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国家ってどうしてあるのでしょうか?

国家ってどうしてあるのでしょうか? 人は生まれながらにして、自由で平等であると福沢諭吉さんは言いましたが 現在の社会はそうなっているでしょうか? 人々は様々な法律に縛られ、それを逃れるために抜け道を探します。 また、経済的には貧富の格差はさらに大きくなっていると言えるでしょう。 こんな社会になるんだったら国家などいらないと思う人もいるかもしれません。 また、一応、僕が調べたどうして国家が出来たのかということも述べておきたいと思います。 17世紀にイギリスでは清教徒革命がありましたが、これを経験したトマス・ホップスという人が国家観につて考えました。あるべき国家像を考えるにあたってホップスは人間とは「理性的存在」でも「社会的存在」でも無くて「自己保存を追求する利己的存在」であると捉えたのです。 人間には利己的な欲望を追求する権利があります。しかし、その権利を無制限に認めるならば、ついには互いの権利が衝突し合って「万人の万人に対する戦い」といった事態が起きます。 この事態を回避するためには、人間は自己の権利を放棄して、主権者という一個の人格としての国家にその管理を委ねた方がいいとホップスは考えました。 これが、結構マシな回答だと思ったのですが、他にも意見があったら、教えてください。またこの考えを補強できる考えでもいいです。 よろしくお願いいます。

みんなの回答

noname#123390
noname#123390
回答No.15

前の拙答で設問に対する回答は言い尽くしていると思ったのですが、どうも誤解を招きかねないと思い、貴方の直前の設問への回答というかたちでちょっと付け加えます。 >国家が、これほど事細かに人のやることに介入しなくてもいいのではないか? (もっと、それぞれの人間の自発的判断を信用して、それに任せてもいいのではないか。) 人間は悪をなす動物でもあるということでこの回答にしたいと思います。 人間が蓄積された文化と技術を完全に放棄できるだろうか、退化した人間社会でそういった疑念が払拭できない以上、貧富の差、力の差は現在の比どころではなくなるだろうと思います。 >どうせ国家を作るなら、将来的には地球連邦国家にして地球の人々全体の利益を図る組織にした方がいいのではないか。 国家はどこまでいっても国家なのです。世界連邦だって巨大なひとつの国家なのであって、現状の国家群のなかでの最上の質を達成した国家のレベルが、世界連邦国家として実現できる可能性はあるのでしょうか。それなら世界連邦もまたいいかもしれませんが、私ははなはだ悲観的です。

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質問者

補足

あなたの言う様に、人間は善だけを行う人達ばかりではない。悪を為す人もいるというのはその通りだと思います。なのでわたしは一定の治安を守るための警察の存在や法を監視する司法の存在についてはありだと思います。ただ政策や法律で人を縛りすぎるのは良くないのではないかと思ったのです。私は今の自分が住んでいる日本社会をかんがみたうえでそう思ったのであえて日本社会を例にして前記の理由を述べたいと思います。日本はベンチャー企業が育たないとよく言われますが、これは新しい産業に対して政府が口を出しすぎる。ということがその大きな理由としてとりざたされているのはご存知なのではないでしょうか。日本では何か新しい事をしようとすると、何か出る杭は打たれる的なところがあって、政府がすぐに口を出してきます。結果、ベンチャー企業は自由な経済活動が出来なくて委縮してしまうのです。日本の企業の時価総額TOP10などを見れば分かることですがそこにはベンチャーの名前は一つもありません旧財閥系であったり、政府の息がかかった企業などがほとんどです。そこには昔からの既得権益が脈々の守り続けられており新しい息吹によるベンチャーなど入り込む余地がありません。 一方で日本より企業に自由な活動を許しているアメリカではどうでしょうか。アメリカで、いや世界で最も大きな資産家として成功している人は誰でしょうか?あなたもご存じだと思いますがそれはマイクロコフト社を設立したビル・ゲイツ氏です。その資産額は400億ドルと言われています。アメリカでは新しく産業を興すものでも才能があれば、またその人の努力に応じて、その人を適正に評価し大きな報いをあたえます。アメリカでは速く走れる人の足を引っ張るような制度はあまり存在しません。むしろ速く走れることは素晴らしいことだ。しかし君が速く走ることによって遅い者をも救うことが出来たらもっと素晴らしいと言って、自由に競争することを奨励しています。そこに加わる規制は最小限度です。結果ベンチャーも育ち、世界有数の資産家にまで成り得るのです。日本がアメリカの真似をしなければならないとは言いませんが、もっと新しいことをする人に対して自由に振舞わせてもいいのではないでしょうか。

