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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:イエスの系図の中で、本来なら死罪の(もしくは死ぬ運命だった)人間が多いのは偶然でしょうか?)

イエスの系図における死罪の人々の偶然な生存について

kigurumiの回答

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  • kigurumi
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回答No.5

kigurumiです。 >モレクの事ですよね? 僕には何時まで、あれが続いていたのかサッパリです。 私もさっぱりです。 http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/first.html ハドリアヌス(在位:117年 - 138年)が勅令で禁止したと書いてありますよね。 カソリックの信者とは、確か訳についてもめたのだったと思います。 ユダヤ人という言葉で原書は書かれておらず、ヘブライ人とかそういう別な名前で原書は書かれていたような。 (喧嘩するため原書が書かれているサイトを表示したところ、相手の方が民族名について指摘され、ユダヤ人を示しているわけじゃあないと言っていた。 モレクを信仰しているツロの王は、ダビデの時代、王宮と神殿を建設する際に、レバノン杉を送り職人も送ったらしいです。 >モレクとエロヒムは名前が似ていても一応別の神様と考えた方が良いような気がするんですが、どうなんでしょうか? 名前というより特徴が同じだから。 伝言ゲームによるズレなのかもしれませんが、インド方面のダキニの概念が他の地方に入ったとき、モレクやヤハウエイになったんじゃないかと。 イエス作家だってイエスに、「私が人々を救いにやってきたとでも思っているのか。そうではない。地上に火を放ち裁くためにやってきた。この地上が既に火が放たれ浄化されていたらどんなによかったか」って言わせていますよね。 火は穢れを清めるという概念があった。 だからウイルスに感染した肉かもしれないので、半焼けじゃなくちゃんと火を通してウイルスを殺してから食べろって言われるでしょ。 火葬にするのも、病原菌を殺さないと、集団が感染して人口が減ってしまっては困るからでしょ? キリスト教は肉体の復活を信じているので、火葬にはしないそうですが。 >>>レビ記って祭祀職の人に対する法律ですよね。 >全てがそうではありませんよ。 20章は「イスラエルの全ての人に言いなさい。」で始まっています。章によってはレビ人専用の掟が書かれた章もあります。 私はレビ記の内容って聖職者向けのハウツーマニュアルだと思っているんですね。 レビ族が宗教的にも政治的にも支配権を持っていたとき、人民をどう指導するかは聖職者にかかっていたが、派遣されるレビによって言うことが違ったら困るじゃないですか。 カソリックも宗教規範を作り思想を統一していますので、バチカンから派遣される人によって、同じ箇所なのに、説教をする人によって違うってことは無いでしょ? 信者をどう導くかの異口同音にするため、規範 つまりマニュアルを作って教育して、認定された人が派遣されるので、どの聖職者が言っても全く同じ指導の仕方になるってシステムになっている。 >ユダとタマル、どっちもレビ記的には罪人なので、どっこいどっこいですね。 長男・次男が罪人すぎたので、も神によって命を取り上げらた、もしくはユダ自身が重大な罪を犯したから、彼の息子を神が取り上げた というのが古代の解釈。 智恵文学で、ヨブの物語がありますよね。 ヨブは息子たちが死んでいる。 息子たちは死ぬわ、家畜は全滅するわ 家を失うわで散々な目にあったとき、友人の一人は「自分では気づかないが、神は全てお見通して、神が凝らし目をするほどの重大な罪をおかしていたんだよ きっと」っと言った。 子供を失うってのは、必ず理由があるはずだって、古代のこの民族は因果関係があると思っていた。 マリアの両親は子供ができず、神殿に行って神様に子供をさずけてくださいと祈りに行こうとしたが、聖職者は「お前たちに子供ができないのは、神がお前たちを呪っているからだ。神に呪われた者たちを神殿で祈らせることはできない」と追っ払った。 そのため、マリアの父親は荒れ野で罪を清めるために40日間修行したってなっています。 これがこの民族の価値観。 イエスの祖先に4人の悪女がいる とよく指摘されますが、女は関係ない。 男の子供は女を通して授かるとされるので、女は男の子供を体内で育成してこの世に排出する土壌みたいなものと捉えていたようです。 要は男。種次第ってことらしいです。 これでいくと、<イエスの祖先の4人の悪女>って言うのは着目が間違えていると思えるんですね。 イエスの祖先の沢山の神に背信する男たち ってのが的を得ていると思える。 >ここら辺が良く分からないのですが、デナの言い分はどうだったんでしょうね?  んーー  ヤコブは罪を犯して、民族の罪をとりのぞくため逃亡の旅に出て、井戸で(ヒエロスガモス再登場)ラケルを見初めますよね。 ラケルもヤコブを気に入ったが、すぐ合体せず、ヤコブはラバンの元で奉仕して、ラケルを娶ろうとした。 ところが7年ラバンに奉公したのに、ラバンはヤコブに長女レアを与えた。 レアはヤコブがラケルを欲していたと知っていたでしょうから、ラバンにヤコブに嫁げと言われて複雑だったかも。 