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(ルカ 6:35) 「愛」は理性の範疇か?

ルカ 6:35 ――しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。―― 「何も当てにしないで貸せ」と言ったり「たくさんの報いがある」と言ったり、欲望の否定なのか肯定なのか迷いますが、このことには此処では頓着しないことにします。 さて、これで見ると愛することも愛さないことも理性の範疇だと認識している節があります。これは正しいですか。「愛するか否か」は理性が関与できない領域が司っているように思いますが、違いますか。愛するという前提があるときの「愛し方」ならば理性で制御できることに異存ありません。 ルカ 6:35は次のどれかだと思います。どれですか。 1 「愛し方」ばかりでなく、「愛するか否か」も理性が決定できる。ルカ 6:35に違和感はない。 2 愛そうと努めれば、少なくとも「愛」に付帯する好ましい属性を以て敵に接することが出来る。「愛せ」は努力目標である。 3 翻訳から来る違和感である。原文では違和感がない。適訳がないので「愛しなさい」とした。 4 イエスまたは聖書の記述者の言語感覚がルーズである。「愛しなさい」ではなく別表現をするべきだ。 5 その他 多数決で決まる性質の問題ではありません。心理学、大脳生理、ギリシャ語(?)、キリスト教の教義など、何かしらの分野に明るい方の論述を希望します。 よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.1

ご質問の内容と、ほぼ同等のことを考えたことがあります。 以下、論点を「愛する」(情・情動)と「理性」(論理・理論、知的思考)との関係(包含関係)に絞って記述し直してみます。 a.「愛する」といった情・情動を理性(論理・理論、知的思考)で完全に掌握可能(智・知が情・情動を含有可能)。 b.知情(意)は完全に独立している。 c.知情(意)といった概念は、部分的に重なり合っていて分離不可能であり、また、相互に影響し合う。 知情意といった概念区分は、それらが独立して存在しているかのごとく錯覚を与えますが、脳の機能局在からも明らかなように、それらは重なり合って中心がずれていると考えるべきものです(トップダウン的な知見)。また、このことは、人工知能の研究レベルでも取りざたされています(ボトムアップ的な知見)。 http://elekitel.jp/elekitel/sci_talk/cont99/ai/ai01.htm http://elekitel.jp/elekitel/sci_talk/cont99/ai/ai02.htm また、脳の機能局在と関連しうるガードナーの「多重知能」という概念があります。「情動的知能」や「内省的知能」といった情・情動に対応するものも(実際には重なり合っていたとしても)概念的に分けて評価可能だという立場です。 で、これらが(ある程度)個別に評価可能な項目だと言うことは、逆説的に、心の働きを「理性」のみで支配可能だということにはなり得ないということを意味しています。 すなわち、「愛しなさい」という情・情動に対する理性ないし知的判断・意志の関与は(重なり合って影響し合っているゆえに)当然ありうるわけであり、かつ、「愛する」といった情・情動の根元的な部分は知・意からは(脳内ですら)中心がずれているため、完全に包含関係(一方的な支配関係)にはなり得ないわけです。

sono-higurashi
質問者

補足

ご回答を有り難うございます。 正しく読み取れたか否か確認させて下さいまし。ア)、イ)でよいですか。 ア) <知>と<情>の関係を図式化すれば、ご回答の「C」である。 イ) <知>は「愛」という<情>に関与し得るが支配までは不可能である。 今日ですら「愛」の実態が解明されていないとすれば、ルカ 6:35は十分成立する表現だと思います。 ご返事は急ぎません。よろしくお願いします。

その他の回答 (11)

  • idenshi
  • ベストアンサー率0% (0/1)
回答No.12

2-4 キリスト教徒の行ってきた蛮行ってのは、むしろこの個所がないがしろにされたから生じたんです。歴史をみれば明らか。 2-5 全体に臭みのある日本語だが何故か。翻訳か。 http://recoveryversion.jp/about2.php 「英語版を底本とし、中国語版を参考にして翻訳いたしました」 書いてある。 em9845氏の回答は非常にしっかりしたものなので、わたしからは多くは付加する必要を感じない。リンク先をずっと読んでいましたが、非常に参考になります。 むしろ、質問者の姿勢にひとこと申し上げたい。 2-5 何故、自分の言葉で解説しないのか。 それはあなたがたまたまそういう教育をうけたからそう思うだけ。実は、人間はこれまでの知的遺産の延長線上にしか生きられない。歴史を見れば、真に独創的な思想は常にこれまでの知的遺産の解釈と適用という形をとっているという厳然たる事実を受け止めていただきたい。そして、その「解釈」という行為すら、先行する優れた解釈の積み重ねに負うところが大きいのです。 人類の歴史を経て残ってきた精選された古典を、先行する解釈の蓄積に依拠しつつ読み解きつつ、それを自分が置かれている状況と照らし合わせていくのが思索の本来的あり方です。それができないんなら、そりゃあなたの資質が思索には向いてないってことです。自覚されたし。 大体、「何故、自分の言葉で解説しないのか」なんていう人がどうしてこんなところで質問してるのか。あなたの態度は矛盾しているし、折角答えてくれた人にそういう見当違いで失礼なことをいうのはいかがなものか。あなたの「思索」という行為に対する姿勢に大いに問題を感じるものです。 それがあなたの疑問が解決しない理由です。