noname#123390
noname#123390
回答No.14

国家一般に関していえば、よらば大樹の陰ということで、多くの先進国ではかなり理想に近い社会が実現しかかっているように私などは思います。 ごく最近になって、核を含む戦争は悪である、これをなくそうということで大方の世界各国は一致を見たように思います。これもなかなか出来なかったことであり、結構なことだと思っています。 ことに、日本などでは、貧富の差が広がっているというのは間違いないようですが、まだまだ社会は豊かで寛容であり、ホームレスは近代以前から存在していた現象であり、そういった最下層に居続けなければならない人たちにもそれなりの配慮がなされはじめた今、これが更に悪化していくという確実な根拠はないと思いますが、質問者様の見方は相当辛口なのですね。 国家はひとつの有機体であり、国民の生活を保護する自前のなわばりです。国家は必要で、きわめて有益なものだと思います。これを壊すことは出来ません。 かの悪名高い北朝鮮ですら一定の存在理由があるわけで、敵も味方もその国家体制を壊さないように慎重にコントロールしているわけです。

回答No.13

 こんにちは。  人間の生活は 社会における共同自治です。その共同自治のためにそれぞれの民族は 横にも縦にもこの社会のかたちを拡張しました。領土を広げることは措いておきますが 社会をもとの平屋建てのままにしておかないで 二階建ての構造にしたのではないでしょうか。一階は市民の生活圏であり ニ階は公民の棲み処であるようです。  言いかえると 頭がよくてしかもどうしてもお山の大将でいないと生きて行けないという種族が 中にはいた。その勢力によって 第二階がつくられた。あるいは 市民らは この公民志向の民に社会にも神棚をつくってそこに住まわせ好きなようにさせた。   次の歴史観を参照できるはずです。  ▲ (マルクス:ヘーゲル国法論批判) ~~~~~~~~~~~~~~  (α) へーゲルは国家から出発して人間を主体化された国家たらしめるが (β) 民主制は人間から出発して国家を客体化された人間たらしめる。  宗教が人間を創るのではなく 人間が宗教を創るのであったように 体制が国民を創るのではなく 国民が体制を創るのである。  民主制と他のすべての国家形態との間柄は キリスト教と他のすべての宗教との間柄のようなものである。  キリスト教は勝義の宗教 宗教の本質であり 神化された人間が一つの特殊な宗教としてあるあり方である。同様に 民主制はあらゆる国家体制の本質であり 社会化された人間が一つの特殊な国家体制としてあるあり方であり それと他の国家体制との間柄は 類とそれのもろもろの種との間柄のようなものである。ただしかし 民主制においては類がそれ自身 実存するものとして現われる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 初めの一文において じんるいが家族という最小の社会単位体から国家という社会形態にまで拡大する過程についての考え方〔(α)〕と そしてそれ以後の歴史を展望する見方〔(β)〕とが示されています。  (α)が国家の形成とそこにおける共同自治のための発展が前向きに隆盛になる段階を言っており (β)はその後むしろ廃止に向けて やがて後ろ向きに揚棄されていく段階として見ようとしていると考えます。  別の言い方をすれば 《民主制》はだいたい――現代において達成されたものとしては――共通なのですから その中身がさらにこれから変わって行くものと (β)では見ているようです。〔またマルクスはマルクスでこの国家という家の構造を変えて行こうと言おうとしたのでしょう。それには関心がありません〕。  あるいはまたそのマルクスが 《キリスト教は勝義の宗教 宗教の本質であり》うんぬんと言っています。そこで次の観点を添えたいと思います。  ◆ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  ☆ この内容を図式において示したいと思います。ひとつの解釈です。  ☆ (ひとと社会の成り立ちについての図式) ~~~~~~~~~~  光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)  三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)  ________________________________   スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A ) _________________________________  身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)  [S者/S圏]  個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)  社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)  経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )  政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓   [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )   〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ 結論へ飛びますが ムラ(自治態勢=市町村)の段階での――ということは 二階建てをただちに平屋建てに変えないとしても その第一階のスサノヲ市民社会の場において―― 分立した三権が総合的に協業していけばよいと考えます。つまり 国家ないしアマテラス圏は背景へしりぞくでしょう。