結局 ヤコブって4人も妻持ったので、、、、ラケルのみ愛したわけじゃあなかったようです。 その第一婦人のレアが産んだ娘がダナ。 ダナのみ族長にならなかったのは、女性は土壌と考えられていたからじゃないかと。 土壌に種付けするときは、契約した後ってことじゃないかと。 ヤコブのように長年奉公してから嫁もらえってことかな? その頃、女性たちは家長に「あの男に嫁げ」と言われてどうだったのでしょうね。 日本は昔お見合いですらなく、結婚式で始めて夫となる人に会うってのは、普通だったらしいです。 そういう人にどう思ったかって聞いたことあります。 「好きもよいも悪いもない。 父親がそう命令したからそれに従ったまで。」とどの女性も答えてましたね。 従うことで生き延びるってことかしら?? ただ、娘を男に嫁がせるときは、それ相当の財産を持たせたでしょうから、家長が認めた男にのみに娘を与えて財産分けしたと思うので、父親は娘の結婚相手を吟味したでしょうし、娘も父親が太鼓判を押す相手なら と受け入れたんじゃないか と。 (ただ この時代、恐らく財産は母親から娘に引き継がれていたと思うので、より慎重に娘を嫁がせる男を選んだと思います。) >いや、最高権力者だったから、「なんてことを~~~~~、、、、あ、、誰も俺罰せれないじゃん。 じゃ好きにしよう。」だと、、、。 モーセの場合、殺人を犯し、誰もがモーセは殺人者だと知っていたのに、とがめられていませんよね? モーセはエジプトの女王の息子ですから、誰も文句言えなかった。 でもモーセは罪を感じ、集団から罪を取り払うために、エジプトから離れた。 モーセとダビデの格の違いが伺える。 モーセは宗教的指導者 兼 政治的指導者。 ダビデは政治的指導者でありながら、宗教的にも指導者になろうとした。 おもしろいですねぇ。 ここらあたりから、宗教的指導者の力が政治的指導者におさえつけられ、乗っ取られ出したんじゃないか と。 ダビデの時代から、ダビデが選んだ家を大祭司に据えて、それはユダヤ戦争の時代まで続いたんだったような気がします。 >子供を生んだという事が書かれていないので、よう分からないのですが、どうなんでしょうね? 外典のヨベル書に、カインはアダムとイヴの長女のアワンと結婚したと書かれています。 >もしかして、、、、という事は信者の方からすると、、、、質問文であげた人物全員、聖者なんでしょうか? 律法破っているけど。 アブラハムは今まであった人間を生贄にすることで、自らの罪を消すという風習を撤廃した人 という認識なんじゃないかと。 イサクはどちらかというと初子の方 つまり長男が偉いって言い分をするのに利用されただけのような。 神から救われたというよりも。。。 神は「たとえ疎まれても長男が偉い」みたいなことを言ったとされます。 だからイシュマルの方に寵愛を注ぎ、追放されたハガルとイシュマルが死なないように養った となっています。 イシュマルの方がイサクより前にイサクの子として生まれていますから。 ユダは、自分の犯した罪に気づいて清い状態の戻った手本の人って設定じゃないかと。 放蕩息子の帰還とか 信者に受けているじゃないですか。 放蕩 つまり 罪を犯したが、その息子が清い状態に戻る ってのが聖書のメインテーマじゃないかと。 ラハブは神官って設定じゃないかと。 だからラハブが選んだ男に祝福が与えられる。 つまり女神の地上の体現者ラハブが選んだものが生き延びる つまり 女神がこの民族に微笑んだってことじゃないかと。 日本も茅の輪の風習ありますよね。 恐らく子沢山のまじないの一種じゃないかと。 ソロモンは、、、、 異教の神の偶像を神殿に設置して崇拝していた人物 というおり、知能が高いための成功した偉大な政治家ってことじゃないか と。 ユデア方面は鉄が取れず、ヒッタイトと交易をして原材料を仕入れており、加工の技術はあったので、武器に加工して武器を近隣諸国に売りさばき、国に繁栄をもたらすことに成功をしたとすれば、交易先とに有効の証として、神殿に異教の偶像を設置し、各地から原材料を売りに来たり、武器を買いに来た商人たちが、故郷を離れた期間も信仰を保てるように図ったってことじゃないか と。 戦略家だぁ。 異教の人々が自分の信仰する神を拝むのはオッケーってすることで、「ソロモン なにしとる」と言われなかったんじゃないかと。 レハベハムは、宗教分裂の時代に生まれたのだと思えます。 本来ならソロモンは第二子ですから、長男がダビデの王位をひきつぐはずだったが、いろいろあってソロモンを押す派閥が勝利した。 ソロモン死ぬと、もう一度 支配権争奪戦に巻き込まれたんじゃないかと。 エッサイの子孫を否定する派閥が現れ、ぐちゃぐちゃになって、「じゃあ 俺たちエッサイ一族をリーダーとする集団で別の国を作る」ってことで、独立したんじゃないかと。 その独立した方がユデア つまり ユダヤ王国。 で、バビロンに捕囚された以降に、今までの言い伝えをとりまとめ、ユダヤ教を確立したんじゃないかと。 マニュアル(旧約聖書)が完成したのは、紀元1世紀頃だったらしいです。 そうした途端、ローマによって離散させられ、エルサレムから追い出されてしまいましたが。 神の民族に対する重罰ってことなんでしょうかねぇ・・・。 これ以降2000年も離散させられてしまって。。。 しかもまだ神殿を建設することを許してくれない。 こりゃ エッサイの枝以外から、メシアを出すしかないんじゃないかと。 大祭司の血筋 守られていると思うので、神の元に戻ってそこから神のいいつけ通り出すしかないんじゃないかと。