sono-higurashi
質問者

補足

これはお礼ではありません。といって、補足の要求でもありません。お礼でないから此処に記すだけです。 1 idenshiさんは「学問や教育」の何たることかを弁えた方と見受けました。idenshiさんには何の関係もないNo.9に黙っていられずにNo.12として発言をする精神は「学問や教育」の考え方に適っていると思います。ところが、どうしたことか当サイトでは「学問や教育」を謳っていながら、誤っていようといまいと当事者以外は口を挟まないことになっているそうです。これは「学問や教育」の精神に反しているし、idenshiさんの場合、他者の回答にも口を挟めるように「教えて!goo」と掛け合ってみたらどうでしょうか。「教えて!goo」にも事情があるのでしょうが。 2 >>キリスト教徒の行ってきた蛮行ってのは、むしろこの個所がないがしろにされたから生じたんです。歴史をみれば明らか。<< とても、よく分かりました。それでは是非、「この個所をないがしろにしないよう」に、然るべきキリスト教の指導者層に働きかけて下さい。そうすれば今後はキリスト教徒の蛮行がなくなるでしょう。 3 >>「英語版を底本とし、中国語版を参考にして翻訳いたしました」<< 翻訳であることは分かりました。英語版に臭みがあるから日本語訳にも臭みがあるのか、中国語版に臭みがあるから日本語訳にも臭みがあるのか、この点は分かりませんでした。キリスト教徒でなくても少し気の利いた人はギリシャ語から翻訳するのではないですか。いやしくもキリスト教の説教をする立場の方が原典から翻訳していないとは思いもしませんでした。案外安直なのだと判りました。 4 >>それはあなたがたまたまそういう教育をうけたからそう思うだけ。<< これを私にいわれても困ります。私は日本国文部省の定めた義務教育修了者ですから「そういう教育」に文句があれば文化省に言ってください。 5 >>人類の歴史を経て残ってきた精選された古典を・・・・・・あなたの「思索」という行為に対する姿勢に大いに問題を感じるものです。<< どう感じようとidenshiさんの随意です。私は他人様の思考や信条に干渉する<<蛮行>>を行おうとは少しも思っていません。 6 >>それがあなたの疑問が解決しない理由です。<< この質問が、こんな所であっさり解決しないことが判ってよかったです。心理学や脳科学の専門知識があっても、この質問には今日のところ完璧には答えられないようです。idenshiさんには疑問がなくて結構なことです。 ――運営スタッフの皆さんへーー 従来の基準でいうと、この回答は質問に答えず他人の質疑を横取りしている形になるのだと思います。もしも、そうならば、よくない回答のサンプルとして削除せず残して下さい。他山の石となりそうです。お願いします。