回答No.12

 何故、という意識と目的性、そして理論性は個々の人間にも人間集団にもなくして歴史のプロセスと結果として出現してきたという状況ですね。  孔子も、中国の故事である、尭舜の統治の理想論も市民革命の綱領や社会主義も後付けや正当化の理論ないしは革命のための主張ですね。  そしてご回答の多く挙げられている事柄も、結果としてもたらされた、効果やいいことなどがありますね。    何故あるか?一面あるから、ある。その中でいきている、事実がある。ということでしょうね。  人間の歩みという、結果事実であり、その歩みの中にたくさんの生活、事情、状況、そして主張や理念の相克があって、それらの実現も、ゆがみながらも多面的に現出してきた。  これからもそうなんでしょうね。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.11

#7です。 >国家が、これほど事細かに人のやることに介入しなくてもいいのではないか? (もっと、それぞれの人間の自発的判断を信用して、それに任せてもいいのではないか。) これは、まさにアメリカの大企業たちが大喜びする資本自由主義の典型的な主張ですね。いわゆる、神の見えざる手にまかせようと言う主張です。アメリカの企業は政治家達を買収して、企業の営みを国家が規制するのではなく、それぞれの人間の自発的判断に任せるべきであるとの主張のもとに、銀行取引に対する規制を緩め、今回の世界的経済危機を招きましたね。また、国民健康保険に対しても国家の介入を許さずに人々の自由な企業努力にまかせるべきであるということで、公的健康保険制度を認めない保険改革を、オバマ大統領がつい最近通しましたね。その結果、アメリカの健康保険会社の株が上がり、保険会社は胸を撫で下ろしましたね。貴方の頭の中にある理想的な人間はどう振る舞うか知りませんが、生身の人間に対しては、それぞれの人間の自発的判断を信用して、それに任せてたらとんでもないことになることを、近年の人類の歴史は教えているようです。 >どうせ国家を作るなら、将来的には地球連邦国家にして地球の人々全体の利益を図る組織にした方がいいのではないか。 人類の歴史を振り返っても、生物の歴史を振り返っても、そこから教わることは、進化とは各々の文化がそれぞれの個性を造り上げ、分化し特殊化して来た方向に向いているのであり、その反対に統一化は退化です。質問者さんは、考古学者達が、旧石器時代と新石器時代とを区別しているのはご存知でしょう。数百万年続いた旧石器時代では、地球のどの地域から出て来る石器も大体同じ形をしていて、統一化均質化しており、地方性がない。ところが、十万年から数万年前に人類に何かが起こったらしく、各地域から出て来る石器に個性が出て来て、例えば中国から出て来る石器は、アフリカの物と全然違っている。人類はこの時代に、統一性から地方性へという巨大な一歩を踏み出し、各文化は個性という多様性を手に入れ始めたのです。生物の進化も同じで、進化の方向は各種の個性への分化による多様化を生み出す方向に進んで来たのです。それに対して、ある突出した種による統ー化は、生物の進化に逆行した退化なのです。現在の人類は、便利さや刹那の享楽という動物的な満足度が露骨に喧伝されている余り、価値観の多様性が失われ、皆横並びのグローバリゼイションと言う退化の方向に向いていることを私は危惧しております。その行き着く先が、価値観の統一化のもとでの世界連邦国家と言う形態でしょう。 しかし、心配は要りません。人間の歴史を虚心坦懐に調べ、その教訓を学べる人間の中には、そのような絵空事を実行して人々を後悔と不幸のどん底に陥れるような連中は居りませんから。マキュアベリを思い出して下さい。我々が理想像を画きたいなら、人間はどうあるべきかを論じる前に、先ず、生身の人間は実際にどのように行動して来たのかを歴史の中から学ぶ必要があります。そして、人間とは何かを理解した上で、では我々には何が出来るかを論じるべきです。いきなりの絵空事は未熟だと言うばかりでなく、人々を不幸のどん底に陥れてしまうので、危険なのです。 >人間は様々な歴史を通して人権というものを所得出来るようになりました。これは封建時代には考えられなかったことではないでしょうか。 この認識を見ても質問者さんは歴史から重要なことを学んでいないように見えます。ここ2千年の人類の歴史で、2つの例外を除いて封建制度を採用していた地域はありません。その例外とは、中世の西ヨーロッパと日本の幕府制度だけです。後の地域はすべて中央集権制度でした。封建制度とは各地方に豪族や王がいて、その王の王を豪族達の同意で選び出す制度です。その制度では、少なくとも各豪族には「土地」という、自分の物であると主張できる物がありました。すなわち、私有財産があるのです。中央集権制度下では全ての物がたった一人の王に属しているので、私有財産なる概念が生まれて来るはずがありません。 人類の歴史を振り返ると、この概念の重要さに気付いた国は、必ずそれを憲法の中に成文化して来ました。人類史の中でそれを最初に成文化したのは日本の貞永式目で、その概念を「本領安堵」と言う言葉で表現しました。ヨーロッパでそれを成文化したのは、それより数百年後です。そして私有財産の保証が、全ての人権の根底をなして来たのです。この概念があったから、例えばヨーロッパでも「人権」なる概念が明確になって来たのです。人類の歴史は、封建制度が人権の概念の生みの親であることを示しているのです。絵空事を語る前に、人類の歴史を振り返って、質問者さんも自分達人間が何であるかを知る必要があるようです。

