• ベストアンサー

(神道) 神の在り処は? 他一問

神道といって一口に括れないときは氏子の多い教団なり神社なりの考え方で結構です。一人一教団みたいな得体のしれない宗教は対象外です。 1 通常、神は何処に存在していますか。神事に際し、神は何処に存在しますか。天空であるとか、神殿の何処であるとか、祭壇であるとか答えられますか。 2 世界を見ると神事には犠牲の儀式が珍しくありませんでした。歴史上、この風習は日本にもありましたか、今日でもありますか。あった場合、神の要求があって応じたのですか、人間の自発によって行われたのですか。 よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.3

1に関しては、『定本 柳田國男集』第十巻、筑摩書房、で詳しく論じております。その中でも『先祖の話』は神道を理解するのに圧巻です。この巻には他にも『日本の祭り』、『神道と民俗学』、『祭礼と世間』、『神道私見』、『神社のこと』、『人を神に祀る風習』が載っています。 中世までは、神が人間のところに来るのは、春と秋などの祭りの時だけで、その時に人間が神と一緒に食事をすることが、大変重要な儀式でした。それ以外の時は、神は空や深山の高いところに居られ、高みから降りてくる時の道しるべが、巨木のご神木であり、また、祭りの始めに焚かれるかがり火であったそうです。昔は日本では一日の始まりが日没の後の暗くなった時であり、かがり火はその祭りの日の始まりであることをも示していたそうです。その証拠に、今でも夕べとは今で言う昨日の夕方のことですね。ですから、昔の正月は、大晦日の夜から始まったのだそうです。そして、祭りが終わると再び神様は空や深山い帰って行ったそうです。したがって、普段はお宮にはいなかったのです。ところが、江戸時代の頃からその豪華なお宮に神様がいつも居られると誤解されるようになり、お百度参りのような奇習も出来てきたたそうです。 質問に直接関係はありませんが、古代の日本では、正月は一日(月立ち)の新月に始まったわけではなく、十五日の十五夜が正月だったそうです。その後中国から伝わってきた、月立ちを正月の元旦とする習慣を取り入れた後でも、日本人は小正月を十五夜の日に祝う祖先達の習慣を遺し続けたそうです。 以上は、書物ばかりでなく、足を使って日本中の古習を拾い集めてきた日本民俗学の実証的な研究により得られた結論のようです。私は自分自身が自然科学の研究者ですので、柳田國男のような、実証的で帰納的なアプローチの方のが説得力があり、好意的です。それに対して、どちらかと言うと書物だけに頼り、更に、演繹的なアプローチをする折口信夫の主張は、面白いことは面白いのですが、今ひとつ、説得されないところがあります。これはまあ、各学風の文化や個性の現れでもありましょうから、私風情がとやかく言うことではないかもしれません。 上の研究とは別に、平田篤胤の『霊能真柱』によると、ご先祖様は実はいつも我々の周りにいて、こちらを見ているそうです。こちらからご先祖様が見えないのは、丁度簾の中を外から見えないのと同じだ、と言っております。篤胤は彼の先生の本折宣長の意見に反対でした。その宣長は、ご先祖様は黄泉の国に居られ、盆暮れに帰って来ると主張していました。 2に関しては、柳田國男は全国の生け贄に関する言い伝えや古書を一杯調べ、少なくとも人間の生け贄が本当に在ったとは考え難いと言っております。 上で紹介した柳田國男の全集を図書館などで、第十巻ばかりでなく、他の巻も調べていると、いろいろな面白いことが書いてありますよ。

sono-higurashi
質問者

お礼

どちらかというと、教団や神社などとして組織化されていない謂わば個々の日本人が思い描く原初的な神像に重心のあるご回答なのかなと読みました。もちろんそれで質問に適っています。 1 通常、神は天空や深山に存在し、儀式によって身近な何処かに呼び寄せられ、祭の期間だけ留まるのですね。多分、陰暦の場合、待ち望まれている行事は月の出(日没)を待って早々に開始されるのが世界共通で、人間の心理に適っているのだと思います。待ち望んでいた行事は日付が変わった瞬間に開始したくなるのが人情みたいです。 2 もともとは神託を伺う毎に神殿を造るのが正式なのではないでしょうか。粗略なものしか造れない間はよかったですが、広壮な神殿を造れるようになるにつれ常設されるようになったのではないでしょうか。私の言うことですから保証はしません。立派な神殿には神が常在していると思いたくなるのは理解できます。願い事は何時生じるとも限らないので常在してくれないと不便です。 3 祖神の存在場所には最少でも平田篤胤説と本居宣長説の2説あることが分かりました。今日の仏教は本居説に近そうです。 4 日本には人間はもとより、哺乳動物の本格的な犠牲の儀がありましたか。農耕民族には馴染みにくそうですが、私の見当ですから当てにはなりません。 5 『定本 柳田國男集』第十巻、筑摩書房は少なくとも存在を確認し、何が書いてあるのか、ぱらぱら程度には確認しておくことを約束します。 有り難うございます。またの機会にもよろしくお願いします。

