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牛の渡来と生態について(古墳時代?)
goo-par1732の回答
家畜としての牛は、古墳時代、おそらくその後半に朝鮮半島からの渡来民が連れてきたとされています。 古墳時代後半にはかなりの数の朝鮮系渡来氏族が移住してきています。 集団で渡来してきた彼らは、一族の集団が食っていくための生産手段を持ち込んだに違いありません。 農作業用の牛、牛用の農具、そして牛の飼養技術です。 このように仮定して、牛用の農具であるカラ犂(スキ)を調べたことがあります。 岩波書店『日本列島に生きた人たち 民具と民俗』を読んだときの読書メモの中に、ご質問の回答になる部分があります。 馬が先で牛はあとから。関西では牛小屋なのになぜウマヤ、牛の市もウマイチ。かって、全国的に馬が飼われていて牛があとからやってきた。古墳から馬具が出る、馬の埴輪が出る。馬具は5世紀に近畿からはじまり6世紀に全国に広がる。古墳からは馬具とともによろいかぶとなど鉄製武具も出土し、馬が半島諸国との戦争の中で軍事用として半島から急いで導入されたと考えられる。他方、牛を飼っていた痕跡は少ないので、馬が主であったのは古墳時代だった。古墳時代後期以降は馬に加えて牛も飼われるようになった。(メモ終わり) 農具について調べたので、このメモの部分をまだ十分に理解していませんが、気になる点をちょっとWebサイトで調べてみました。 ウマヤについて。 「ウマヤ 牛」で検索すると、牛小屋でもウマヤと呼ぶ例がいっぱいあります。 http://www.city.settsu.osaka.jp/cmsfiles/contents/0000001/1135/p64-65.pdf 最古の牛の埴輪としている例 但馬の古代遺跡 船宮古墳(5世紀代) http://www.shinkin.co.jp/tanshin/zaidan/3rekisi/01kofun/index1.html では、弥生時代に家畜としての牛馬がいたか。 魏志倭人伝に「牛馬虎豹羊鵲なし」と書かれています。 かって、弥生時代の遺跡から牛馬の骨が出土して、倭人伝の記述に偽りがあるとされていましたが、その後、新しい年代鑑定技術で再調査すると、ずっと新しい骨であることが判明して、倭人伝の記述がやはり正しかったとされています。 (松井章著『環境考古学への招待』による。) 古墳時代の牛の頭数ですが、まったく分かりません。 渡来人が連れてきたのなら、まず渡来人の数を調べることから始めると良いのでしょうか。 私では想像すらできません。
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