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質問者

補足

>国家が、これほど事細かに人のやることに介入しなくてもいいのではないか? という質問にあなたは外国であるアメリカを引き合いに出して、その失敗について説きましたが、 私は、身近な日本を例に挙げて、政府が上記の事をやって失敗した例について述べたいと思います。 例えば、一昔前の銀行などの不良債権問題などは政府が生み出した規制による負の遺産だと言えるでしょう。 政府は銀行などの金融機関のサービスに口を出し、リスクがあるサービスが出来ないようにしました。 結果、銀行は自分たち独自のサービスを打ち出す事が出来なくなり、日本の銀行は護送船団方式を取らざるを得ませんでした。しかし、その結果はどうだったでしょうか?バブルがはじけたとき銀行はその余波を吸収しきれずに大量の不良債権を出しました。この例は政府が銀行を信用せずにサービスを抑制して失敗した例です。投資というもにはリスクが付き物なのです。何もリスクを取らずに額に汗をかかずして儲けようなんて旨い話があるわけがありません。金融機関は正直に、その事を出資者に説明し自己責任のもと投資を促す必要があるのです。このような場合に行き過ぎた規制は逆に足かせになるのです。先にも述べたように、投資に伴うすべての情報を明らかにしそれぞれの人達が自己責任のもとに大人の判断をすることによって経済活動というものは行われるべきなのです。 >どうせ国家を作るなら、将来的には地球連邦国家にして地球の人々全体の利益を図る組織にした方がいいのではないか。 この質問に対してあなたは歴史を振り返っても、そこから教わることは、進化とは各々の文化がそれぞれの個性を造り上げ、分化し特殊化して来た方向に向いているのであり、その反対に統一化は退化です。と述べていますが、私はまったく逆の意見です。大昔人々が狩猟採集をしていた時代、人々は各々が個別に暮らしていて独自の生活を送っていました。しかし農耕文化の発明により富の蓄積が出来るようになり貧富の差が生まれ、集団の方が生産活動に有利だということもあり、人々はコミュニティーを作るようになったのです。つまり統治機関というものは人間の歴史を通し、文明が発展すれば発展するほど大きなものを持つようになってきました。このことから地球連邦国家とは人間の持つコミュニティーのなかで究極の進化した社会でしょう。そこでは個別の国に偏った政策を行う必要無く人類全体の利益の為の公正な政治がおこなわれることに弊害はありません。 >人間は様々な歴史を通して人権というものを所得出来るようになりました。これは封建時代には考えられなかったことではないでしょうか。 この事に関してもあなたは独自の論を唱えていますが、話がまったくかみ合っていません。大体、封建制度とはどんなものかということもご存じでは無いのではないでしょうか?封建制度とは君主が領主などに土地を分け与えてそこを統治させることです。そこでは個人の自由を考えられずに上から権力で下のものを押さえつけていました。このような社会は古代インドのカースト制や、一時期の中国など世界のいたるところで用いられていました。あなたこそ、歴史のなんたるかを基本から学びなおす必要があると思います。 また、あなたの人を見下しているかのような上から目線の物言いには辟易をさせられます。 あなたのような、薄識なくせに高慢ちきな人もこの世の中には存在するのですね。 まったくもって腹立たしいことです。