zatousan
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 お気づきだと思いますが、長文になったので、補足欄に返信しておきまし た。 解決不能と思われたんですが、なんとか解決!!! 改めて、御礼申し上げます。

zatousan
質問者

補足

いつもお世話になります。 >ユダヤ人という言葉で原書は書かれておらず、 そういえば、なんて名前だか忘れましたが、アレクサンドロス大王征統記にも別の民族名で書かれていました。 そういえば、ユダヤ人っていつ生まれた言葉なんでしょうね? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%BA%BA では、バビロン捕囚の時みたいですが、アレクサンドロス大王はそれより後の時代だし、、、。 >インド方面のダキニの概念が他の地方に入ったとき、モレクやヤハウエイになったんじゃないかと。 ダキニをご存知なんですね。 人身御供に関しては、伝言ゲームが原因なのか、昔は皆やっていたことなのか? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E8%BA%AB%E5%BE%A1%E4%BE%9B 他にも、ローマの歴史家タキトウスの著書「ゲルマーニア」でもゲルマン人が人身御供を行っていたことを記録していますから、世界中どこでも行っていたようにも感じられます。 >「私が人々を救いにやってきたとでも思っているのか。そうではない。 >地上に火を放ち裁くためにやってきた。この地上が既に火が放たれ浄化されていたらどんなによかったか」って言わせていますよね。 そこなんですが、、、これまた複雑怪奇なんです。 ルカ9章54~55節 イエス達一行、エルサレムに向かおうとするも、歓迎されないと、 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 54)弟子のヤコブとヨハネとはそれを見て言った、「主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」。 55)イエスは振り返って、彼らをおしかりになった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ルカ12章49節 (突然前触れも無く、) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 49)わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ どっちなの? 本音は? 混乱が起きています。 「後者の火=聖霊」つまり、「火が燃えている=人々が正義感に燃えている。」というオチでしょうか? 前者は、エリヤが大量殺人した天から降らす炎でしょうかね? 「後者の火」が燃え出すと、 ルカ12章51節 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 51)あなたがたは、わたしが平和をこの地上にもたらすためにきたと思っているのか。あなたがたに言っておく。そうではない。むしろ分裂である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 分裂してしまう、、、、、。 そんな正義感いりません。 和をもって尊しとするにしてください。 >火は穢れを清める ある意味合ってますよね。、モーセは、燃えないものなら(鍋等の金属製の物とか)、なんでもかんでも火を通せって。 >私はレビ記の内容って聖職者向けのハウツーマニュアル あ、言葉を取り違えていました。 そういう意味でのレビ人専用ですか。 それならそうですね。 >「好きもよいも悪いもない。 父親がそう命令したからそれに従ったまで。」とどの女性も答えてましたね。 僕も聞いたことありますが、嫌だったのに無理やりさせられたと言っていた人もいました。 人それぞれですが、やっぱり、おそろしいもんですね風習だからとなんの気兼ねも無くやれちゃう人って、、、。 >宗教的指導者の力が政治的指導者におさえつけられ、乗っ取られ出したんじゃないか と。 それは、僕も感じますね。 >外典のヨベル書に、カインはアダムとイヴの長女のアワンと結婚したと書かれています。 いつか、外典も読まんと、、、、神話フェチですから。でも図書館に無いから自費で買わないといけないんですね、、、。(泣) >アブラハムは~、 アブラハムからレハベアムまで、一応そう受け止めると、「悪くは無い人」になりますね。 <こりゃ エッサイの枝以外から、メシアを出すしかないんじゃないかと。> <大祭司の血筋 守られていると思うので、神の元に戻ってそこから神のいいつけ通り出すしかないんじゃないかと。> そもそも、エッサイの枝の考えかた自身、宗教指導者が政治的支配者に制圧されて、ダビデの家系について良い予言をする預言者の言葉しか残らなかったのかも? とも時々考えます。 ちゅうか、いい加減に聖書に頼らんで自分で考え~!でしょうか? 兎に角、何となく解決しました。 イエス先祖は悪人ではない(と思われている)。 だから僕の懸念は意味がないようです。 一応もう数日待ってから締め切ります。 改めてご回答ありがとうございました。

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     クリスチャンの方は エレミヤ書31:31以降をどう解釈されますか?  新約聖書においても このエレミヤ書のくだりは取り上げられています。  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち たたき台として 次です:  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかも昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示しています。  板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われます。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが 指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。

  • 神みづからによるみづからのアウフヘーベン

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。