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人が 人のあやまちを赦すことができますか(つづき)

arayata333の回答

回答No.60

私の考えには、 《未来に可能性があり そちらの方向に進む意志があるのであれば》過去は忘れるほうがいい。 という考えがあります。 お久しぶりです。 詳しくはともかく、その気持でここに戻ってきましたので、過去は私の方からは 忘れる立場をとらせていただきたいと思います。 ここは 私の体験をまず、少し書かせてください。 私自身の想像力は貧しい方なので、だからといって 被害者や加害者への感情移入が深いとか言えるものではなくて、 あくまでみなさんが言われているのと同じぎりぎりの気持でもあるのですが、 子どもの頃、 あぶなく私がそのために廃人となるところだったほどのいじめをある学校の先生から受けた時の、 ある時の友達との対話をここに思い出します。 私は その先生が憎いと その友達に必死に訴えるのですが、その友達も必死に「どんな時にも人を憎んではいけないよ」と訴えてきました。 が 私には  まったくの??? しか、   どういったらいいのか   完全なまでにその友だちの言ってることが解からなかったことを憶えています。 で、わたしは、 そのあたりから、    両親に言っても信じてもらうことも出来ない孤独が さらに孤独となり狂気の世界へと進みはじめていったのです。 通学の途上で 壁にうつる自分の影だけが揺れているのです。 まるで映画での描写かなにかのようですが、現実です。 子どもながらも なんども、他の人の影が揺れていないのを確かめつつ、 その傾向を心に察知していました。 とうとう、それからたぶん数ヶ月後だったと思いますが、 わたしは二度ほど あちらの世界にいってしまったことがあります。 それは はっきり憶えてはいる事なのです。  その間は苦しいわけではありません。 でもその間は、 まったく普段の意識状態ではありません。 見えてはいます。 ですから、むしろ そこで見た世界は、むしろ忘れようにも忘れられません。 一部始終、62歳の今でも思い出せます。 いまでははっきりとではないですが、 その電車の中で人の足をポンポンふんずけながら走りまわっている私を誰もが 見てみぬふりをしていた様子と、たった一人だけ年配の女性の方(かた)が わたしの目を覗き込むようにして笑いかけようとしたそのひきつった顔まで思い出せるのです。 それが最初の体験です。  そしてそれは 乗り換えの駅で自然に体がおぼえていたのでしょうが、 降りたった時がみじめな体験でした。 その時に、子ども心にも 自分が今どうなっていたのかを知ったわけです。 詳しくは長くなりますので 二度目の時のまた別な様子は略します。 が二度目の時は、さらに惨めでした。 もう、おしまいだ!と、 おもったのです。 廃人という言葉は知らなかったと思います。 でも それは察していました。 ごめんなさい。 話が脱線したと思います。 でも すこしでもリアルに書きたかったのです。 肉親の命を奪われたような体験を持つ加害者のことを 他の人がその心の奥まで察知したり想像したりすることは難しいと思います。 が、 その後 親がやっと気づいてくれたことをきっかけに つまり《ぎりぎり》で助かったのち、  わたしは海辺の虚弱児施設にて、 その頃のおおらかな先生方や素朴な子ども達の友達たちに囲まれ、 そこに真逆に天国をも体験することで   たったそこにいた4ヶ月の間に 別に恨む必要は消えていました。 その天国の楽しさの深さもほんとうはリアルに それが何を意味するのか、その豊かさはどういうものか について、できれば詳しく書きたくなります。 が、ここで言いたいのは 教育とは、偉ぶって上の立場から教えるとか言う世界のことではなくて、 ほんとうに友だちとなってよりそってくれる人たちがまわりにまずいることだと思っているということです。 この《結論》を持ってしまう時には、 私は そのへん政治家的であり医者的な 切羽詰ったような感じで理想を追い求めることになります。 死自体 あるいは自殺でもいいですが、それ自体最大の不幸とも思えないでいる私には 死刑制度の意味はよく解かりませんが、 被害者が加害者に同じ苦しみを望むなら、それは確かに「憎しみの連鎖は、そのままでは永久に人間の力では断ち切れない」ということを意味しますし、  わたしには、そういう心も人間にはあるとリアルに思えますが、同時に、その心もまた変わりえるともリアルに思えるのです。 二度目に気が狂った時の私の状態は おびえた動物の意識そのものでした。 ふーーー、と睨む子どもを守る時の猫のような状態と言ってもいいかもしれません。  子どもではなく自分を守る本能そのものとなった状態です。 その時、私は確かに 人間ではなかったのです。 だから 解かります。 人間なら 変われる。 人間なら 人間になれる。  その可能性は かならずある。 それは 加害者が 反省の色も見せないような 冷たい冷たい心の殻の意識のすべてが押し込められているような場合、被害者にとって鬼の中の鬼でしかないような場合ですら、 それは同じ事が言える と  わたしは信じています。 死刑制度うんぬんは、また別の問題として、ただの島流しは意味無いです。 そう信じれる サリバンがヘレンケラーに言葉を教えた時のように、その真っ黒な何もない意識(何も比較するものがほとんどない意識?)の中に、言葉の光をとどかせた奇跡を起こした時と同じような、 そう、人間を信じることのできる 教師達のもとにのみ そういう加害者たちを送り込むべきであり、  それはこの社会にもどるもどなないとかいうのではなくて、 いかにそういう人にも 人間の可能性の世界 その世界がどんなにすばらしいかを教えることができるか どうか それを私は問います。 わたしは、 被害者と加害者の鉢合わせを なぜ理想の1つとするのかわかりません。 もし、被害者が 赦せない状態が長く長くつづき その心が変わらないままであるならば そのまま無理は無理のままと思います。 が、 ここに1つの答えが、なんとかぎりぎりかもしれませんが あると思うのです。 被害者もまた、 人間の可能性を信じれる時がきたなら、絶対変わる。 ぜったいどんな人も赦せるようになる。 ぜったい 悪魔の親分ベルゼベブですら赦せるようになり、悪魔幻想もこの世から消えてゆく。  そう私は 私の体験の中からは信じているのですが、…。 答えは1つだと思います。 どれだけ 人の心に寄添える教育が この世に発展するか? ここにすべてがかかっているのではないでしょうか。 キリストの言われる「右の頬を打たれたら」というのにつづいて「千歩歩く事を強要されたら」という二重のたたみかけるような例えは、 その前に「悪人には」という言葉がついている点があまり語られていません。 それはキリストにとって おそらくとても象徴的な大事な例え話だったと思います。 寄添うべき、それを必要としている人に対しては そうしなさい。ということだと思うのです。 どこまでより添えるのか、 どこまで人間を信じて寄添い続け、 赦しそして助けてあげることが出きるのか? 私はそれを「それは、できるか?」「それは、可能か?」ではなくて、 それこそそれを信じて歩き続けるかどうか? がどこまでも問われている問題と思います。

