• 締切済み

国家ってどうしてあるのでしょうか?

国家ってどうしてあるのでしょうか? 人は生まれながらにして、自由で平等であると福沢諭吉さんは言いましたが 現在の社会はそうなっているでしょうか? 人々は様々な法律に縛られ、それを逃れるために抜け道を探します。 また、経済的には貧富の格差はさらに大きくなっていると言えるでしょう。 こんな社会になるんだったら国家などいらないと思う人もいるかもしれません。 また、一応、僕が調べたどうして国家が出来たのかということも述べておきたいと思います。 17世紀にイギリスでは清教徒革命がありましたが、これを経験したトマス・ホップスという人が国家観につて考えました。あるべき国家像を考えるにあたってホップスは人間とは「理性的存在」でも「社会的存在」でも無くて「自己保存を追求する利己的存在」であると捉えたのです。 人間には利己的な欲望を追求する権利があります。しかし、その権利を無制限に認めるならば、ついには互いの権利が衝突し合って「万人の万人に対する戦い」といった事態が起きます。 この事態を回避するためには、人間は自己の権利を放棄して、主権者という一個の人格としての国家にその管理を委ねた方がいいとホップスは考えました。 これが、結構マシな回答だと思ったのですが、他にも意見があったら、教えてください。またこの考えを補強できる考えでもいいです。 よろしくお願いいます。

みんなの回答

  • tpg0
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回答No.5

ANo1です。地球連邦を目指してるのがアメリカではないでしょうか? アメリカのような多民族国家では全ての人種が集まってます。 ヨーロッパ諸国の白人達が先住民族を迫害し、アフリカから連れて来た黒人を奴隷として働かせ造り上げた国家がアメリカです。 彼らは民主主義を日本に押し付けて、イスラム国家にも押し付けようとしてます。 そのアメリカが平等な国家でしょうか? 私は無宗教ですが、宗教の違いや思想は自由だと思います。 人それぞれの思想や宗教の違いがある時点で平等ではないのです。 アナタは学生さんでしょうか? いずれ、会社組織が国家の縮図だと分かる日が来ると思います。 そして、矛盾を感じ社風がアナタに合わないと思った時にどうしましょう? 定年退職まで我慢するか転職するかの選択肢になるはずです。 思想の矛盾を感じ他国に亡命した政治家や文化人はたくさんいますが、地球連邦になったら、その選択肢さえ奪われる事になりますから平等とは言えないですね?

000705
質問者

補足

アメリカが自分たちの考えを他国に押し付けているというのは僕も分かる気がします。 アメリカがイラク戦争をしたときに、アフリカに民主主義を浸透させる為にもこの戦いは必要だと言ったアメリカ人をテレビで見ました。しかしこれはアメリカの一方的な見方でアフリカ諸国の自主的な判断を全く尊重していない発言だと思いました。またアフリカの民主化がアフリカの為だとしても、それはアフリカ民族の自主的な考えとして成されるべきで、アメリカによる武力行使での政権打倒は、そのプロセスとしてまったくおかしいと思う。そういう意味でアメリカという国の連邦国家は僕はまったく支持しません。できれば国際連合とか、もっと色んな国々がフェアに発言できる(実際は拒否権などもあって、全く公平ではないが)連邦国家があったらいいと思う。 社会に出れば色んな人がいるでしょうね。また平等でも無いかもしれません。私たちは、それらを是正するためのはたらきを国家に求めるのは間違いでしょうか?そこで生きていく処世術でも身につけていくしか無いのでしょうか?