  • em9845
  • ベストアンサー率33% (2/6)
回答No.11

わたしの拙い回答をよく読んで、真剣にご質問を返してくださった事を心より感謝いたします。 わたしは哲学や神学を学んだことはありません。哲学書や神学書を読もうとしたことはありましたが、頭に入りませんでした。でも、最近読み始めたこの聖書にはとても感銘を受けました。検索機能を使っていろいろ調べられるので、検索で引っかかった所だけ要所、要所ご返答を貼り付けます。 2 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_5_48_0_1に関する疑問 2-0 「王国」と「天の王国」は同じと考えてよいのか。「天の王国」には一柱の神だけが存在すると考えてよいのか。 2-1 「王国の民」とは誰なのか。キリスト教徒を指すのか。非キリスト教徒を含むのか。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_3_2_0_2 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_5_3_0_4 http://recoveryversion.jp/bin/charts/kingdom.gif 2-2 「王国の新しい律法」とは何か。「旧経綸の律法」とは何か。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_5_22_0_1  http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_5_22_0_2  http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_5_28_0_1 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_5_29_0_1 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_7_14_0_1 参考 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=45_8_13_0_2 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=51_3_5_0_1 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=48_5_24_0_2 2-3 「彼ら」とは誰か。「わたしたち」とは誰か。「彼ら」と「わたしたち」とは同じでないのか。筆者は何故「彼ら」と言って、ある場所では自分を除き、別の場所では「われわれ」と言って自分を含めるのか。 →これは「彼ら」と言っているときには主に、聖書の箇所で「あなたがた」と言っている人たちを客観的に説明している時に使っていて、「わたしたち」と言っている時には、客観的説明を主観的に自分たちに適用する際に使っているだけではないでしょうか?そう読めますが。 2-4 「彼らは御父のように完全になることができるのです」とあるが、危険な訓えでないのか。キリスト教徒である自分は非キリスト教徒に比べ「より完全に近い」という謂われなき優越感を生まないか。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_6_1_0_3 このこととキリスト教徒の行ってきた蛮行とは無関係か。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_13_32_0_1 この訓えと釈迦の訓えとはどういう関係にあるのか。裏腹でないのか。何が同じで何が異なるのか。 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=47&f_ChapterNo=6&f_VerseNo=15#15 2-5 全体に臭みのある日本語だが何故か。翻訳か。 →臭豆腐という食べ物を知っていますか?とても臭いのですが、現地の人にとっては良いにおいだそうです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AD%E8%B1%86%E8%85%90 何故、自分の言葉で解説しないのか。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_12_37_0_1 3 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=62_4_8_0_2 に関する疑問 「愛さない者は神をまだ知っていません.」とある。これによると神を知らない、即ち神を信じていないキリスト教徒が山のように存在することになるが、それでよいか。何故といって、愛さないどころか敵愾心に燃え滾ったキリスト教徒が沢山いたし、今も居る。そういう人は神をまだ知っていないことになるがキリスト教徒とは認められている。つまり、神を信じていないキリスト教徒が山のように存在することになる。この矛盾をどう説明するのか。あっさり矛盾を認めるのか。矛盾でないのか。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=49_5_5_0_3  http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_22_13_0_2 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=56_3_15_0_1 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=58_4_9_0_1 4 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=62_4_16_0_3  と他の注解に関する疑問 「愛の中に住んでいる者は神の中に住んでおり、神も彼の中に住んでおられます。」とある。また、「人にはできないが、神にはすべての事ができる」ともある。これは危険な思想でないのか。これだと、自分の中に神が住んでいて、自分=神=「すべての事ができる」と考える現人神が登場しやすくないか。 →ここの聖書の箇所では「すべての事ができる」というのは、神が命じたこと、人に提示、約束されたことに関しては、内に住む神を命として生きる人は「すべての事ができる」という理解になると読めます。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=52_5_23_0_5 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=46_15_45_0_1 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=49_3_17_1_1 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=43&f_ChapterNo=14&f_VerseNo=17#17 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=43_14_17_0_1 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=43_14_17_0_2 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=43_14_17_0_3  http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_25_4_0_1 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=43_14_23_0_1 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=45_8_16_0_2 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=46_6_19_0_1 他、多数。 しかし、人は礼拝の対象とはならない。 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=44&f_ChapterNo=14&f_VerseNo=12#12 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=45_1_20_0_1 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=51_2_9_0_2 5 全体を通じての疑問 キリスト教と限らないが、宗教は今日の規範として相応しくないのではないか。宗教は価値観を共有する方向に強い力が働くので他の共同体と接触の乏しい小さな集団内でしか平和裏に機能しないのではないか。一方、価値観の異なる他の共同体と接触が生じたが故に宗教が誕生する側面(というか、これが正面?)もある。布教に熱心な宗教は危なくないか。 →自信はありませんが、この聖書の解釈では、キリストと宗教は相反し、キリストは宗教から人々を救おうとしておられると読めます。神=宗教ではないし、神を信じ受け入れる=宗教ではないと言っているように読めます。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=41_2_1_0_1 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_9_14_0_1 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_13_33_0_2 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=58_13_13_0_1 他、多数。 参考 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=40&f_ChapterNo=9#0032 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=40&f_ChapterNo=23#00109 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=41&f_ChapterNo=2#0020 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=41&f_ChapterNo=3#0021 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=43&f_ChapterNo=4#0026 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=43&f_ChapterNo=5#0037 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=43&f_ChapterNo=7#0058 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=43&f_ChapterNo=9#0084 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=43&f_ChapterNo=9#0086 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=43&f_ChapterNo=10#0091 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=43&f_ChapterNo=11#0097 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=43&f_ChapterNo=12#00101 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=43&f_ChapterNo=15#00120 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=43&f_ChapterNo=18#00141 他多数。

参考URL:
http://www.recoveryversion.jp/
sono-higurashi
質問者

お礼

1 これはNo.11へのお礼ではありません。 No.9の補足欄に既に「有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします」とお礼は述べています。但し、お礼をお礼欄に記さなかったのは私の落ち度ですからお詫びします。申し訳ありませんでした。 実は一度は、お礼欄に記したのですが字数制限があって受け付けて頂けなかったため補足欄に記してしまいました。 2 頂いたNo.9からem9845さんは読解力に優れ論理を追える方だと判断しました。よってNo.9の補足欄に記した、 「この質問は、聖句の解釈までは踏み込んでいません。というのは予備知識がなさ過ぎることを自覚しているからです。今の時点で聖句の理解まで欲張ろうとは思っていませんし、将来ともキリスト教徒になる(なれる)予感はありません。が、頂いたご回答は粗末にすることなく自分なりに吟味したことをお伝えする意味で、生じた疑問と感想を記します。疑問文になっていてもご返答を要求するものではありません。」、というこの一節を、きちんと読み取っていただけるものと思い込んでしまいました。これは私の早とちりで、済まなかったと思っています。 では改めてお伝えします。 疑問文になっていてもご返答を要求するものではありません。 3 一定の洞察力がある方であれば、No.9で頂いたご回答からNo.9の補足欄に記した疑問が生ずるような者に対してNo.11の回答を与えれば、どれほどに疑問が膨らむか容易に推測できるものと存じます。因みに申せば、一つのサイトから仮に二つの疑問が生ずるとしても、No.11には55のサイトがご紹介されているので計110の疑問が生ずることになります。果てしなく延々と質疑が続くことになります。何処かで幕引きをしないとなりません。終了の了解を求めた文言が「疑問文になっていてもご返答を要求するものではありません。」の積もりでした。 4 No.11はem9845さんの親切心であろうことは十分想像しています。しかし、前記3に記した事情もご理解頂けるものと推測します。 以上、重ねて確認しておきます。No.9にはお礼を申します。有り難うございました。No.11はお願いしていないのでお礼は申しません。No.11も親切心の表れであろうかな、とは推測しています。

