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「人生ってくだらない」と思ったことはありませんか?
私は全ての人間と、その人間の内の一人である自分に絶望しています。 結局のところ人間には、自分の意思なんてものは無くて、全ての行動は本能の力によって導き出された結果だと思うのです。特に私は自尊心によるコントロールに絶望しています。他の人に認められたい、評価されたい、という欲望に振り回されている人を見ると、くだらないなと思ってしまいます。いわゆる人生の成功者と呼ばれている彼らのことです。 以前、私は上記のような後ろ向きな考え方をしたことはありませんでした。むしろその逆です。いかに自分を成長させて、人よりも価値のある人間になるかということに日々夢中でした。毎日が希望に満ち溢れ、輝かしい未来を夢に描いていました。 ところが最近になって、変に生物学やら心理学の知識を付けたせいか、その活力の源が遺伝子に組み込まれた自尊心なのではないかと疑い始めました。自分が主体として頑張っていたのではなく、自分は遺伝子によって頑張らせられていた客体なのではないか、と。そう思った瞬間、今までの自分の行動全てが馬鹿馬鹿しく思え、何もやる気になれなくなってしまいました。 貧乏人から一代で大企業の社長になった方も、幼い頃から地獄のような練習を積み重ねて一流のスポーツ選手になった方も、みんなみんな自尊心に踊らされた人間です。自分の欲望によって動かされたに過ぎません。 こんなしょうもない駄文を長々と読んでいただき、ありがとうございます。こんなことを書いているのも、このままじゃダメだと心のどこかで思っているからです。かつて無我夢中で毎日が一生懸命だった自分に戻りたいんです。でも、どうしてもこの本能によってコントロールされた自分という客観的事実を無視したまま、取って付けたような理屈で自分を騙しながら前に進みたくないんです。 ここで皆さんに質問です。 「人間の行動に主体性はあるのでしょうか?」 ありきたりな楽観論はお断りです。 私の心に革命を起こすような回答をお待ちしております。
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