回答No.4

哲学の命題としては、個の利益の最適化と集団による利益の最大化という命題になると思います。 人間が個として自給自足するだけでは、高度な文化・文明は作れなかったでしょう。 集団を形成して分業することにより、あるものは食糧を生産し、あるものは自然災害からの防御や復旧を担当し、また有るものは科学や医学の発展に貢献するなどして、文化や文明を発展させてきた。 集団で発展させた文化や文明の恩恵は個に還元されて、自給自足の生活よりも便利で、快適で、長寿を享受することができるようになった。 一方、集団が大きくなればなるほど、その集団の統治が重要になり、法律の制定や法の順守のための権力機構が必要となった。 沖縄の米軍基地問題などはまさに国家全体としての選択と、沖縄県人と言う部分集合の利益が相反している事例ですね。 仮説として、すべての人間が上等になれば、国家の統治は緩めても集団・分業の利益を維持することができるでしょう。いまのところ、人間がそこまで上等でないから、あるいはそこまで上等でない人間が居るから、国家権力に統治を委ねるという中間解として国家を維持しなければならない訳です。 アメリカ大陸と言う肥沃な大陸を占有している集団と、アフリカ大陸と言う不毛な大地で生きなければならない集団の利害調整をどうするかなど、問題はたくさんありますが、理想形としてはすべての人間が住む場所を自由に選ぶことができるほうが良いですよね。 人間がそこまで上等な考えに達し、日々の利害得失の議論を超越することができる日が来るか、あと数百年かけてみないと分からないですが、欧州各国がEUという超国家組織で団結・協力しようという例もありますから、私は楽観的です。

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質問者

補足

文明・文化の発展の為に国家は有用であった。 また集団の維持のためのものだという事ですね。 しかし、議論を発展させる為に言いますが、僕はアフリカの発展途上国のような、またはエスキモーのような国家の統制が日本よりはるかに緩い国にも魅力を感じます。それらの国は日本の人々よりはるかに貧しいかもしれませんか、自然と一体になって暮らしている。また家族や部族が支え合い、助け合って暮らしている。そこには心のつながりがあり、精神的には日本人よりはるかに有意義に暮らしている気もします。 それらの国の人は上層教育は受けてないかもしれませんが、感情を素直に出して何の咎も受けない。ある意味自由闊達に暮らしている。そういう社会に暮らしてみたい気もします。 そういう国の人たちは日本人より劣っているのであろうか?また優れているのであろうか?人間がある人間より優れている。また劣っているというのは、他方からの一方的な見方ではないのか。 ちょっと横道にそれましたが、少し自分の考えが分かってきた気がしました。僕は今の生活よりもっと素朴で人間味がある生活に憧れを持っているのかもしれません。

回答No.3

>経済的には貧富の格差はさらに大きくなっていると言えるでしょう。 素晴らしい、指摘ですね。今の日本では、国家を正当化しようとする国家観の情報があふれています。 現在の国家は国民の利益を守り、国民のために国家があると思わされています。 本当でしょうか。国家はなわばりであり、一部の人の利益があたかも共有の利益だと思わさせるために国家があるのです。 国家が存続して楽になっている人がいます。楽になる人を合法的に認め、それを認めさせ、それを維持させる機関を作っています。国家は暴力装置ともいえます。 日本がアメリカ合衆国やロシアになろうと、多くの国民には関係ないのです。多くの国民は一部の人のために働いているからです。征服されるとは、その一部の人が変わるだけです。 アメリカの奴隷解放とは、奴隷によって利益をあげているのが分かるので、だれが利益を上げているか分からないようにするために解放したと見てもいいでしょうね。 はっきりいえば、国民が奴隷で?ないかのように思わせるために国家が作られた。

000705
質問者

補足

んー。確かに一部の人が甘い汁を吸って、多くの人がその人の楽しみのために奉仕しているという見方も出来ると思います。しかし、それではあまりにも安直というか、この社会対する愛着も湧かない気がする・・・。そういう事例は一部であってほしいし、全体的には国家は公正にその仕事をやってもらいたい。そのために三権分立や司法などもあるわけだろうし・・・。 どんなことをやっても完全ということはあり得ないと思う、でも国家が国民全体の利益のために存在するならば一部の人たちの利益よりも、全体的な幸福の追求を考えて欲しいです。

