描きつつお互いが緻密な関係で結ばれており、宇宙はどこまでも果てしなく続き、それでいて完璧な調和を保っている。 「ああ、これこそ法華経…」 凡夫から菩薩へと成長した者たちが、ここからさらに、如来への道を歩み始める。 こんな感じでいかがでしょうか? 引き続き、よろしくお願い申し上げます。  

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