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(ルカ 6:35) 「愛」は理性の範疇か?

来生 自然(@k_jinen)の回答

回答No.5

No.1では、舌足らずの部分があったようで、申し訳ございませんでした。 >>> ア) <知>と<情>の関係を図式化すれば、ご回答の「C」である。 イ) <知>は「愛」という<情>に関与し得るが支配までは不可能である。 <<< その通りです。 少なくとも、情・情動は、脳幹部分だけではなく、大脳皮質のレベルまで関与しています。ヒトは大脳皮質のみで成り立っているわけではなく、また、大脳皮質が脳幹を(一方的に)支配しているわけでもありません。「脳だけ」に限定してみても、大脳皮質の発達と、理性の働きの程度のみを重要視すると、大脳皮質内部にも深く根ざしている(ある意味、高度な)情・情動の本質を見誤るように思われます。 更に言えば、「脳だけ」ではなく、情・情動は、自身の身体とも深く関連しており、さらに(今・此処といった)個人のみに限定して考えるべきものではなく、(時間的・空間的に広がっている)相手・周囲、およびそれらとの相互の関係を含んでいます。 したがって、理性(知的働き)と愛(情的働き)のどちらが優位とか、どちらが支配してるかといった関係ではなく、相互作用しつつ、さらに同時並列的に「こころ・わたし」を動的に構成しているのだと思います。 >>> 今日ですら「愛」の実態が解明されていないとすれば、ルカ 6:35は十分成立する表現だと思います。 <<< 「愛」の実態は解明できないでしょう。まさに「語り得ぬもの」だと思っています。 「愛」という言葉・記号は、一種のモニュメントだと思います。モニュメントというのは、実体として「そこ」にあるものを想定して作られたのではなく、「その向こう側」への「思い・想い」の途中に「共有可能な概念の境界」として作られたものだと思っています。 「愛」という言葉だけではなく、一般的に情・情動を表す言葉・記号や、抽象的な概念(特に主体者の立場によって微妙に異なる複数の解釈が可能な概念)は、その「言葉・記号・モニュメント」を通した「向こう側」を見ようとしている(求めようとしている)ため、その「言葉・記号」(ここでは、「愛」)そのものに定位しようとすれば、元来求めようとしていたもの自体を見失ってしまうように思っています。 聖書および聖書に表された言葉そのものに定位するのではなく、その向こう側、すなわち、「言葉に出来ないが、求めようとしていたもの」へと、思いを向けることが大切なのではないだろうか?と思っている次第です。 したがって、書き記された時代背景をも含めて慮る(おもんばかる)ならば、 >>> ルカ 6:35は十分成立する表現 <<< は、そのとおりだと思っています。 ちなみに、 >>> 「...何も当にしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、...」 (中略) 「何も当てにしないで貸せ」と言ったり「たくさんの報いがある」と言ったり、欲望の否定なのか肯定なのか迷いますが、このことには此処では頓着しないことにします。 <<< ですが、上記のような考え方に立つならば、表現方法に矛盾を感じたとしても、言わんとしていることが判る(ないし感じ取られる)ならば十分だと思われます。 宗教は異なりますが、スッタニパータにも同等の言葉があります。 773 欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。他人によって解脱が得られるのではないのである。かれらは未来をも過去をも顧慮しながら、これらの(現在の)欲望または過去の欲望を貪る。 779 思いを熟知して、流れを渡れ。聖者は所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き、つとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない。 少なくとも、「特定の」○○のみを求める(A)を自制ないし否定する立場(B)を俯瞰しようとする知性(ないし理性)(C)を明文化する(ルカ 6:35)にしても、明文化しない(スッタニパータ 773,779)にしても、AとBとの関係を記述することにて「本来求めようとしていた方向性」を指し示そうとしたことは同じだと思います。

sono-higurashi
質問者

お礼

1 舌足らずなんてことは少しもありません。必要にして十分な記述がなされていて、とてもよいご回答でした。済まないのは当方です。 読み間違いをしていないのが判り安心しました。 2 これは学問に根差した考えではありません。脳科学を手解きして下さったことへのお礼代わりです。こんな当てずっぽうの予測をした上で何時か脳科学の啓蒙書を読もうと思っています。 1) 自己保存や種の保存に深く係わっているけれど直接的には自己のためではない本能が「愛」の源ではないのか。哺乳類は危険を冒しても子を守ります。鳥類にまで進化すれば擬態によって仲間のためにも危険を冒します。こういう間接的自己保存本能の変形が愛の母体のような気がします。 2) 安全ではないけれど、1)に比べて危険度の軽い行為が「恥ずかしさ」の源ではないのか。排泄、睡眠、交尾……、こういう行為時は哺乳類にとって危険です。このときの警戒感の変形が「恥ずかしさ」の母体のような気がします。 情・情動は、脳幹、大脳皮質の他、身体を含むいろんな要因が関係していることが分かりました。 3 突き詰めていうと言葉を共有することは可能なのか、ということになりそうです。多分、1億2千万通りの日本語があるのだと思います。一通りの日本語しかなければ、ここでの質疑ももっと短くて済みそうに思います。世界最短の手紙文は往信が(?)、返信が(!)、こういうものだったそうです。両者の言語感覚にずれがなく、且つ意思の疎通が十分であれば、これで済むようです。これからかけ離れるほど話は長くなるようです。言語感覚の異なる人とは話しづらいですが、といって負担に感じすぎれば公準を設定することによって推論が可能な範囲の話題のみに留まっているしかなくなりそうです。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

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