回答No.10

>「愛せ」は努力目標である 愛せないはずです。愛せる者は神の子だということです。 聖書の別の箇所に有名な「神は愛です」ということばがあります。神のすべての意思は愛が動機だという意味です。 言い方は悪いですが死んだほうがいいような人間でも呼び求めるなら神は答えてくださるのです。情け深いと表現されています。 私たちは自分の好きな相手や、益になる人間を愛しますが嫌いな相手には差し伸べる手があっても惜しむものです。 イエスのことばは、目標というとらえかたもできますが、本来こうあるべきだという意味とも考えられます。 あるべき姿(愛の性質の神)から遠く離れた(愛がない)自分を比較して両者を隔てているのは生まれながらの罪と呼ばれるものだと認識します。罪の行く末は死だと言われていますが、死は罪なきキリストの十字架の身代わりによってゆるされたと信じます。そこに過去の自分の悔い改めが説明されます。 私たちは、キリストになにも返せません。またキリストは人類のすべてが自分のあがないを受け入れるのではないことも当然わかっていたでしょう。しかし受け入れるわずかな人間のために、何も返せないはずの人間にご自分のすべてを差し出されたのではないでしょうか。 これが聖書の言う愛だと私は思います。 聖書の翻訳の問題は大変詳しく(時に鋭く)研究されている先生がいらっしゃいます。 私の大好きなWEBサイトです。

参考URL:
http://bible.ne.jp/
sono-higurashi
質問者

お礼

mimicco_qさんの言わんとすることが正確に受け取れたか否か判りません。また、質問文の1であらうと2であろうと実は真意に違いはないのかも知れません。そういう前提で記します。 教義の上からは分かりません。私は人間の心理や大脳の仕組みから質問文の1は無理で2が妥当でないか、と感じていました。このご回答は私とは別の理由で、即ち所詮人間の思い描く「愛」は紛い物に過ぎないので、「愛せ」=「愛せるように努力せよ」である、と述べているのだと読みました。この理解が許容できないほどmimicco_qさんの見解と懸け離れているときは、ご一報下さいませ。 「(愛せるから)愛せ」というよりは、「(愛せないけど)愛せ(るように努力せよ)」、と言う方が宗教的境地に於いて進んでいるように思います。思想としても一層深いのではないかと思います。また、こちらの方が信徒の驕りや錯覚を防ぎ易いかなとも思います。 ご紹介の教会は随分、地道に活動しているようですね。サイトは今後も参考にさせて貰えそうです。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

  • em9845
  • ベストアンサー率33% (2/6)
回答No.9

わたしは無学で自分では何も答えられないのですが、最近見つけたホームページのリンクを張らせていただきます。 マタイ5:44にも、敵を愛するように言っている箇所がありますが、その後の48節では、天の父が完全であるように完全な者となりなさいと言っています。 最近見つけたオンライン聖書回復訳(http://www.recoveryversion.jp/)というサイトのマタイ5:48の注解のリンクを張ります。 聖書本文 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=40&f_ChapterNo=5&f_VerseNo=48#48 注解 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_5_48_0_1 ヨハネの第一の手紙4:8と4:16は、神は愛であると言っています。その注解のリンクを張ります。 聖書本文 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=62&f_ChapterNo=4&f_VerseNo=8#8 注解 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=62_4_8_0_2 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=62_4_16_0_3 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=62_4_16_0_4 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=62_4_16_0_5 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=62_4_16_0_6 結論としては、マタイ19:26ではないでしょうか?そのリンクを張ります。 聖書本文 http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=40&f_ChapterNo=19&f_VerseNo=26#26 注解 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_19_26_0_1 自信などございません。ご参考になりましたら幸いです。