bragelonne
質問者

補足

 arayata333 さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。すでに投稿内容の話に入りますが いくつかの主題や論点を挙げておられる中で わたしの読んだ限りでは 最後のあたりが際立って ご主張の中身であるだろうと受け取ります。  ただしそれは 信仰の問題 その境地の問題を持ち出したかたちのようです。  ということで 扱いにくいご見解であるかと まづ思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (α) 寄添うべき、それを必要としている人に対しては そうしなさい。ということだと思うのです。  どこまでより添えるのか、 どこまで人間を信じて寄添い続け、 赦しそして助けてあげることが出きるのか?  私はそれを「それは、できるか?」「それは、可能か?」ではなくて、 それこそそれを信じて歩き続けるかどうか? がどこまでも問われている問題と思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ せっかくの久しぶりのご訪問にその初めから わたしは対立する意見になるのですが 考えを述べます。  ★ どこまでより添えるのか  ☆ これは 《信じる》の対象ではないと考えます。というのが わたしの考えであり 基本になると思いますので いのいちばんにしっかりとお応えしてまいります。  ○ 《寄り添ってやる》ことが 自分のすべきことだと確信したなら(これは 直感としてでも理詰めの結論としてでもです。確信というように《信》が入っていますが 単に強めるためだと見ます) その確信が間違っていたと分かるのでない限り そうする。  ☆ ただ こういう経験的な行動であり 意志行為であるのだと考えます。言いかえると 《赦しや助けにつながるかどうか それが出来るかどうか》 これは 分かっていないのです。ただし《寄り添ってやる》ことは 必要だという確信があるのみなのです。  というふつうの経験的な行動として捉えます。  その第二の説明として 聖書じたいの解釈についても考えておきます。先の(α)のお考えは 次のように聖書の推し出しているものだという解釈です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  キリストの言われる「右の頬を打たれたら」というのにつづいて「千歩歩く事を強要されたら」という二重のたたみかけるような例えは、その前に「悪人には」という言葉がついている点があまり語られていません。  それはキリストにとって おそらくとても象徴的な大事な例え話だったと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《左の頬をも向けてやる / いっしょに二千歩行く》と表現されたことを 《寄り添ってやる》ことと解釈されていると思うのですが もしそうだとしますと これは 《右の頬を打つ / 千歩行くように強要する》という行動から始まって 《人間に戻る。戻って心を回復する》という最終の状態を得るまで《寄り添う》ということだと採りますが それでよいでしょうか?  問題は 《最終の状態に到るまで もしくはその到ることを 信じる》というときの《信じる》とは何を言うかです。  わたしの場合は それは 先に述べたように《最終の状態に到ること》をではないわけです。《赦しそして助けてあげる》ことの実現 これを信じるのではないと考えます。  なぜなら そのような境地としての状態は 経験事象でありその以前には想像でありその観念です。だから それは《考える》の問題であり 《信じる》ものではないと思うからです。  たぶん以前から こういう点で あなたとわたしとは考えが違っていたように思います。やはりそういうふうであるのではないかと思います。その点 しっかりと対話をさらに続けてまいりましょうか。  《信じる》という要素を入れると この質問への回答にはならない。こう考えています。そのあたりを説明願えればありがたいと思いますが いかがでしょう?

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