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マルクスの労働価値説がなんやかんやで支持された理由って・・・?

bigorange9の回答

回答No.2

#1の回答者様も仰ってますが、経済学には規範的な部分と実証的な部分があります。新古典派経済学とマルクス経済学では同じ「経済学」を名乗っていても「科学」としての学問のあり方が根本的に異なるため、同じ経済現象を論じていても議論が全く噛み合わないことがよくあります。 新古典派経済学は価値自由を根底にして、モデルを公理的に作り、それを統計的に実証するという方法論を持っています。マルクス経済学は弁証法的唯物論という思想基盤があり、両者はまったく相容れません。 なお、マルクス経済学の内容が記述的で数学的でないというのは少し違います。たしかに数式をあまり多用しませんが、置塩信雄の数理マルクス経済学などのかなりしっかりとした業績があります(古いですが)。また海外では数理マルクス経済学の研究はいくらでもあります。日本のマル経の研究者の方法論が単に偏っているだけかと思います。  むしろ、数学的にマルクス経済学を構築したときに、集権的な計画当局が国民経済における分配を上手く設計することができるのかという経済計算論争が1920年代以来あります。現在では計算量の理論などで「理屈では可能だが実務的な経済運営上は不可能」とされています。実際、ソ連や東欧で経済運営が破綻した理由の一つは当局が全能でなかったという至極当たり前の点にありました。 こうした点とは別に、なぜ「あまり機能しなかったマルクス学説が全世界で長期にわたって支持されてきたのか?」という疑問についてです。19世紀以来の「帝国主義からの解放」「民族自決」「労働者の権利拡大と生活向上」といった政治・社会の動きが根底にあると思います。マルクス経済学自身(というかマルクス本人)は資本制的生産様式の未来の形について実は具体的なことはほとんど何も言っていませんでした。英国のような先進資本主義国でプロレタリアートの革命が起こる、とは予想したようですが、結果は後進資本主義国・農業国のロシアで革命が起こり、その後も後進国でしか共産革命が起ったことはありません。これは上記のような政治的・社会的要請の方が実際には大きく、共産主義≒一党独裁による開発主義に置き換えられてしまったと考えられます。その中で西側陣営への思想的対抗軸として「労働者の解放」のバックグラウンドとして労働価値説は一般大衆に受け入れられやすかったのではないでしょうか。しかし社会が豊かになり、労働者が市民、知識層、消費者として成長してくると労働価値よりも効用価値の方が現実を近似しているし、価値観が多様化して労働者概念で一括りできなくなって労働価値説への支持は自然と衰退していったとみることができます。日本や欧米で1970年代初めに共産的な大衆闘争が終了したのは偶然ではなくて、経済・社会の成熟化によるのだと思います。

leopard120
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。  回答♯1の下のお礼文は、一部明らかに誤解を招く書き方をしてしまいました。実際に言いたかったことは・・・「マル経の中には高度に数理的な理論分析をやっている人もいるし数理を使わない人もいるが、それはそれぞれに狙いがあってやっていることだ。そもそもある学問が数理的であるがゆえに高度だと単純に考えるのは間違いだ。」ということでした。  質問の本旨である「なぜ支持されたのか?」に対するご回答は、ある意味で♯1の方と同じように、労働運動・社会運動を促進する立場と整合的だから、ということですね。結局のところ体裁のいい労働全収権論の主張だった、ともいえる。いったん労働価値説の論理的根拠が疑われ始めると、労働運動などの信用にも悪影響を与えるわけで、逆効果だったという評価も成り立ちますね。  ・・・現役のマル経プロパーの研究者の方々の中には、違う解釈をする人も多いでしょうね。質問者のわたしも回答者さんも、支持されてきた理由として社会運動上の理由を重視しているわけですが、ほかに重要な理由はあるのでしょうか?。労働価値説が規範的なものだとして、それが分析上役に立つ側面をもっている、とか・・・?。

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