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古墳時代の騎馬戦はあったのか?
- 古墳時代の馬は珍獣で、権力の象徴とされていました。しかし、実際に馬に乗って戦うということはあったのか疑問です。
- 古墳時代後期になると馬の数も増え、実際の戦闘に参加することもあったかもしれません。しかし、馬のサイズが小さくて騎馬戦には向かなかった可能性もあります。
- また、馬は平安時代まで珍重されていましたが、増えるにつれて農耕馬に転用されてしまい、騎馬戦が行われることは少なくなっていったと考えられます。
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面白いご質問ですね。大いに興味があります。 と言っても、すっきりした回答をする自信はありません。 ただ、新聞記事の切り抜きとか、私自身の読書メモを読み返して、参考になりそうな個所をまとめてみました。 >馬のサイズが小さくて、騎馬戦には向かなかったのか? 昨年9月の新聞に、古代(古墳時代中期)の馬の復元模型の記事が出ています。 大阪府報道発表資料「府立近つ飛鳥博物館作製の古墳時代の馬の復元模型」 添付資料「復元された古墳時代の馬」に写真があります。体高127cm。 http://www.pref.osaka.jp/hodo/index.php?site=fumin&pageId=11418 詳細は下記URL 鹿児島大学総合研究博物館「ニュースレター ナンバー18」 http://www.museum.kagoshima-u.ac.jp/publications/pdf_images/newsletter/newsletter_18.pdf#search='%E8%94%80%E5%B1%8B%E9%81%BA%E8%B7%A1+%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E9%A6%AC+%E5%86%8D%E7%8F%BE+%E5%BE%A9%E5%85%83' 復元された馬は、今のポニーくらいの大きさです。馬上で太刀を振り回したり、槍を使ったりできたのか疑問です。 宮本常一著『旅の民俗学』の中の「道の文化史」の章には 「最初に入ってきた馬は胸までくらいで鹿児島の宝(トカラ)馬で残っている。次に蒙古系が来るが精々肩くらい、武将が乗るとすぐ息切れするから替馬を用意したほど」とあります。 >源平の時代には騎馬戦が華やかですが、古墳時代の馬と同種なのか? このサイトでは、源平時代の軍馬の体高は、名馬で140cmくらいと推測されています。 古墳時代の馬と同種かどうかは、分かりません。 須磨観光協会「源平時代の軍馬」 http://www.suma-kankokyokai.gr.jp/modules/tinyd0/index.php?id=6 次のサイトは、まとめとして最高です。さすが、専門家です。 私も、大いに勉強しました。 “多くの馬は戦闘よりも、重い鎧を着た武者を戦場まで運ぶ輸送用”とのこと。 日本獣医史学会誌「日本在来馬と西洋馬」 http://nichiju.lin.gr.jp/mag/06406/a6.pdf#search='%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E9%A8%8E%E9%A6%AC%E3%81%AE%E4%BD%93%E6%A0%BC+%E4%BD%93%E9%AB%98' >牛並みの力があったなら、平安時代に牛車代わりに馬車が使われていたと思います。 増えて農耕馬に堕してしまっていたのか。 元来牛車は、中国の律令制度導入と関連があり、貴族の乗り物は牛車となったので、馬が余っても余程の事情がない限り、牛にとって代わるという発想はまずなかったのではないでしょうか。 以上、長々と失礼しました。
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- oska
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>古墳時代といっても永いので、中期以降には馬の数も増えて、実際の戦闘に参加するようなこともあったのではないでしょうか? この考えに近い説として、「騎馬民族征服王朝説」があります。 この説では、東北アジアの騎馬民族が日本に侵攻。政権を樹立した事になっています。 が、日本書紀を正史とする天皇中心主義の学会では無視です。^^; 日本書紀自体、百済国の王子である中臣鎌足(藤原鎌足)一族の正当性を主張した勝者の歴史に過ぎませんがね。 当時、高句麗・新羅・百済との友好関係を外交基本としていた(外交担当の)蘇我氏を暗殺しましたよね。 結局、百済救済目的で派兵を行い敗退しました。 >それとも馬のサイズが小さくて、騎馬戦には向かなかったのか? まぁ、現在のサラブレッドを想像する事は無いと思いますが・・・。 騎馬民族説が正しいのなら、古代蒙古の戦いが参考になるかも? >源平の時代には騎馬戦が華やかですが、古墳時代の馬と同種なのか? 基本的に、同じですね。 他にも回答がありますが、源平合戦でも(実際は)騎馬戦はありません。
- toshineko
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古墳時代には馬の数が少なすぎるので、 騎馬が戦の主力にはならなかったと思われます。 指揮官が主に移動に用いたと考えられます。 その後全国に牧が造られ、馬の生産が多くなった平安~鎌倉~室町前期頃、 この時代が騎馬武者が主力であった時代と思われます。 よく日本の馬は小さすぎて、騎馬武者の突撃などはなかったと言われますが、 モンゴル帝国の馬も日本馬もほぼ同じ体格であることを考えれば、 なかったと考えるほうがおかしいと思いますね。
- onbase koubou(@onbase)
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後の戦後時代でさえ「騎馬戦」のようなものはなかったというのが一般的な考え方です。 江戸時代以前の馬は、サラブレットほど大型ではないので「鎧武者を載せて疾駆する」ということは事実上不可能だったとされています。 まして古墳時代なら・・・・もっとも資料がないので確認する術はありません。
- moto_koukousei
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次のサイトには、日本では古墳時代には、 『古墳から出土した少数例の馬冑なども稀少な舶載品とみられ、馬具としてはごく少数の特殊な例にすぎません。 大多数の馬形埴輪からは、少なくとも古墳時代の馬が農耕や戦闘に従事していた様子をうかがうことはできません。 こうしてみると、埴輪に象(かたどら)れた馬は乗馬に最大の「関心」があったようです(といっても馬の特性でもあるスピードが重視された様子はありません…)。 それも金銀に彩られたさまざまな馬具を鏤(ちりば)めた豪華な“いでたち”です。 ほかの動物埴輪と比べても、著しく“人の手が加わった”姿が特徴で、特定階層の人物と(まさにベタベタの・・・)深い関係にあったことは否めません。 おそらく当時の人々も、古墳に樹(た)てられた馬形埴輪を見ることによって、葬られた人物が(最先端の…)豪華な“乗り物”を所有することができた社会的地位の高い人物であることを容易に想像できたことでしょう。 現代ならば、さしづめ(やや古いですが・・・)戦後のロールスロイスか、キャデラックといったところでしょうか。』との説明があります。 http://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2012/10/15/%E7%89%B9%E9%9B%86%E9%99%B3%E5%88%97%E3%80%8C%E5%8B%95%E7%89%A9%E5%9F%B4%E8%BC%AA%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%80%8D%E3%81%AE%E8%A6%8B%E6%96%B97/ 『大化の改新(646年)による一連の制度の整備によって、駅馬・伝馬といった通信手段としての乗用馬が設立され、各地に馬牧も開かれた(ただし去勢の技術は導入されなかった)。当時律令制のモデルであった大陸の唐朝は、遊牧民出身の軍事集団が政権中核の貴族層を構成し、その軍事制度も遊牧民の軍制を色濃く継承していたため、律令制の導入は最先端の軍事技術としての馬文化(軍馬)の導入という性格も有していた。壬申の乱では騎馬隊が戦いに登場している。』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%9E#.E9.A3.9B.E9.B3.A5.E3.83.BB.E5.A5.88.E8.89.AF.E6.99.82.E4.BB.A3