参考URL:
http://www.recoveryversion.jp/
sono-higurashi
質問者

補足

無学だなんてことはありません。無学であるか否かは人格に反映するのだと思います。文章に驕りが出て無学だと直ぐ判ってしまう極端な無学もあることはあるのでしょうが。志の高い方はハードルが高いので自己評価も厳しいのかも知れません。 こういう回答の作り方は資料の収集と構成の段取りに案外な時間が掛かるのを承知しています。労力が大変だったと拝察します。 1 ご紹介のオンライン聖書回復訳には「ギリシャ語原文に忠実で、」とありますので、これに従えば質問文の3、4ではないことが判ります。ご回答全体の構成から質問文の1の立場だと判断しました。万一、この判断が誤っているときには、ご一報下さいませ。 この質問は、聖句の解釈までは踏み込んでいません。というのは予備知識がなさ過ぎることを自覚しているからです。今の時点で聖句の理解まで欲張ろうとは思っていませんし、将来ともキリスト教徒になる(なれる)予感はありません。が、頂いたご回答は粗末にすることなく自分なりに吟味したことをお伝えする意味で、生じた疑問と感想を記します。疑問文になっていてもご返答を要求するものではありません。 2 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=40_5_48_0_1に関する疑問 2-0 「王国」と「天の王国」は同じと考えてよいのか。「天の王国」には一柱の神だけが存在すると考えてよいのか。 2-1 「王国の民」とは誰なのか。キリスト教徒を指すのか。非キリスト教徒を含むのか。 2-2 「王国の新しい律法」とは何か。「旧経綸の律法」とは何か。 2-3 「彼ら」とは誰か。「わたしたち」とは誰か。「彼ら」と「わたしたち」とは同じでないのか。筆者は何故「彼ら」と言って、ある場所では自分を除き、別の場所では「われわれ」と言って自分を含めるのか。 2-4 「彼らは御父のように完全になることができるのです」とあるが、危険な訓えでないのか。キリスト教徒である自分は非キリスト教徒に比べ「より完全に近い」という謂われなき優越感を生まないか。このこととキリスト教徒の行ってきた蛮行とは無関係か。この訓えと釈迦の訓えとはどういう関係にあるのか。裏腹でないのか。何が同じで何が異なるのか。 2-5 全体に臭みのある日本語だが何故か。翻訳か。何故、自分の言葉で解説しないのか。 3 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=62_4_8_0_2 に関する疑問 「愛さない者は神をまだ知っていません.」とある。これによると神を知らない、即ち神を信じていないキリスト教徒が山のように存在することになるが、それでよいか。何故といって、愛さないどころか敵愾心に燃え滾ったキリスト教徒が沢山いたし、今も居る。そういう人は神をまだ知っていないことになるがキリスト教徒とは認められている。つまり、神を信じていないキリスト教徒が山のように存在することになる。この矛盾をどう説明するのか。あっさり矛盾を認めるのか。矛盾でないのか。 4 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=62_4_16_0_3  と他の注解に関する疑問 「愛の中に住んでいる者は神の中に住んでおり、神も彼の中に住んでおられます。」とある。また、「人にはできないが、神にはすべての事ができる」ともある。これは危険な思想でないのか。これだと、自分の中に神が住んでいて、自分=神=「すべての事ができる」と考える現人神が登場しやすくないか。 5 全体を通じての疑問 キリスト教と限らないが、宗教は今日の規範として相応しくないのではないか。宗教は価値観を共有する方向に強い力が働くので他の共同体と接触の乏しい小さな集団内でしか平和裏に機能しないのではないか。一方、価値観の異なる他の共同体と接触が生じたが故に宗教が誕生する側面(というか、これが正面?)もある。布教に熱心な宗教は危なくないか。 手間を掛けて下さったにも係わらず期待に沿った読み方が出来なかったのではないかと懸念しています。そもそも、聖書は信徒向けの書であって、非信徒向けの書ではないのではないかという疑問ももちました。だからといって、非信徒には非公開とされても困りますが。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.8

kigurumiです。 誤字脱字 すごい多いですが、スルーしているいい加減な性格だけど、さすがにここは スルーすると相手に伝わらないと思い ノコノコ訂正にきました。 誤:「わずらわれるな」がその意味。 正:「わずらわされるな」

sono-higurashi
質問者

お礼

誤字、脱字、誤変換、用法違い、一切気にしません。こういうことは言いっこなしが有り難いです。それにしても、一度正しく確定した筈の部分が何時の間にか誤変換されていることがあるのは、勘弁して欲しいですね。ソフトなのか、ハードなのか、使い方なのか、PCに舐められているのか、何かが何かなのでしょうが困ったものです。 わざわざ、ご丁寧に済みませんでした。

  • kigurumi
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回答No.7

>意表を衝かれました。こんな具合に読むのですか。これこそkigurumiワールド、みたいな……。 ん? 新世紀エヴァンゲリオン、とっても面白いと思って観ました。 あの作品は謎が多いゆえに、謎解きという方面で、人々は興味を持ったようです。 が、私は違う。神話とか旧約聖書をちょっとは知っているから、謎だとされる部分をそれらで理解できるから。 「ああ あの神話のあの箇所をもってきているな」とわかるから、おもしろい と感じる。 従って、新約聖書の「愛しなさい」も旧約をちょっとは知っているので、どういう意味なのか推測できる。 <自分のことのように他者を愛しなさい> 何度も例えが出てきている。 「質に入れて金を借りたが、うまく返せなかったら、服無しで夜凍えることになる。 自分だったらそうなりたくないでしょ? だったら 他人もそうだから、金が返せなくても質にとった服を返してやりなさい。」 とってもわかりやすい説明を旧約ではしていますよね? 自分がそうならどうか そう考えればわかるでしょ?って旧約では言っているわけです。 自分が困っていたら、自分を助けるでしょ? それと同じように他人も助ける。 他人を助ける(愛する)ってことは自分を助ける(愛する)ことにつながる。 他人を助けたら、敵対関係にあった状態から和解になるでしょ? >背景に出エジプト記、22:21を感知するのですね。 そでーす。 そこで愛するというのはどういうことか 説明されています。 >新約には「愛しなさい」が10ヶ所以上出てきますが、全ての「愛しなさい」を国語辞典がいう共通した「愛しなさい」で読むのは横着で、こうして一ヶ所ずつ固有の意味付けをしていく読み方は成立すると思いました。 その通りです。 現代の愛するという一般的な意味をもちいただけでは理解は不十分で、旧約という辞書を読み、この世界の愛の概念を知ってから、新約を読まないと、理解できないようになっとります。 古代語を読み解くには、その当時使われていた言葉の意味を知らないと、全体の意味がわからなくて、鍵が合わずドアがひらかないのと一緒。 >心理学、大脳生理、ギリシャ語(?)、キリスト教の教義など、何かしらの分野に明るい方の論述を希望します。 ということですたけど、旧約に関してちょっとだけ明るい無神論者の私がノコノコ出てきて、「そっちじゃないよ 旧約だよ」って言ったことで、ちょっとあの世界の愛の概念がちょっとわかれば幸いです。 ただ、、、損とって徳をするってことも智恵の一つだから、心理学からでも読み解けるでしょうし、大脳生理でいけば、人間は「血が濃い方に援助する」って言われていますが、血じゃなくて「血が濃いという認識」により、血族関係を大事にしたがる傾向にあるとわかっている。 ギリシャ語でいけば「アガペー」で自分を愛するがごとく他者を愛する。 キリスト教の教義でいけば、、、うーーん 新約聖書ってことですよね。 「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」の意味。 出土したクムラン(エッセネ派?)の宗規にも「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」と書いてあり、出土したスクロールに解説も載っていたと思います。 「わずらわれるな」がその意味。 従って「敵に対して無抵抗でいて、殴られっぱなしでいろ。右打たれたら左出して 殴りたいだけ殴らせろ」などイエス作家は言っていない。 右の頬を打つってのはものすごい侮辱行為なわけです。 手の甲で打つから。 で、ものすごい侮辱をされても、関知するな(言い返したりなど、侮辱するものを相手にするな) とクムランでは説いていた。 ここがキリスト教の愛と旧約の愛の概念が大幅に違うところ。

