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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:イエスの系図の中で、本来なら死罪の(もしくは死ぬ運命だった)人間が多いのは偶然でしょうか?)

イエスの系図における死罪の人々の偶然な生存について

kigurumiの回答

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.2

まず、えっと、、、 聖書では神はアブラハムの信仰を試したため、初子を自分の罪を清めるための生贄として捧げよと命令したことになっております。 神の命令に違反することは神に背くことになります。 エジプトやバビロンでは、生贄の儀式として初子を捧げる風習があったそうです。 ですが、殺していたのではなく、聖職者にした  あるいは 儀式をする際に、長男が借り出されていた って意味じゃないかと。 この民族は移動する民族でしたので、幕屋を担いで次の移動先に持っていってました。 その際 レビ族以外にも担がなければ移動できなかったのですが、聖なるものとされるものに一般の人がタッチすると穢れるとされ、それで一般人の中で長男は神から祝福された者に与えられた聖なる子として、移動の際に神輿を担ぐため借り出されていたのではないか と。 日本の神輿ももしかしたら昔は長男のみ担げたのかもしれない。 で、恐らくですが、バビロン捕囚以降にアブラハムとイサクのこの物語は作られたのではないか と。 その頃は、神殿がありましたから、移動しないので、初子を移動の際に借り出すってことをする必要が無く、従って初子を捧げるということは今はしていない理由として、そのようなエピソードがあったのと、神の命令にはあくまで忠実ってことを言うために、作られた物語じゃないか と。 キリスト教も、子供を神に捧げるってのは、子供を聖職者にするって意味でしょ? 神に捧げるため殺しはしないでしょ? 二度と会えない閉ざされた世界に自分の大事な長男を捧げる=信仰深い って評価されたでしょ? ユダは姦淫していない。 確か妻死んでいたと思います。 嫁を家族の誰かと結婚させるわけですが、息子限定って決まりは無かったと思います。 タマルと死んだ長男の間にできるはずだった子供は、タマルとユダの間にできた子供として生まれる というわけです。 ユダは自分の分身の息子たちが次々死ぬので、3番目の自分の分身まで死なれては困るってことで、タマルと結婚させなかったと思える。 ですが、3番目と長男の子供が残るわけで、タマルは間違えていないとなる。 最初から、未亡人タマルを嫁にしたかったでしょうけど、その頃はまだユダの妻は生きていたじゃないか と。 古代では自分の血筋が重要視されており、自分の分身が子供であるという認識で、自分の分身は女を通してこの世にまた誕生するという考えがあった。 ところが中には女の子が生まれることもあった。 これは当時の哲学者の頭を悩ませる問題だったそうです。 男の子供は男になるはずなのに、どうして女が生まれるのだ???と。 聖職者ヨハネは、ヘロデは姦淫をしていると批判したことになっています。 これはヘロデが兄か弟の妻だった人を嫁にもらったから。 夫が生きているうちは、未亡人じゃないので、その生きている男の妻を自分の妻とすることはできないんです。 死んでいたらオッケーです。 ラハブってのが、なんでバビロンの神話の中に登場するティアマートが生み出した獣が、ここでラハブとして物語に登場するんでしょうね。 アブラハムって今のイラクのある地域の出身ですよね。 ということは、当然、聖書の元ネタの物語を保有していた民族の出身。 従って、ラハブが聖書にも出てくるわけです。 神に対して反乱を起こした神々と戦うために、ティアマートが生み出した獣 ラハブ。 「ラハブ 懲らしめちゃいなさい」として懲らしめの役割を持っているラハブちゃん。 ティアマートの分身でもあるわけで、、、 エリコの住民、もしかして海の民の分派だったのかもしれないですね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E3%81%AE%E6%B0%91 ペリシテ人とユダヤ人って辿ると同じ人を祖とするんですけどね。 作者が何を言いたかったのかは、わかりません。 が、実在していたとしたら、女神はヨシア側に微笑んだってことを言いたかったのかも。 ダビデは厳密には姦淫を犯していない。 バトシェバの夫を殺した後、結婚している。 洗礼者ヨハネがヘロデが姦淫をしたと言ったことを姦淫の意味だとすればね。 イエスは姦淫をしたという女を救ったとありますよね。 ダニエルでしたっけ? あれに好きな女が自分になびかなかったから姦淫をしたとした長老かなにかが登場して裁判にかけて性交を拒んだ女を殺そうと図り、ダニエルがその嘘を見破り女を救ったってストーリーがありますね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%8A_(%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%AB%E6%9B%B8) ダビデも覗き屋の立場として後に登場する。 繰り返し語られるストーリー。 果てはマグダラのマリアは売春婦で、彼女をイエスが救ったって話にまでなっちゃって。 「おいおい  あなたの罪は許されたって」もしかして、罪も無いのに罪人だとされたのかもしれないぞー。 