回答No.10

#8です。 道北の広い大地で牧場を経営しているのも先進国日本の人だし、 キンサシャで売春宿を経営しているのもアフリカの途上国の人間でしょう。 質問者さんの論調を見ると、 日本人=都会でギスギスした生活を送っている アフリカ人=大自然で平和な生活を送っている などというような先入観と偏見をおもちのように見えます。 国家の論議がいつの間にか「都会のネズミと田舎のネズミのお話」に変わっちゃった。

000705
質問者

補足

確かにそうですね。 今までの論議により、僕の願っいる事がより鮮明になってきたので、 質問内容をもっと具体的にしたいと思います。 国家が、これほど事細かに人のやることに介入しなくてもいいのではないか? (もっと、それぞれの人間の自発的判断を信用して、それに任せてもいいのではないか。) どうせ国家を作るなら、将来的には地球連邦国家にして地球の人々全体の利益を図る組織にした方がいいのではないか。 上記の2点に絞りたいと思います。

回答No.9

>どうせ国家を作るなら地球連邦国家という一つの統治機関にして地球から 戦いというものを一掃してしまえばいいのにという考えです。 →私もそれが理想的だと思います。 なのですが、そう考えるのは裕福な国にいるからだと思います。 動物の世界では弱肉強食で、弱いものを食べることで生存が可能になります。 動物全員が、老衰するまで幸せに生きられる、ということはあり得ません。 人間だけが例外、ということは無いと思います。 非常に残念ながら、世界には人類全員分の食料や仕事はありません。 貧困国では餓死している人がたくさんいます。 例えば、000705さんは100円ショップや激安店で買い物をしませんか? あるとすると、 日本人が安いものばかり買う→店は品物をより安く仕入れなければいけない →後進国から安く買いたたく→後進国の労働者の給料が減る→余計に貧しくなる というように間接的に貧困国の人から搾取していることになります。 アフリカでカカオを採っている人は貧しくてチョコレートなんて食べたことが ないと聞くし。 悲しいことですが、貧しい人達がいるおかげで私達が裕福に暮らせています。 国家というのは、その単位で自分たちだけの幸せを確保しようとするための集団。 世界平和に協力はするけれど、自国の幸福を優先する。 というのが私の思う国家です。 私も世界の人類みんなが幸福になれればいいとは思いますが。。。

000705
質問者

補足

国家というものは国民の生命、財産、自由を守るために存在するというのは大原則ですよね。 言い換えれば、それぞれの国は自分たちの国の国益の為に動いているのでしょう。 また、ある意味、国が他の国の人々を利用しているので私たちが豊かに暮らしていけるのでしょう。 でも、本当にそれでいいのでしょうか?私たちがもし利用される立場にいたらどうでしょうか? カントと言う哲学者はこう言っています。もし、あなたがする事を他のだれもがしてもいい場合だけあなたの行動は正当なものだ。そういう意味で他の人を不当に利用して生きていく様は正しい行いではありません。あなただって逆の立場だったらそう思うはずです。 人間は様々な歴史を通して人権というものを所得出来るようになりました。これは封建時代には考えられなかったことではないでしょうか。人権だって所得できた人間です。長いスパンでは連邦国家だって実現出来るのではないでしょうか?

回答No.8

#4です。 >僕はアフリカの発展途上国(中略)、精神的には日本人よりはるかに有意義にくらしている これは強烈かつ独創的な発想ですね。 若いうちにアフリカの発展途上国かエスキモーを訪問し、彼らが精神的に日本人よろいも有意義に暮らしているか否か、ご自分の目で確認された方が良いですよ。 哲学的思索は事実誤認の上に構築するととんでもなく危険となるリスクがありますので。

000705
質問者

補足

僕は実際にアフリカの発展途上国には行った事は無いですが、そこに実際に行った人の話をもとに話しています。人はそこに行かなくても実際に行った人の体験を聞くことによってそこの生活がどんなものか知ることが出来ます。(でも、状況が許すならば行ってみたいと思ってます。) 僕が発展途上国の人達が有意義に暮らしているといった意味は、それらの人は日本人より素朴に、自分の心をごまかすことなく暮らしているという意味です。都会の人間は、自分たちの社会に順応して生きるために分厚いペルソナをかぶり、自分に咎が及ばないように必死に自分の感情を押し殺して暮らしています。僕も東京で働いていたときはそうでした。あなただって政治家の無表情な顔を見れば分かるでしょう? そういった人々よりも発展途上国の人達は精神的に豊かな生活をしていると思ったのです。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.7