sono-higurashi
質問者

お礼

映像をよくご覧になるようですね。私はデジタル人間みたいで、映画、ドラマには縁遠いです。導入部が終わる辺りで眠っちまうようです。人間が散文的にできているみたいです。あるいはノロマな上に怠け者なので時間の作り方が下手なのだと思います。よって常に睡眠が優先されてしまいます。 ご回答は全文に亘って、まぁまぁ理解できたかな、と思います。 No.4への補強を、有り難うございました。 (「人間みな障害者」って、著作権はkigurumiさんがもっているのですか。至言ですね。 文明は障害者によっても進化しますが、犯罪者も結構推進役になっていますよね。)

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.6

追伸01 1 「理性的愛」が分かりません。「理性的愛」とは相手への「理解」、「尊重」、「友愛」などの<情>と思ってよいですか。これらは「愛」の属性にしかすぎず「愛」より数等劣るのではないですか。   ○愛には本能的に愛する愛もあれば、教える愛や人を生かす愛も、人を許す愛などいろいろな愛がありますよね。これらは愛の属性ではなく愛の段階、理性的段階愛と言えるものだと思いますね。学校の先生は職業だとは言え、好きじゃないと続くものじゃないですよね。学校の先生は生徒が立派になって欲しいと考えるから続くのでしょう。理性的ですがこれも愛でしょう。だまされてもだまされても相手が良くなって欲しいと思って続けることも愛の一つでしょう。人を許し、生かすというのも愛ですよね。こんなのは牧師や神父や坊主に言われなくとも日常に見ることが出来ますね。 2 揚げ足取りみたいでいけませんが気になります。「神に近づく」ことがよいことであるかの如き表現は適当ですか。神に近づこうとする姿勢は傲慢だといわれないのですか。言わんとする趣旨は理解できるので表現だけの問題です。 ○1.に比ゆ的に述べましたが、卒啄同時ですね。良き生徒は良き先生を真似て、良き先生になろうと努力します。神と人の関係は神を上と置き換えると同じですね。 卒啄同時は雛と親鳥の関係ですが、神と人の関係もそうあるべきといいたいだけですね。それが神の願いですね。 3 これが一番大事です。キリスト教の神は「与えるだけの存在」ですか。奪うことはないのですか。 ○ 神は「与えるだけの存在」ですね。キリスト教に限らずですね。 勘違いがあるといけないので、私の知りえた創造主の言葉を書いておきます。 「我はあなた方をよりすぐれた者となすために、厳しい試練も与えよう。砂鉄変じて鋼となすために、火の試練も、水の試練も、槌の試練も与えよう。しかして強くなれ、無限に鍛えられて、無限に美しく、無限によきものとなれ。我のようになれ。」 つまり、愛も慈悲も与えられるが試練も与えられるのですね。それぐらい我々はかわいい存在なんですよ。だから、ヨブの嘆きは神の御心がわからなかっただけというのがわかるでしょう。 親も子には立派になって欲しいのですよ。しかるときはしかるが、どのような子供であれ子供はかわいいですよね。それと同じですよ。人間知で疑っちゃいけませんね。