その他の回答 (14)

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.5

#3です。 >願い事は何時生じるとも限らないので常在してくれないと不便です。 昔の神道でのお祈りの仕方は、決して願いことを称えないのだと、柳田國男は言っております。ご先祖様は、貴方にどういうことが叶えば貴方が幸せになれるかを、一々こちらから教えなくてもお分かりになっておられるそうです。ですから、たとえそこに神が居られなくても、神殿で神に祈る時には、身ばかりでなく心も清めて、無念無想で拝礼するものだと昔の日本人は考えていたそうです。 前にも書きましたが、お百度参りなどは本来の神道とは馴染まないのだと、柳田國男は言っております。

sono-higurashi
質問者

お礼

人品の卑しいところが出てしまいました。神社仏閣といえば願い事に違いなかろうと思っていました。 してみると、昔の日本人はがつがつせず、物欲し気でなく偉いものでした。No.3と併せ読むと、江戸時代の何処かで卑しくなったのですね。今や、よろず願い事賜り所の感があります。いや、他人様のことはいうまいぞ。 わざわざ誤りの指摘と訂正を有り難うございました。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.4

>> 1 通常、神は何処に存在していますか。 霊界に富士山のような高い山がありその山の8合目から6合目付近に住んでますね。 >>2 世界を見ると神事には犠牲の儀式が珍しくありませんでした。歴史上、この風習は日本にもありましたか、今日でもありますか。 日本神道には生贄の儀式はありません。それ故、仏教も自然に受け入れたのですね。 生贄の儀式というのは神々の世界にはないものです。高級な神々は生贄の儀式を忌み嫌います。そのようなところに降臨することはありません。実際は、悪魔や悪霊、たたり神と呼ばれるものの惑わしですね。それを信じたということですからレベルの低い話なのですね。 逆に言えば、日本神道は世界の中でも格式の高い宗教だということですね。 ちなみにイエスは生贄を商売にしているものに怒りをぶつけて、その結果の処刑でしたね。西洋にも立派な神もいたということですね。

sono-higurashi
質問者

補足

ご回答を有り難うございます。 1-1 霊界とは現代の物理学者がいう宇宙空間の一部にあるのですか、それとは共通部分がないのですか。 1-2 霊界に関する、この考え方の出所は分かりますか。 事情が許せばご返事が欲しいです。 何の根拠がある訳ではありませんが日本に犠牲の儀の風習はなかったような印象があります。日本だからというのではなく、農耕民族の発想からは出難い儀式なのだと推理します。この推理の当否は今でなくともよいですが、知っておきたいことの一つです。

noname#149752
noname#149752
回答No.2
sono-higurashi
質問者

お礼

折角ですが当面の私には何の参考にもなりません。きっと、誰か他の方が参考にしてくれるでしょう。 一冊の本を読了するには何層もの読書の入れ子構造に捕まるのを知らない訳ではありませんが、私の能力では到底、折口信夫の順番は来そうにありません。 大体、何から派生してこんな質問をしているのかすら判らなくなっています。つまり今ですら帰る地点が判らなくなっているのです。これは私の勝手ですが。 現在、喉が渇いている人間には浄水場の仕組みを教えてくれる人よりも蛇口の在り処を教えてくれる人の方が有り難いです。 可愛気のない返事で済みません。

  • kt1965
  • ベストアンサー率34% (116/339)
回答No.1

1.「皇室神道」では、汎神論ではなく太陽神「アマテラス」を祀っているとされています。しかしながら、「出雲神道」では汎神論です。それは、暦にも残っている通り、「神無月」から分かるように「やおろずの神」が出雲に集まって会議を開くということから残っています。 現在では、神事などで授かるものとして、鏡がありますが、これは太陽神であるアマテラスを祭ったものであるとされています。 2.日本にもあったようですね。「人柱」と呼ばれるものです、古くは大和朝廷以前の大和地域で。伝承では、大和地域では「埴輪」の形で人柱の制度を辞めたとされています。佛教伝来後、この制度は終わりになりました。釈迦の骨などを治める仏舎利などがそれに変ったためです。 「神の要求だったのか?」はたまた、「自発的なものだったのか?」は定かではないですね。地域を治める豪族などが、巫女や神官のアドバイスで決めていたと想像されています。これは、古代ギリシアの神託に近いものだったろうと推定されています。