マキュアベリがなぜ政治学の父と呼ばれているのか、質問者さんはご存知ですか。彼以前の人達は政治とはどうあるべきかを語っていたのですが、彼は、現実に存在する我々人間達は政治に関して実際にはどうあるのかを最初に語った者とされているからです。 その立場から考えると、 >どうせ国家を作るなら地球連邦国家という一つの統治機関にして地球から戦いというものを一掃してしまえばいいのにという考えです。中途半端な大きさにするから戦いなんかが起こるんじゃないかということです。 と言う言葉が学問的に何れだけ意味のある言述であるのか、疑問に感じます。 現在存在する世界中の国家を調べてみると、上位20%の者が富の80%を支配するような社会は例外的に平等な国です。ところが、こんな平等な国から地球連邦国家の指導者が選ばれるのは、現在では絶望的でしょう。それに対して上位3%の者が富の90%以上を支配するアメリカ人がこの地球連邦国家の指導者に選ばれる可能性は、絶大どころか必然でしょう。アメリカでは90%以上の人達はキリスト教徒であり、人口の50%以上が毎週教会に行くキリスト教原理主義国家であることは質問者さんもご存知でしょう。その結果アメリカ人の80%近くの人達は現在でもダーウインの進化論を疑問視しており、神による創造説を信じていると言う統計結果が出ています。現在、ラシュ・リンボー、ビル・オライリー、ショーン・ヘネティー、ローラ・イングラム、アン・カルター等々の人気者のコメンテーター達がアメリカで最も視聴者の多いフォックス・ニュース系の番組でアメリカ至上主義を連日訴えており、アメリカ人一人の命はイラク人数十人の命に匹敵するなどと捲し立てていましす。 私は、頭の中だけで思いつく架空な人間ではなくてこのような現実の人間達の振る舞いを見ていると、そんな世界連邦国家で、文化も歴史も価値観も違う指導者に、ああせい、こおせいなどと言われるのは嫌ですね。たとえ小さな一国でも、自分と同じ文化と価値観を共有できる指導者のいる国で生活したいです。

000705
質問者

補足

なるほど、あなたの言う様にアメリカは地球連邦国家としての最も指導的立場のまたアメリカ至上主義を掲げている国かもしれません。しかし、私はアメリカには地球連邦国家の一員であってほしいと思いますが、そのリーダーにはなってほしいと思いません。大体、一超大国のための連邦国家では何の意味も無いのです。世界のどの地域の人にとっても公平な組織で合ってもらわなくては意味がない。 また、この構想事態が現段階でどれほど、実現困難な事を言っているかも分かっているつもりです。しかし、長いスパンではそういう組織が地球に出来てもおかしくないと思っています。今までだって、様々な困難を克服して人間はより良い方向を模索し実現してきたのですから、これからだってそうするはずです。 あなたのいう自分の価値観に合った人たちと仲良くしていきたいという考えも分かります。でもグローバル化による流れはそれと相反するものでは無いのではないでしょうか?私たちの民族性を大事にしながらでも世界各国の人達と仲良くする道があってもいいはずです。

回答No.6

生命は、物質の持つエントロピー増大による崩壊の方向性を淘汰とし、 増殖によって存続し進化する連鎖反応系です。 その「連鎖」は、かつては細胞単位であり、次いで細胞同士の組織化 により多細胞生物(個体単位)となり、太古においてはファミリー~ 集落が生存単位でした。 日本でも戦国時代以前は、いちおう国家としての形骸はあったが、 実際は県(藩)単位で戦争しており、国益よりも県益の方が市民の 利益に重要なものだったのです。 即ち、進化とは、「単位>相互作用>組織化>上位現象単位化」の くり返しであり、近代化においてようやく国家が生存単位(戦争単位) となり、さらに現在の情報・分業・流通のグローバル化により、 形骸化しつつある(政治(家の頭の中)だけが遅れている)ものです。 今、「東京が本社経済で潤っている」からといって、静岡が東京を 攻める、などということが考えられるでしょうか? 人が、正しく現実を把握できるならば、国境も形骸化し(“地方”自治 の単位に過ぎなくなり)、自動的にグローバル化するでしょう。

