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マルクスの労働価値説がなんやかんやで支持された理由って・・・?

bigorange9の回答

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回答No.3

>労働価値説が規範的だとして 規範的という言葉の意味を「~であるべきだ」という内容だとすると、まさに労働価値説が規範的に主張されたからこそ、社会運動などに影響を与えたのではないでしょうか。 純粋に経済学説としてみたとき、社会運動との相互作用とは別に<実証科学として>価値があったかということの方が興味深いと思いますが・・。 その点からみると、19世紀から20世紀初頭にかけては労働力は生産要素とはみなされても需要者として分析される対象になっていませんでした。労働分配率が低くて、まさに「搾取」されていた面があったのだろうと思います。しかし20世紀初頭に米国を先頭に大衆消費社会が拡大すると労働分配率の上昇に伴って消費者概念が現実的に重要になってきたという面があると思います(これは社会思想とかと関係の無い事実認識の問題です)。1870年代初頭に限界革命→効用理論は存在したわけですが、現実問題として消費者の需要分析が理論的に重要性を持つようになったのは第一次大戦後の不況および30年代の大恐慌以降です。労働価値説に実証的な意義があると思われていた、ということではないでしょうか。 日本についていえば、おくればせながら戦後の経済成長の中で資本対労働の図式で労働分配率が問題となりました。しかし経済成長の進行にともなって所得が倍増していったのが事実で、労働価値説が実証的に支持されなくなりました。学問的にも、廣松渉といった厳密なマルクス研究者が政治的・規範的なマルクス主義とは一線を画していろいろな説を唱えたけれど、60年代に期待されていた「真のマルクスの発見」は結局徒労に終わったとった動きも影響したと思います。

leopard120
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。  かつての経済システムの実証分析してみたときに、労働価値説が妥当だと考えられる時期があった、という点については、思い当たりませんでした。確かにその点は重要かもしれないですね。意外な盲点でした。 大変勉強になります。ありがとうございました。

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