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イエスの系図における死罪の人々の偶然な生存について
sennin-の回答
- sennin-
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zatousanさん 「列王記上11章ソロモンの背信とその結果」を引用しているけど 12節からこんなことが記述されていますよ。 あなたが生きている間は父ダビデのゆえにそうしないでおくが、あなたの息子の時代には その手から王国を裂いて取り上げる。 ただし、王国全部を裂いて取り上げることはしない わが僕ダビデのゆえに、わたしが選んだ都エルサレムのゆえに、あなたの息子に一つの部族を与える。
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お礼
こんにちは、ご回答ありがとうございます。 >12節からこんなことが記述されていますよ。 それは、知っていますが、、、、。 回答者様のご引用された聖句が示した通り、王国を引き裂く為にソロモンに敵ができましたね。 列王記11章14節と23節 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 14)こうして主はエドムびとハダデを起して、ソロモンの敵とされた。彼はエドムの王家の者であった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 23)神はまたエリアダの子レゾンを起してソロモンの敵とされた。彼はその主人ゾバの王ハダデゼルのもとを逃げ去った者であった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ また、その後王国は衰退していきますが、それと悪人が沢山出るのと関係あるのでしょうか? それとイエスの系図に死罪もしくは死ぬ運命だったはずの人が多いのと関係ありますか? 改めてご回答ありがとうございます。