000705
質問者

補足

現代社会を熱力学の法則と結び付ける発想力には驚嘆させられました。 しかし、実際起こっている事はそうかもしれませんね。 一刻も早くグローバル化して国境など無くなって無益な紛争などが無くなって欲しいです。

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     1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに価値判断すると アマテラス人格語として――ということは 倫理学として・また倫理規範として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. そこでは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語》のしかるべき有効な二層構造化 これを果たそうとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において人間である。自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家の人間化 ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語を回復させるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちは その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっているのではないか? あやまちをまぬかれる人間はいないのに。  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここからアマアガリして 抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちは のこったとしても実質的に 国家をそして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?

  • 《人間を国家的に》から《国家を人間的に》へ

     1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。(あやまつは人のつね)。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。(主観内容を共有しうる普遍概念の抽出)。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに良し悪しの価値判断をおこなうと 科学語はアマテラス人格語として――ということは 道徳や倫理規範の問題として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。(口先だけではダメでしょうが そこは誰しもおんなじ)。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるようにさせるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. それは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語 》の二層構造のしかるべき有効な使いこなし これを実現しようとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において―― A 語公民性の幅と深さを持ってこそ――人間である。それが 人間の自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家をこんどは人間化すること ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語をも回復せしめるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちが その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっていると見られるから。あやまちをまぬかれる人間はいないのに。アマテラス的な あまりにもアマテラス的な姿を呈するようになってしまたのではないか?  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここから飛翔し人びとを措いて単独にアマアガリして その抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちは のこったとしても実質的に 国家をそして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか いまの課題は。インタムライズム。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?  15. 天皇 安倍晋三 シーチンピン パククネ バラクオバマ ・・・が 究極の《スサノヲ市民 - アマテラス公民》のしかるべき秩序構造化した《にんげん》でしょうか?   17. 人間の人間化の道は まだ終わっていないでしょうか? お考えをお寄せください。

  • 私立高校に日教組はいるのか?

    僕の通っている高校は私立なのですが、社会の先生にやたらと自虐史観について話したり社会主義について書かれた本を勧めてきたりする先生がいます。例えば福沢諭吉の脱亜論について「福沢諭吉は賢い人でしたが、日本がアジアを侵略することについて肯定していました。非常に残念です。」 とか、「かつての日本は帝国主義でアジアを侵略していました。」などといったことを話してきます。 別に学校外ならその先生がどういう思想なのかは自由ですが、授業中にそういう話をされると迷惑だし、みんながその先生の話を鵜呑みにしてしますとまずいと思います。 ここで質問なのですが、日教組というのは私立学校にもいるのでしょうか? それともその先生がもともとそういう思想なのでしょうか?

  • 第24回社会福祉士国家試験 試験問題

    第24回(平成23年度)社会福祉士国家試験 試験問題を勉強中なのですが、分からないところがあるので教えてください。 問題15 法と社会、そこに成立する秩序との関係に関する次の記述のうち、適切なものを一つ選びなさい。 1 形式的に正しい手続きによって定められた規則による支配が合法的支配であり、この支配においては命令者の合理的利害に沿って規則が再編されていく。 2 法律家は、弱きを助け強気をくじくリーガルマインドという共通の正義感を身につけており、それを共有する連帯意識によって明確な社会層をなしている。 3 法治国家においても、個人の権利が不当に侵害された場合、まずは市民自身が強制力を行使して自力救済の努力をすることが望ましいと考えられている。 4 人々の私的利益の追求は利害対立を生み、万人の万人に対する闘争状態が予想されるなかで、社会秩序がなぜ可能となるのかを問うことをホッブズ問題という。 5 非ゼロサムゲームでは、ある行為者が利益を得ても他の行為者が損失を被るとは限らないので、損失を負わせるべく行為者間には対抗関係が生じていく。 正解が4番であることは分かるのですが、他の記述のどこが間違っているのか分かりません。 なるべく詳しく分かるかたがいましたら教えてください。お願いします。

