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古墳時代の奴隷

古墳時代に日本の小国が奴隷を中国に 貢いだとありますが、当時の奴隷は どのような扱いをされることになったのですか? 拘束されて働かせられるというのは 一緒みたいなんで、あの当時なら 兵隊に駆り出されるとかかなって思うけど。

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  • 441moe
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回答No.5

中国の資料にしかありません。 邪馬台国からは「生口10人」を貢いだと有ります。それ以上の記載ありません。 技術者又は美女しか考えられません。 当時、中国以上の技術者いたとは思えません。 10人程度の労働者や兵隊貰っても嬉しくないでしょう。消去法では美女です。 余談ながら 戦国時代はゴアから200人の兵隊奴隷の要請記録有ります。 戦国時代の主輸出品は奴隷でした。 秀吉の朝鮮出兵後、長崎で数百人の奴隷をポルトガル人に転売した記録有ります。

その他の回答 (4)

noname#224207
noname#224207
回答No.4

>古墳時代に日本の小国が奴隷を中国に貢いだとありますが、 魏志倭人伝に記載されている生口を短絡的に奴隷と解釈するのは昭和のマルクス史観に基づくものです。 古墳時代の文字史料は日本側にはありません。 中国側の史料に頼ることになりますが、これも4世紀のものが見当たりません。 歴史学としては全くの空白時代ということになります。 考古学に頼ることになりますが、社会制度などは遺物からの推定の域をでませんので議論百出です。 村落の遺跡や古墳から推定ということになりますが、現在の「奴隷」という概念に相当する階層の人がいたということは立証されていません。 村落を取りまとめる支配者層と一般人がいたであろうということが推定されているだけです。 魏志倭人伝に記載された生口も当時の中国の社会制度を流用して説明をしているだけです。 当時の中国でも生口は現在の「奴隷」のニアンスでは使われていません。 冊封体制下での朝貢として労働力を提供したと、考えるのが妥当かと思います。 生口として朝貢された人は自由には帰国はできなかったでしょう。 但し、どのような人が選ばれ現地でどのように取り扱われたのかは不明です。 秀吉が朝鮮へ出兵した際に、朝鮮の陶工が多数つれてこられましたが、奴隷としては扱われていません。 現在の有田焼など北九州の名産である陶器類は全てこの朝鮮から移住させららた人達が作り上げたものです。 生口も自分の意に反して移民させられた人という見方も成り立ちます。 >拘束されて働かせられるというのは一緒みたいなんで、あの当時なら兵隊に駆り出されるとかかなって思うけど 拘束して働かされるというのであれば古墳の構築には誰がどのようにして駆り出されていたとお考えですか。 大型のものであれば日に数百人が働いていたと推定されています。 一つの集落に数百人の「奴隷」ですか? 租税の一つとして労働力を提供するのは古代の租庸調制度から夫役など江戸時代の宿場町の役務までごく普通のことでした。 現在とは税制に関する考えかたが全く異なります。 拘束即兵隊という考え方は短絡した現在の価値観です。 矢傷や刀傷で落命したと思われる人骨が後世にまで残る古墳に丁重に埋葬されている事例が多々あります。 村落や地区の長と看做される人の古墳には甲冑や刀剣などの武具が多数丁寧に副葬されています。 「奴隷」にこんな手間暇をかけるとお考えでしょうか。 族長は奴隷の長ですか? 無理やり集めた人間に白兵戦が可能だとお考えですか。 村落の存亡がかかった争いを奴隷任せにするなどということは考えられません。 後の万葉集の時代の防人も家族と分かれて自費でなおかつ徒歩で遠い関東から北九州まで出向いています。 いやいやの奴隷にこのような行動は考えられませんが如何でしょうか。

回答No.3

日本で奴隷というとちょっと違和感がありますよね。 他の回答のとおり”生口”がその奴隷の元ネタなわけですが、これを奴隷とするか、主に仕える人程度とするかで印象が違ってくると思います。当時の日本では、一部の権力者以外は皆が誰かに仕える者という感じだったのではないでしょうか。 ただ当時は身分制度は今以上にあったようで、魏志倭人伝にも身分の高いものと道で会ったら左右に避けてうずくまったりひざまづいたりする、などと書かれていますね。 また奈良時代ごろの朝廷の建物にも、門を入ると最初に左右に軒先みたいな所があるのですが、身分の低いものが夜明け前に来てそこで待って身分の高い人が来たときに頭を下げていたという、それをする専用の建物らしいです。これ、面倒だから止めろというお達しが出たけど、なかなか無くならなかったとかいう話を聞いたことがあります。うろ覚え?ウソ話かも?調べてみると面白いかもしれません。

darknes2000
質問者

お礼

有り難うございます。 中国の宣伝ですか。

回答No.2

農業や土木建築作業などの重労働がメインで、時に神事や土着信仰の生け贄 (主が死んだとき共に埋められる殉死など) として扱われていました。 武器を持たせる上では反乱や寝返り、逃亡に警戒しなければいけないので、兵にできるのは奴隷の中でもそれなりに信望があって従属精神のある一部の人間だけだと思います。

darknes2000
質問者

お礼

やっぱり殺されたのですね。 主が死んだら

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15295/33014)
回答No.1

 古墳時代に日本の小国が奴隷を中国に貢いだとありますが 1。出所  これは多分、いわゆる魏志倭人伝の「生口」という五回出てくる言葉が出所と思います。 2。背景の種類  これには、2種あって、航海の安全に関与する人物「持衰」が成功した場合、すなわち無事に航海が終わった場合、褒美として与えられたものの中に「生口」が見られます。例えば  其行來渡海詣中國、恒使一人、不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人。名之爲持衰。若行者吉善、共顧其生口財物。若有疾病、遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹。 です。  もう一種は、日本から中国への土産物の一部として、与えられたもので、例えば、下記に見られます。  其四年倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木付短弓矢掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬 3。人数  人数が記載されているのは上記の第2種だけで、八人という上記のほかに、男四名、女六名と性別を明記した例もあります。  帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次使都市牛利奉汝所獻男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到  一番多いのは下記の三十名です。  因詣臺獻上男女生口三十人貢白珠五千孔青大句珠二枚異文雜錦二十匹 4。信憑性  この歴史を書いた陳寿は、三世紀の人で日本に来たことはありませんから「また聞き」によるものです。  であるとともに、正史とは東西南北の夷戎蛮狄の未開人が、文化の中心である中国にぺこぺこ頭を下げて来て、朝貢したことを誇張する、言わば広告ですから、信用は出来ません。  まあ人数から言って、召使い程度だったのでしょう。僕は歴史は「ど素人」ですから適当に無視してください。  

darknes2000
質問者

お礼

有り難うございます。 時代背景もありますから、どうなったんだろと なるわけです。  だから書物でも日本出のものは滅茶苦茶少ない ので大半が素人です

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