  • ww555ww
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回答No.2

人間には誰にでも慾が存在をしていると思います、そして、個人個人でその慾は異なります。 ですが、そのほとんどの場合が、無い物ねだりというのが現実だとも思います。 1人1人が個人的な慾を持っているのであれば、それをある程度は規制をして行かないと集団的な行動は何も出来なくなってしまいますよね? ヤクザにでさえもルールがあるのですから。 歴史は繰り返すという言葉があります、17世紀の頃の人達も、それまでの過去の歴史から学んで、その当時の考えられる最善の方法を模索したのでしょう。 それは、今の現在社会においても受け継がれている部分が多いとも思います。 自分で何かの物を作っているとしたら、今度はその物を売る人が必要になって来ます、そしてその物を買ってくれる人がいます。 自分1人だけではなくて、この世の中にはたくさんの人が今を生きていますから、どうしても、統一されたルールが必要になって来ます、それが法律ということなのでしょう。 そして、道路や病院などの、皆が使う公共の場所を管理するのが国という大きな組織の仕事になっていることと思います。 動物の社会では、何のルールもありませんから、弱肉強食になってしまうのも当然の結果でしょうね。 そうにはならない為のルールだと思います、人間も動物の1種ですからね、もともとは。(笑) 福沢さんの言葉は理想論だと思います、確かに、生まれて来る時期や死んで行く時期だけは自分で選択が出来ませんから、それだけは平等ですよね。 但し、この世界を見れば、生まれて来た時からすでに障害を持って生まれてくる人もいれば、富裕層のごくごく1部の限られた家庭に生まれてくる人もいます。 その時点で、すでに平等ではなくなってしまっているのです。 理想と現実とでは、かなりの大きな差があるのです、それが現実の世の中だと思います。 自分自身に出来ることには努力をして行くということが私は1番大切な事柄だと思います。 そして、それが自分に出来る全てだとも思います。 他人と比較をして生きて行くのではなくて、自分自身が生きて行くという感覚が大切だと思います。

000705
質問者

補足

なるほど、一人一人の持っている権利の衝突を防ぐため、また公共の仕事をこなすために国家が存在するとあなたは考えているのですね。あなたの意見は説得力があると思います。でも人間が暮らしていくのにやっぱり国家あったほうがいいのかな?弱肉強食ではいけないのかな?今も結構弱肉強食的な社会なような気もするけど・・・。でも人々の生活が安定するには一定のルールも必要な気もしますね。その方が全体の利益につながる気もするし。少し分かった気もします。 平等ではないというのは分かる気がします。でも社会には競争をしたくないという人もいるのではないですか?必要以上の努力もしないでのんびり暮らしたいと思う人だっていると思います。そのように思う人の人権だって尊重されるべきだと思うのは僕だけでしょうか?とかく今の社会は世知辛い気がします。

  • tpg0
  • ベストアンサー率31% (3785/11964)
回答No.1

なぜ国家が必要かは、他国の歴史を遡る事をせずとも、日本の戦国時代の様子を思い浮かべるだけで充分です。 天下泰平の為に国家が必要なのです。 人は生まれながらに平等ではないのです。 平等なら人は努力精進する事を忘れ堕落するだけです。

000705
質問者

補足

一つの国家があればその統治機関を通して、戦いから逃れられる事が出来るということは私も分かります。しかし、その考えを突き詰めていくと一つの疑問にぶち当たるです。どうせ国家を作るなら地球連邦国家という一つの統治機関にして地球から戦いというものを一掃してしまえばいいのにという考えです。中途半端な大きさにするから戦いなんかが起こるんじゃないかということです。 また、完全な平等が社会に実現できないのも分かります。生徒や学校が受験によって選んだり選ばれたりするのは完全な平等ではないですよね。経済だって自由競争があるからここまで繁栄を享受できたのだとする考えもあるみたいです。でも今のような社会、つまり上位20%の者が富の80%を支配するような社会はいびつな社会だとも思います。

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