sono-higurashi
質問者

補足

ご回答、有り難うございます。知識がまるでないもので確認させて下さいませ。 1-1 .「皇室神道」では、通常「アマテラス」は太陽の中に存在しているのですか。鏡の中に宿っているのですか。鏡そのものが「アマテラス」なのですか。神事があるときも、ないときも、そこに存在しているのですか。 それとも、この件には誰も、はっきりした認識がないのですか。 1-2 「出雲神道」の場合、一例として「へっつい(竈)」にも神が存在するのだろうと思いますが、この神は「へっつい(竈)」の中に存在すると考えてよいですか。神無月には不在になるのですね。  古代ギリシャの神々は天空に存在するために、祭壇は戸外に設けたそうです。犠牲の香と煙が真っ直ぐ天に昇るためには屋内では不都合なのだそうです。神道には、こういうはっきりした認識はないのですか。 2-1 直接ではなく間接的にでもよいのですが、「人柱」は言葉だけでなく史実として事例が確認されているのですか。 2-2 「埴輪」は「殉死」の変形ではないのですか。「殉死」とは別に「犠牲」の代用としても用いられたことが判っているのですか。 事情が許せばご返事が欲しいです。よろしくお願いします。

関連するQ&A

  • 「普通名詞としての神」に祈ること

    私は、カトリックの信者ですが、仏教や神道をはじめ他宗教にも深い共感を持ち、家には祖父母の位牌を収めた仏壇と父のためのカトリックの祭壇を置き、毎朝晩全部に手を合わせています。 又、「特定の宗教の神」ではなく、「普通名詞としての神」に対して信仰深かった祖母の影響もあり、私も「神」というものを、「特定宗教の神」としてではなく、全ての宗教に共通した超越的存在であるという見方をしており、カトリックであることは、単に便宜的なアクセスの方法としてしか考えていません。 日本人が、本当は一般的な意味での(つまり普通名詞としての)神仏や大自然や先祖などに対して畏敬の念~ある意味での「宗教心」~を持っているにも関わらず、一方では特定宗教に入信することに対して強いアレルギーを持っているのと、相通じるものがあると思います。 残念ながら、私たちが「神」にアクセスするためには、通常はいずれかの宗教を介してのみ可能だと思いますが、あなたは、以上私が説明したような「特定宗教の神」ではない「普通名詞としての神」に祈ることに対して、どのように思われますか?又、もし、そのようなことが可能なら、それはどのような方法ですか?

  • 「神の存在証明」やってみましょうか その4

    現在の日本には固有の神があるのに参考書が西洋だ。 それは仕方ない。 むしろ神にすら疑いを抱く風習がなかったことを美徳とするのが良いだろう。 さて、私の命題は人間の追及で、信じるとしたら神の事でなく人間を信じる取り組みだった。 そして、個人的に無量光という「観念の純粋な光」に到達した。 神は考えたことがなかった。 しかしだ、その純粋な光が意志を持ち私に話しかけていることに気が付くと、日本人であるゆえに、ごく自然に「アマテラス」と答える。 自己の存在の確信、これだけでも実は骨が折れる哲学の命題で、人間であると教育で刷り込みを受けた自覚だけだと中途半端なんだよ。その教育自体が宗教だ。 仏教様式で取り組んだ、探求で無量光に到達したら、自己の自覚でもれなく付録として神様がお友達になったのさ。 はっきりりって、そんなこと考えたことなかった。 ただ、優しい風のささやきに乗せて、信じるなら神でなく人のことだと、教えを受けてきた。 さて、アマテラスさん、とかしこまって話しかける場合には、独自の心構えがある。 アマテラスさんは、神の名として現在アマテラスさんだけど、そう呼ばれる以前からも女神として別の名前があったことを踏まえないでアマテラスさんと呼ぶと極めて無礼なんだよ。 しかし、そこをかしこみ、踏まえたうえでアマテラスさんと呼ぶと納得する。 いわば、何者かすべてを知るわけではありませんが、神としてアマテラス様と呼ばせてください。 こういう態度が必要だ。 さて、参考書として西洋では神に名をつけるなと言われる。 オーマイゴッドというのはどうもギャグらしいけど、実際はこのような過程を経て、自らが思うままに神をたたえるための名は成立するんだよ。 そして、自らが神に話しかけることができるようになるんだ。 キリスト教系での欠点の一つは、そうした形で祭壇で交霊術を行わないで、処刑台で交霊を封鎖した。 祭っているのは神のむくろだ。 イエスの処刑で、神も死んだ神になったからだよ。 散漫な西洋系神学では、神の存在証明を命題にしながら、神の不在である天国を作りたがっている。したがって自分が昇天したい天国に関しての神学研究が今までの命題の実際だよ。 さて、哲学には、既存の命題に取り組むほかに、自らが命題を策案するという研究手法があります。 そっち系の考察でして、読書感想文的に考察をさらに進めるための「つっこみ」をお願いします。 解放された場所で、バカ話大歓迎です、集まるのはキチガイ集団ですので、回答者さんが一方的に自己の命題の備忘録のつもりで投稿しても歓迎です。助け合いですから。