  • 《人間を国家(公)的に》から《国家を人間的に》へ

     姉妹質問です。互いが互いにとって分かりやすくなれば さいわいです。  ここの主題は 《人間化》です。  1. われわれのしゃべる日常の言葉は あやまちうるスサノヲ人間語です。(あやまつは人のつね)。    2. そこから普遍的な要素を抽出し 抽象的になったかたちではあるが あやまたない内容を表わそうとするのが アマテラス科学語です。(主観内容を共有しうる普遍概念の抽出)。  3. 抽象した要素としての言葉は 概念となりますが この概念を用いてさらに良し悪しの価値判断をおこなうと 科学語はアマテラス人格語として――ということは 道徳や倫理規範の問題として――捉えられて来ます。  4. スサノヲ市民たる人間が これら科学語および人格語たるアマテラス普遍語を使いこなすようになること。これが 《人間化》だと考えられます。(口先だけではダメでしょうが そこは誰しもおんなじ)。    5. さてこの人間の人間化をめぐっては 社会として・その形態としては 《国家にあってこそ初めて成し遂げられる》といった見解が出されています。  6. それは A (アマテラス)語をもっぱら駆使することが出来るアマテラス公民を 言わば社会の第二階に住まわせてそこから いまの S (スサノヲ)語にアマテラス語を採り入れるようにさせるという人間化を政策的にも実現させようとするいとなみであるようです。  7. それは スサノヲ市民のアマテラス公民化 または 《 S 語 ‐ A 語 》の二層構造のしかるべき有効な使いこなし これを実現しようとする人間の志向性であるように考えられます。  8. 《ひとは国家において―― A 語公民性の幅と深さを持ってこそ――人間である。それが 人間の自由である》のだとか。  9. けれども 現代の課題は――昔からの志向性をさらに伸ばして行くかたちとしての歴史的な課題は―― この国家をこんどは人間化すること ではないでしょうか?  10. お二階のアマテラス公民をして その人間存在としていかに土臭きスサノヲ人間語をも回復せしめるか?  ではないだろうか。  11. なぜなら アマテラス普遍語は いかに社会秩序を保つという統治のためとは言え お二階さんたちが その《我が家》であるアマテラストゥーム( das Amaterasutum )の名誉や面子を重んじるあまり 《あやまちの無さ》だけを強く声高く言い張るようになっていると見られるから。あやまちをまぬかれる人間はいないのに。アマテラス的な あまりにもアマテラス的な姿を呈するようになってしまたのではないか?  12. 人間は しょせん スサノヲシャフト( die Susanowoschaft )なる大地の住民である。なぜここから飛翔し人びとを措いて単独にアマアガリして その抽象性の世界に閉じ籠るのか?  13. 二階建て構造のかたちはのこったとしても実質的な内容としては 国家をして・そして A 圏公民をしてスサノヲ人間語の回復を得さしめること。《国家を人間的に》 ではないか いまの課題は。  13-1. インタムライズム。公(A語)は 私(S語)の内に自然なかたちでおさめられてこそ 生きる。ムラ(市町村=S圏)が 主権をすでに理論的に持つのだからこれを実践して行くこと。  14. それとも 究極のアマアガリとしての《アマテラス公民からさらに抽象化をおこなった象徴たるアマテラシテ( das Amaterasität; amatérasité; amaterasity )をになう人》のすがた これが 《人間化》のあり方であると言えましょうか どうでしょうか?  15. 天皇 安倍晋三 シーチンピン パククネ バラクオバマ ・・・が 究極の《スサノヲ市民 - アマテラス公民》のしかるべき秩序構造化した《にんげん》でしょうか?   17. 人間の人間化の道は まだ終わっていないでしょうか? お考えをお寄せください。

  • 国家をなくすという考え

    国家という存在に異議をとなえる人たちがいます。 国家を揚棄するという表現をする人もいるようです。 共産主義思想の残党の方々の遠吠えばかりでもなく、わりとまじめに主張される場合もあるようです。 しかしその中身はさっぱりイメージがわかりません。そこに至る具体的な道筋も示されません。 言葉とおぼろげなイメージがあるばかりです。 どなたか、国家を「揚棄」した社会のイメージをはっきりと具体的に教えて戴けませんか。 あわせて、なぜそうすべきなのか、そこに至る道筋はどう描かれているのか。できればその辺も教えてください。 「ナンセンス」「革命世代の残滓」など批判だけの回答は、ごもっとなご感想だとおもいますが、ここではご遠慮下さいますようお願いします。