sono-higurashi
質問者

補足

問い合わせは何もありません。字数制限の関係でこちらを使わせていただきます。 1 >>これらは愛の属性ではなく愛の段階、理性的段階愛と言えるものだと思いますね。<< mmkyさんの考えは分かりました。私には私の線引きがありますから同意するという意味ではありません。 2 No.2で表現だけの問題だと受け取ったのは早とちりで、「神に近づく」ことがよいことだと認識されているらしいと受け取りなおし直しました。論点は「神に近づく」ことがよいことだと考えているのか否かでした。「啐啄同時」と「神に近づく」ことの関係が分かりませんでした。しかし、主要な問い合わせは1にあったので、これへの更なる返事を私からは求めません。文字化けは「口偏に卒」です。 3 >>神は「与えるだけの存在」ですね。キリスト教に限らずですね。<< mmkyさんの考えは分かりました。キリスト教については「与えるだけの存在」なのか、そうでないのか私には判りません。このお答を黙って頂戴します。 >>キリスト教に限らずですね。<< こちらもmmkyさんの考えは分かりました。私は、これには同意しません。幾分なりと「神」を考察する方は、そんな単純な結論をもっていないと見ます。この件では、私は民俗学の書に学びます。 >>こんなのは牧師や神父や坊主に言われなくとも日常に見ることが出来ますね。<< 余人は知りません。私は、こういうことを「牧師や神父や坊主」から学ぼうとしたり、「日常に見ること」から学ぼうとはしていません。この方法は、しばしば偏りのある見解を伝授されます。これだと研究者、学術書、専門家から得る情報とかけ離れそうです。普段余りにアカデミックな雰囲気に浸って居る方が俗っぽさを身につけるには役立つかもしれません。私の場合は反対で、人品が余りに俗なのを承知しているので幾分なりと学術寄りに軌道修正したいと望んでいる結果、こうして質問しています。mmkyさんの有り難いお話は私のような人間には、どうも役立てようがない予感がします。 幸いにも、こんな私の思いつきの愚にもつかない毎度の質問に対して、勿体ないほどの識者が、きちんと学問や教育のレベルに引き上げ直して回答を下さることも珍しくありません。私はこういう方々を頼りにします。また、回答がなければないで、これも立派な情報ですから反応のないことからも得るものはあります。回答があれば有り難いというものでもありません。 はて、如何なるお礼をしたものやら困惑していましたが、よい表現を見つけました。 >>人間知で疑っちゃいけませんね。<< mmkyさんの文章にある、これを頂戴します。真実を遣り取りするのに、 世間知で回答しちゃっちゃいけませんね。 再度のお答、有り難うございました。ご返事があったことに対するお礼であって、内容が役立ったという意味ではありません。

回答No.5

No.1では、舌足らずの部分があったようで、申し訳ございませんでした。 >>> ア) <知>と<情>の関係を図式化すれば、ご回答の「C」である。 イ) <知>は「愛」という<情>に関与し得るが支配までは不可能である。 <<< その通りです。 少なくとも、情・情動は、脳幹部分だけではなく、大脳皮質のレベルまで関与しています。ヒトは大脳皮質のみで成り立っているわけではなく、また、大脳皮質が脳幹を(一方的に)支配しているわけでもありません。「脳だけ」に限定してみても、大脳皮質の発達と、理性の働きの程度のみを重要視すると、大脳皮質内部にも深く根ざしている(ある意味、高度な)情・情動の本質を見誤るように思われます。 更に言えば、「脳だけ」ではなく、情・情動は、自身の身体とも深く関連しており、さらに(今・此処といった)個人のみに限定して考えるべきものではなく、(時間的・空間的に広がっている)相手・周囲、およびそれらとの相互の関係を含んでいます。 したがって、理性(知的働き)と愛(情的働き)のどちらが優位とか、どちらが支配してるかといった関係ではなく、相互作用しつつ、さらに同時並列的に「こころ・わたし」を動的に構成しているのだと思います。 >>> 今日ですら「愛」の実態が解明されていないとすれば、ルカ 6:35は十分成立する表現だと思います。 <<< 「愛」の実態は解明できないでしょう。まさに「語り得ぬもの」だと思っています。 「愛」という言葉・記号は、一種のモニュメントだと思います。モニュメントというのは、実体として「そこ」にあるものを想定して作られたのではなく、「その向こう側」への「思い・想い」の途中に「共有可能な概念の境界」として作られたものだと思っています。 「愛」という言葉だけではなく、一般的に情・情動を表す言葉・記号や、抽象的な概念(特に主体者の立場によって微妙に異なる複数の解釈が可能な概念)は、その「言葉・記号・モニュメント」を通した「向こう側」を見ようとしている(求めようとしている)ため、その「言葉・記号」(ここでは、「愛」)そのものに定位しようとすれば、元来求めようとしていたもの自体を見失ってしまうように思っています。 聖書および聖書に表された言葉そのものに定位するのではなく、その向こう側、すなわち、「言葉に出来ないが、求めようとしていたもの」へと、思いを向けることが大切なのではないだろうか?と思っている次第です。 したがって、書き記された時代背景をも含めて慮る(おもんばかる)ならば、 >>> ルカ 6:35は十分成立する表現 <<< は、そのとおりだと思っています。 ちなみに、 >>> 「...何も当にしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、...」 (中略) 「何も当てにしないで貸せ」と言ったり「たくさんの報いがある」と言ったり、欲望の否定なのか肯定なのか迷いますが、このことには此処では頓着しないことにします。 <<< ですが、上記のような考え方に立つならば、表現方法に矛盾を感じたとしても、言わんとしていることが判る(ないし感じ取られる)ならば十分だと思われます。 宗教は異なりますが、スッタニパータにも同等の言葉があります。 773 欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。他人によって解脱が得られるのではないのである。かれらは未来をも過去をも顧慮しながら、これらの(現在の)欲望または過去の欲望を貪る。 779 思いを熟知して、流れを渡れ。聖者は所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き、つとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない。 少なくとも、「特定の」○○のみを求める(A)を自制ないし否定する立場(B)を俯瞰しようとする知性(ないし理性)(C)を明文化する(ルカ 6:35)にしても、明文化しない(スッタニパータ 773,779)にしても、AとBとの関係を記述することにて「本来求めようとしていた方向性」を指し示そうとしたことは同じだと思います。