罪を犯したと決め付けるなーー イエスのばっかー って思いました。 マグダラのマリアは後に冤罪を晴らされたけどね。 ソロモンのモレク。 これはわからないです。 ローマがエルサレム神殿を破壊したあとも、ユダヤ人は初子を生贄として捧げていたため、ローマはわざわざ生贄の儀式を禁止する法律を制定したらしいです。 ですが、誤解かも。 キリスト教徒は血族が無い人も兄弟姉妹と呼ぶことから、近親相姦をしているとされ、ぶどう酒とパンの儀式を見て、人を殺してその血を飲み、人肉を食っていえるとされ、鬼畜どもがとローマ帝国により迫害されましたよね。 これに似たようなものかも。 モレクってバアルで、バアルはヤハウエイなので、結局同一の神を信仰しているってことにもなりますし。 レハベアム。 これは、、、 ソロモンの死後、聖職者同士で権力争いをして、自分の派閥が推す者を王にすれば政権が取れると、今でいうならダライラマにまつわる政権争いと同じことが起きたらしいんですね。 だいたい その神話見ても、勝ったほうのが神話を作っており、負けた方を悪者に設定して悪いことをしたという話にしているじゃないですか。 旧約聖書を読んでて、「あれ?」って思うことがありませんか? 例えば創世記では少なくとも神は2度は人間を作っていることになっている。 アダム一家以外に別の人間を作っていることになる。 別の人間 つまり原罪を負っていない人間と原罪を負っているとされる人間がいることになっている。 日本人は原罪を負っていないので、洪水に見舞われなかった人々の子孫? と考えるより、、、 いろいろな派閥があり、どの派閥により物語が違うらしんです。 例えば、時代によってどの派閥が権力をもったかで、聖職者が政治支配者より上になっていたり、政治支配者の方が聖職者より権力を持っていたとして描かれていたり。 あとは思想家は、古代の有名人とされる人の名前をもって、モンが足りを作ったそうです。 だから、実際ダビデやソロモンがやったとされる内容も、実は本人はやってはおらず、後世の思想家の考えとして描かれている場合がある。 で、どれが本当の物語なのか誰もわからなかったそうです。 従って聖書を編纂するとき、「恐らくこれ ソロモンが実際にやったものじゃないか?」「ダビデが実際やったことじゃないか」と思えるものを、聖典に加えたらしいです。 しかし、真実を知る人はいないので、聖典に入れなかった物語も残したのだそうです。 聖典に入れたものは真実の物語とは限らないとしたから、残したわけですよね。 神に関することが書かれた書物はたとえ偽者だと思えても、絶対に燃やしてはならない という掟があったのもそのためじゃないか と。 キリスト教のある一派は、「これが真実 それ以外は偽物語だから、我々が真実と決定した物以外の物語はこの世から抹殺」という方針だったので、神に関することが書かれている書物でも、自分たちが認めなかった書物は燃やさせた。 他の物語が無くなれば、自分たちの主張する物語のみ残り、それを支持する自分が唯一の正義になりえる ってことで、工作したわけです。 ところが、神に関する書物を燃やすことは、神への最大の背信行為だとする掟を守り、燃やさなかった人もいたわけです。 秘密裏に隠した。 公にすると焚書命令を出した上司に殺される時代でしたから。 工作によりキリスト教の独占権を取った派閥は、もう安泰だと思って2千年近く独占政治をし続けたわけです。 ところが、、、出てきちゃいました。 あるはあるは、古代のキリスト教は1つの思想ではなく、今とは比べ物にならないほど多数のキリスト教があったとわかった。 神は隠したものも表にさらけ出し裁く。 うまいこといいますよね。 隠しても無駄だったってことですね。 工作失敗。 神を殺したはずが、神は死んでいなかったようで、今は神殺しをたくらんだ派閥 V S神との戦争状態。 神が勝つか、神になりすましたキリスト教が勝つか。 傍観してます。笑 あとですね。 ユダヤ教は聖書通りのイエスが存在していたことを認めていません。 だってこれだけ不利になるような物語を残した民族が、自分たちの不利になるようなイエスの実在を残さないはずないでしょ? 誰も実在を知らなかったのなら、すっごい小さな地域で細々と活動していたことになるじゃないですか。 エルサレムに入場するとき、人々はイエスを見たはずですよね。 誰も知らない 見ていない。 どうして? だって実在しない人物だから。 ユダヤの歴史の隅々まで知っていたヨセフスすら、イエスが実在したことを記録に残していない。 だって存在しなかったことを歴史家ヨセフスは記録として残せませんよね? ローマの資料にピラトの名前はある。がイエスは無い。 その実在しない人の系図がどうしてあるのか? しかも 書物によって系図が違う。 幾多の戦争で系図が残せ無くなったため というより、イエスは実在しておらず、政権を取ろうとする人がでっちあげたというのが素直な見方じゃないか と。 日本書紀でも混乱が見られますよね。 1000年近く生きたようになってしまっている。 正当性を示すために後世に作られたわけだが、もっともらしいようで、現実 人間 そんなに生きらないこと考慮すれば、系図は正しいことが書かれているわけじゃあないとわかります。 ですが、天皇を神にしたてあげることで、1000年近く生きることが可能だとしている。 で、聖書を読むとき、???って箇所があれば、それは少なくとも派閥争いがあったって推測して、どの派閥の言い分だろう?って考えた方がいいと思うんですね。

