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国家ってどうしてあるのでしょうか?

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.13

 こんにちは。  人間の生活は 社会における共同自治です。その共同自治のためにそれぞれの民族は 横にも縦にもこの社会のかたちを拡張しました。領土を広げることは措いておきますが 社会をもとの平屋建てのままにしておかないで 二階建ての構造にしたのではないでしょうか。一階は市民の生活圏であり ニ階は公民の棲み処であるようです。  言いかえると 頭がよくてしかもどうしてもお山の大将でいないと生きて行けないという種族が 中にはいた。その勢力によって 第二階がつくられた。あるいは 市民らは この公民志向の民に社会にも神棚をつくってそこに住まわせ好きなようにさせた。   次の歴史観を参照できるはずです。  ▲ (マルクス:ヘーゲル国法論批判) ~~~~~~~~~~~~~~  (α) へーゲルは国家から出発して人間を主体化された国家たらしめるが (β) 民主制は人間から出発して国家を客体化された人間たらしめる。  宗教が人間を創るのではなく 人間が宗教を創るのであったように 体制が国民を創るのではなく 国民が体制を創るのである。  民主制と他のすべての国家形態との間柄は キリスト教と他のすべての宗教との間柄のようなものである。  キリスト教は勝義の宗教 宗教の本質であり 神化された人間が一つの特殊な宗教としてあるあり方である。同様に 民主制はあらゆる国家体制の本質であり 社会化された人間が一つの特殊な国家体制としてあるあり方であり それと他の国家体制との間柄は 類とそれのもろもろの種との間柄のようなものである。ただしかし 民主制においては類がそれ自身 実存するものとして現われる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 初めの一文において じんるいが家族という最小の社会単位体から国家という社会形態にまで拡大する過程についての考え方〔(α)〕と そしてそれ以後の歴史を展望する見方〔(β)〕とが示されています。  (α)が国家の形成とそこにおける共同自治のための発展が前向きに隆盛になる段階を言っており (β)はその後むしろ廃止に向けて やがて後ろ向きに揚棄されていく段階として見ようとしていると考えます。  別の言い方をすれば 《民主制》はだいたい――現代において達成されたものとしては――共通なのですから その中身がさらにこれから変わって行くものと (β)では見ているようです。〔またマルクスはマルクスでこの国家という家の構造を変えて行こうと言おうとしたのでしょう。それには関心がありません〕。  あるいはまたそのマルクスが 《キリスト教は勝義の宗教 宗教の本質であり》うんぬんと言っています。そこで次の観点を添えたいと思います。  ◆ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  ☆ この内容を図式において示したいと思います。ひとつの解釈です。  ☆ (ひとと社会の成り立ちについての図式) ~~~~~~~~~~  光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)  三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)  ________________________________   スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A ) _________________________________  身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)  [S者/S圏]  個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)  社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)  経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )  政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓   [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )   〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ 結論へ飛びますが ムラ(自治態勢=市町村)の段階での――ということは 二階建てをただちに平屋建てに変えないとしても その第一階のスサノヲ市民社会の場において―― 分立した三権が総合的に協業していけばよいと考えます。つまり 国家ないしアマテラス圏は背景へしりぞくでしょう。

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