sono-higurashi
質問者

お礼

1 舌足らずなんてことは少しもありません。必要にして十分な記述がなされていて、とてもよいご回答でした。済まないのは当方です。 読み間違いをしていないのが判り安心しました。 2 これは学問に根差した考えではありません。脳科学を手解きして下さったことへのお礼代わりです。こんな当てずっぽうの予測をした上で何時か脳科学の啓蒙書を読もうと思っています。 1) 自己保存や種の保存に深く係わっているけれど直接的には自己のためではない本能が「愛」の源ではないのか。哺乳類は危険を冒しても子を守ります。鳥類にまで進化すれば擬態によって仲間のためにも危険を冒します。こういう間接的自己保存本能の変形が愛の母体のような気がします。 2) 安全ではないけれど、1)に比べて危険度の軽い行為が「恥ずかしさ」の源ではないのか。排泄、睡眠、交尾……、こういう行為時は哺乳類にとって危険です。このときの警戒感の変形が「恥ずかしさ」の母体のような気がします。 情・情動は、脳幹、大脳皮質の他、身体を含むいろんな要因が関係していることが分かりました。 3 突き詰めていうと言葉を共有することは可能なのか、ということになりそうです。多分、1億2千万通りの日本語があるのだと思います。一通りの日本語しかなければ、ここでの質疑ももっと短くて済みそうに思います。世界最短の手紙文は往信が(?)、返信が(!)、こういうものだったそうです。両者の言語感覚にずれがなく、且つ意思の疎通が十分であれば、これで済むようです。これからかけ離れるほど話は長くなるようです。言語感覚の異なる人とは話しづらいですが、といって負担に感じすぎれば公準を設定することによって推論が可能な範囲の話題のみに留まっているしかなくなりそうです。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.4

新約は旧約を簡略化したものです。 従って旧約を知らずして、新約はわかりようがありません。 その内容は詳しく旧約に書いてあります。 『君は寄留の他国人を虐待したり、圧迫したりしてはならない。君たちはエジプトの国では寄留の他国人だったからである。』 ちなみにローマはキリスト教化していき、キリスト教徒にならなかったユダヤ人にてっては、生き難いような法律を制定して迫害していきました。 イエスを殺したのはユダヤ人だという認識は後に、ドイツの断種政策になったとき、人類史上最大に悪事、西洋の最大の悪事、神への最大の裏切り、神への謀反、反乱を引き起こしました。 ホロコーストです。 キリスト教は、神に対して徹底的な裏切りをしたわけです。 上の句に続く言葉です。 『もし 君が彼らを苦しめ、彼らが私に向かって叫ぶ場合は、私は必ずその叫びを聞く。そして、私の怒りは燃え上がり、君たちを剣で殺す』 ホロコーストにより虐待されたユダヤ人達。 彼らは掟に従ったので、敵を憎み神に向かって叫ぶことはなかったってことですね。 情け深い神の僕だってことを立証したってことですね。 最初の文句の情けをかけなさいという根拠は、かつて寄留の民だった者なので、寄留され迫害される人々の痛みを知っている民族だからである ということです。 『もし 隣人の上着を質に取る場合は、日没までに返さなければならない。何故なら、それは唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼らは何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼らが私ヤハウエイに向かって叫ぶならば、私は聞く。私は憐れみ深いからである。』 『君の敵の牛 あるいはロバが迷っているのに出会ったら、必ず彼の元に連れ戻さなければならない。もし、彼を憎むもののロバが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさなければならない』 利害を共にする物同士の愛としてのファリアの閉鎖性を打ち破って、利害を異にするものにまで、愛そうとするアガペーは、旧約に書かれています。 どうして困っている敵を助けるのかという理由が、おわかりになったと思います。 何故 当てにせず人に貸すかという理由が、おわかりになったと思います。

sono-higurashi
質問者

お礼

意表を衝かれました。こんな具合に読むのですか。これこそkigurumiワールド、みたいな……。 背景に出エジプト記、22:21を感知するのですね。新約には「愛しなさい」が10ヶ所以上出てきますが、全ての「愛しなさい」を国語辞典がいう共通した「愛しなさい」で読むのは横着で、こうして一ヶ所ずつ固有の意味付けをしていく読み方は成立すると思いました。キリスト教指導者層が喜びそうな読み方に思えます。 ルカの書き手や指導者層は、こういう読み方を一番歓迎する筈だと思いますが、私の見るところ、宗教界には不可解が多いので果たしてどんなものでしようか。 この質問に即していえば、ご回答は質問文の5の「その他」に当たると判断しました。この判断が誤っているときはご一報下さいまし。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 神道に関して、その後分かったこと。 ・記紀神話関係の由緒正しい神は天を住処とし、「田の神」みたいな土俗的な神は深山や森の深くを住処としている?、らしい。そのために注連縄を張り、結界を作る?。 ・神は、祭りの期間は神社の「御神体」に宿っている?、らしい。そのために御神体のない神社はなく、御神体との対面は神主ですら出来ない。 ・ 人間の犠牲は伝承だけなら全国的に多くの神社にある。祭りの中には人間の犠牲を模擬化したものが珍しくない。但し、遡って史実か否かを検証しようとすると闇に消える。学会では両論ある。

  • katyan1234
  • ベストアンサー率18% (347/1849)
回答No.3

>何も当てにしないで貸しなさい。 これはその方からもらおうとか考えないで・・・と言う意味 >たくさんの報いがあり その結果いいことがありますよ。ここで言う意味は天国に行って神様から褒められるという事かな~ リビングバイブルでは天からご褒美をいただける。になってます

sono-higurashi
質問者

お礼

とてもよく分かりました。