zatousan
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。補足欄からの続きです。 補足欄では気がつけば、クダクダとすいませんキグルミ様の胸をかりるつもりで、ガンガン突っ込んでしまいました。 >「おいおい  あなたの罪は許されたって」もしかして、罪も無いのに罪人だとされたのかもしれないぞー。 >罪を犯したと決め付けるなーー イエスのばっかー って思いました。 ここは爆笑しました。 確かに千里眼でも持ってなきゃ、「んな勝手に、、、。」ですよね。 >モレクってバアルで、バアルはヤハウエイなので、結局同一の神を信仰しているってことにもなりますし 名前は一緒でも、同姓同名って事なんでしょうかね? そこら辺は僕にはサッパリ。 ただやっぱり、人身御供はしたんだと思います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%AC%E3%82%AF <だいたい その神話見ても、勝ったほうのが神話を作っており、負けた方を悪者に設定して悪いことをしたという話にしているじゃないですか。> 確かに、仰る通り、テロリスト・ダビデが聖人になっていたり、おかしな表現が多いですが、レハベアムは悪人にされていますね。 これも、派閥争いの結果でしょうかね? ソロモン派は途中で、聖書記録係りに裏切られた? <例えば創世記では少なくとも神は2度は人間を作っていることになっている。> カインの結婚相手がいるからですか? 確かに、アダムとイヴ以外に居ない筈の人達がいますね。 そして、最後までご回答拝読しました。 う~ん、それにしても流石ですね~、インド関係だったら、もしかしたら僕の方が知っているかも知れませんが、イスラエル近郊の神話の知識ではかないませんよ。 またなにか質問があった時は、よろしくお願い致します。

zatousan
質問者

補足

待ってました! 着ぐるみさん! 今回も、自由に見解を述べますと、 >キリスト教も、子供を神に捧げるってのは、子供を聖職者にするって意味でしょ? >神に捧げるため殺しはしないでしょ? 創世記22章9~12節 全て引用すると長いので、10節だけ、 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ アブラハムが手を差し伸べ、刃物を取ってその子を殺そうとした時、 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >で、恐らくですが、バビロン捕囚以降にアブラハムとイサクのこの物語は作られたのではないか と。 僕も資料仮説を信じているので、そうだと思います。 >ユダは姦淫していない。 >確か妻死んでいたと思います。 はい、妻は死んでいます。 しかし、タマルは3男と結婚の約束(=婚約)していましたよね。 レビ記20章12節 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 12)子の妻と寝る者は、ふたり共に必ず殺されなければならない。彼らは道ならぬことをしたので、その血は彼らに帰するであろう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ また、申命記22章25節 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 25)しかし、男が、人と婚約した女に野で会い、その女を捕えてこれを犯したならば、その男だけを殺さなければならない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ なので、どちらにしても、ユダは死罪かと思いましたかどうでしょうか? また、婚前交渉の立場からみると、(結婚してませんでしたよね、ユダとタマル)。 創世記34章1~2節 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 1)レアがヤコブに産んだ娘デナはその地の女たちに会おうと出かけて行ったが、 2)その地のつかさ、ヒビびとハモルの子シケムが彼女を見て、引き入れ、これと寝てはずかしめた。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 自由恋愛をしたシケム君。 真剣に愛していました、結婚を申し込みます。 創世記34章4節 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 4)シケムは父ハモルに言った、「この娘をわたしの妻にめとってください」。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ しかしそれは、 創世記34章 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 7)ヤコブの子らは野から帰り、この事を聞いて、悲しみ、かつ非常に怒った。シケムがヤコブの娘と寝て、イスラエルに愚かなことをしたためで、こんなことは、してはならぬ事だからである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ という訳で、やっぱり姦淫だと思うんですがどうでしょうか? ラハブは、なんと、バビロン神話にも登場するんですか? 聖書では、ご存知の通り遊女です。 ダビデは、アビガイルを妻にした時は、夫を殺してのあとでしたが、バテシバとは違います。後にバテシバと結婚しましたが、初めての出会いは、まだバテシバの旦那が存命中だった筈です。しかも妊娠させてしまったので、冷や汗だったようです。初めは誤魔化してウリヤの子としようとしたものの、上手くいかず結局殺したんでしたね。 長いのでサムエル記下11章をご存知とは思いますが再度お読みいただければご理解いただけると思います。 またサムエル記下の12章には(預言者)ナタンが来てダビデを責めています。 ダビデ自身詩篇の中で苦しい詩を述べています。 詩篇第1巻38篇7節 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 7)わたしの腰はことごとく焼け、わたしの肉には全きところがありません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 不倫の後には腰でも神の火で焼かれる悪夢を見たんでしょうね。 お礼欄に続きます。

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     クリスチャンの方は エレミヤ書31:31以降をどう解釈されますか?  新約聖書においても このエレミヤ書のくだりは取り上げられています。  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち たたき台として 次です:  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかも昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示しています。  板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われます。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが 指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。

  • 神みづからによるみづからのアウフヘーベン

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。