  • 鳥居の起源

    鳥居の起源 鳥居の役割は天体観測の道具だったのではないかとの推測しています。 太陽の影や北極星の高度を測ることで、冬至の日と太陰暦の誤差を確かめようとしたのではないかと仮説です。 神様を一柱、二柱と数えるのも、太陽の影の観測に関係がありそうな気がします。 そこで質問ですが、鳥居の起源の様々な説を教えていただけませんか。 また、もし天体観測の道具だとしたら、鳥居の下に影や立ち位置を記録する素材や風習が残っているかもしれません。神社の施設や神道の儀式にお詳しい方で心当たりがあれば情報を下さい。

  • 神道の神様は英語で

    神道の神様は、八百万の神と言うだけあって沢山いますよね。 アメリカ人に、日本には800万の神様(god)がいると説明したら、 「800万人それぞれが違う神様を信仰しているのか?」と驚かれました。 ※実際には、私は八百万とは「沢山」と言う意味だということは承知していますが(笑) 恐らく、アメリカ人は、1宗教につき1神しかいないと、考えるからだと思います。つまり日本には800万通りの宗教があると解釈したのでしょう。 そこで、日本のような多神教の神はどのように表現したらよいでしょうか。

  • 神道で誰かが神とみなされる裏付けは何なのでしょう。

     この夏は、靖国問題などが、ずいぶんマスコミなどで語られました。そういった問題の議論に触れて疑問に思ったのが、「神道で誰かが神とみなされる裏付けは何なのか」、ということです。人が死んでも、みな神様として祭ってもらえるのではないですよね?(それとも神道では、死んだ人はみな神様で、それを祭る神社があるかないかだけが違うのでしょうか)。  靖国神社に祭られている英霊は神様なのですが、誰が神様であると決めた、あるいは権威付けしたのでしょう。天皇陛下なのでしょうか。それとも、国会でしょうか?厚生省?神社の神官さん? どういう根拠で彼らは神になったのでしょう。  同じようなことは、徳川家康・豊臣秀吉・菅原道真などにもいえると思うのですが・・・。  どなたか教えていただければ幸いです。

  • 神道から見た一神教の神

    「八百万の神」と言う概念がある神道から見れば、キリストもアッラーも仏陀も全て「八百万の神」として数え受け入れるのでしょうか?

  • 国家神道の三人の神様とは?

    ラジオを聞いていたら国家神道について話されていました。 その方が仰るには 「戦前の国家神道というのは八百万の神という位に 沢山の神様がいた。 しかしマッカーサーの指示により 3人にしぼられた」 ということでした。 その三人の神様というのは どのような神様なんですか?

  • 神教と神道の違いは?

    神教と神道の違いは? また徳川慶喜は、なぜお墓が仏教式ではないのでしょうか? 徳川家と寛永寺は、仏教なのに

  • 神道と仏教について、 訂正があればお願いします 神

    神道と仏教について、 訂正があればお願いします 神道は、公共の宗教公共の利益を追求する 仏教は、個人の利益を追求する 聖徳太子の時代には、神道しかなかった そのため、個人の幸せが無視され 個人は、周りの人たちに迷惑をかけないように、自分を犠牲に続けた まさに今の日本と似ている それでは、国民が苦しむだけだと考えた聖徳太子は 個人の幸せを追求する仏教を 唐の大陸から採用した これは合っていますか? 訂正があればお願いします 根拠となるURLを貼ってください

  • マスコミは神道(神教)を理解してる?

    朝日新聞から始まる靖国参拝の問題提議によって 中韓が、それに便乗して、日本を叩きに叩きまくる。 A級戦犯(戦勝国のリンチ裁判での設定)に問題を 置くようだが、そもそも神道の意味も理解してないで する気もなく、ただ騒ぎまくりやがる!! それに対して毎年毎年、日本に拠点(本社)を置く マスメディアが、靖国を目の敵にして政治家が 靖国参拝を批判する報道について、どう感じますか? 奴らは絶対に神道を理解してないだろ!? 根本的に神道を理解が出来ていないマスメディアが 偏向報道なしに純粋に報道出来るの? めっちゃ偏った解釈による論評や社説を行うのもエエが、 反対の意見もある事も報道すべきでは、あるまいか? 特に酷いぞ!朝日テレビの『スーパーJチャンネル』 太田氏の考え方を総論として報道してるじゃね~か! 太田氏が中韓よりの発言をするなら、その反対の 考え方を持つコメンテーターの起用をして主観的では なく客観的な報道をすべきではないか? なぜ?今のマスメディアは、政府の考え方・姿勢に対しての批判ばかりする? 多くの国民が選んだ政治家をバカにし過ぎじゃね~か? それは、イコール国民をアホにしている事に、なるまいか?