古墳の謎とは?

このQ&Aのポイント
  • 古墳の被葬者名が分かることはほとんどない
  • 中国や朝鮮の古墳には墓誌が出土している可能性がある
  • 日本の古墳は中国や朝鮮の影響を受けている可能性がある
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古墳は誰の墓ですか。

全国に何千・何万とある古墳の内、“墓誌が出土したので”具体的な被葬者名が分かったという古墳は多分、皆無だと思います。 墓誌が出土しない訳は、板に墨書して棺に納めたとしても、板そのものが腐食したり、墨が消えてしまったりしたのかもしれません。 そもそも墓誌を埋めたのか、それも謎です。 そこで質問です。 1. 中国や朝鮮の古墳では墓誌が出土しているのでしょうか。 日本と比較できるように日本の古墳時代前後の古墳を対象として教えてください。 2. もし、中国や朝鮮の古墳に墓誌があったとすれば、天皇陵や古墳にもある可能性は高いですか。これを確認できるのは将来、天皇陵を発掘できればの話ですが。 日本の古墳の石室に描かれた絵は、中国や朝鮮の絵に似ているものもあって、中国や朝鮮の影響を受けているという説もありますから、それなら中国や朝鮮に倣って墓誌もあるのではという想像です。 よろしくお願いします

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回答No.4

No.1,2,3です 再度お礼を頂戴しました。 行き違いが多々あるようですので関連論文のご紹介させて頂きます。 >日本の古墳では、被葬者の具体的な名を示すものは、まだ出土していないはずです。「それはなぜ」、という疑問です。なぜ中国や朝鮮の例を知りたいのか、それは質問文に書いています。日本の古墳の石室に描かれた絵は、中国や朝鮮の絵に似ているものもあって、中国や朝鮮の影響を受けているという説もありますから、それなら中国や朝鮮に倣って墓誌もあるのではという想像です。 これ等の点につきましては下記のURLに詳しく検討結果が記載されています。 尚、本論文をお読みになるさいには、古墳ではなく陵墓について検討していますのでご注意下さい。 古墳と陵墓を明確に区分しています 日本古代の墓誌 - 明治大学 www.kisc.meiji.ac.jp/~jkodaken/jpn/activity/publication/pdf/... 抜粋 日本の墳墓に副葬された墓誌は、日本では 6 世紀代までは、ほとんど文字を使用するような社会が形成されなかったことから、古墳に墓誌を副葬するという葬送儀礼が行われることはなかった 中略 日本の古墳時代に製作された石造製品や石造物は、玉類や腕飾類などの装身具類を除くと、たとえば各地の古墳で埋葬用に使用された石棺類の製作などは、いずれも石工工人によって製作されたものである。 そこで、日本でも新たな葬送様式として隋唐にみる定型化した石製墓誌を製作して副葬するには、少なくとも二つの作業工程が不可欠であった。一つは、墓誌銘を刻むための前提作業として方形に石材を整形する工程である。二つには、それらの方形に整形された石材の平坦面に一定量の細かな文字からなる漢文を刻む工程である。 7 世紀、 8 世紀の在来工人である石工工人の大半は、二つの作業工程のうち、先行する石材を整形し、身と蓋を製作する工程には特に問題となることはないであろう。しかし、後の工程には、この時期の石工工人の職掌内容では、漢字・漢文を駆使するようなことは関連が乏しい性格の作業であったと想定される。したがって、この時期の漢字・漢文の普及度からすると、7 世紀後半から 8 世紀代には、漢字・漢文を十分に判読できる工人は乏しく、整形した石の表日本古代の墓誌面に細かな漢字を連ねる墓誌銘を刻むことは、工人集団としては、ほぼ対応が不可能に近いものであったと推測される。 すなわち、石工工人のなかの工人の一部に、そのような文章を判読できる者がたとえ存在したとしても、工人集団として石製墓誌の製作に相応しい工人集団となりうる条件を欠いていたものとみなされるのである。このように、日本では石工工人集団が石製墓誌を製作する工人集団になりえなかったとすると、石材に刻む墓誌を製作することは断念せざるをえないことになり、漢字・漢文とかかわりの深い渡来系の金工工人集団が石工工人に替わって墓誌の製作を担うことになったものとみなされるのである。 尚、百科事典マイペディアの解説は相当はしょって説明しています。 解説されている後漢時代のものは日本には伝来してきていません。 後の時代の隋唐の様式だとされています。 この辺も上記論文で詳細に検討されています。 抜粋 日本の墓誌は、明らかに中国の隋唐のものをもとに製作され、副葬されたものとみなされている。 中略 中国の隋唐代の墓誌が平坦な方形をなす石の面に、長文が刻まれているにもかかわらず、日本の墓誌の大半は、金銅、銅製の短冊や広板をなすものと金銅・銅製からなる蔵骨器の蓋や円筒外函に墓誌銘が刻まれており、隋唐のものとは著しく異なるものとなっている 中略 日本の墓誌は、隋唐のものとは顕著な差異をもちながらも、7 世紀後半から八世紀には、多くの官人層や僧侶の墳墓に、副葬されたものと想定されるのである 中略 日本の墳墓から出土する墓誌の形態には、大きくみると、長方形の銅板のもの、直方体のもの、蔵骨器の容器に刻んだものとがある

kouki-koureisya
質問者

お礼

度々のご回答ありがとうございます。 よく解りました。 「日本古代の墓誌― 明治大学」は大変参考になりました。 結論を端的に言えば、 「日本の墳墓に副葬された墓誌は、日本では 6 世紀代までは、ほとんど文字を使用するような社会が形成されなかったことから、古墳に墓誌を副葬するという葬送儀礼が行われることはなかった」ということですね。 「日本では 6 世紀代までは、ほとんど文字を使用するような社会が形成されなかった」とありますが、全く意外でした。 私は、多くの、それもあちこちの古墳から文字の入った「鏡」が出土していることから、「大王」や豪族など古墳に葬られるような地位の人びとの間では、文字の知識があっただろうと想像していました。 7世紀後半の木簡も多数出土していますので、木製の墓誌を想像していました。 新聞で得た断片的な知識を張り合わせて歴史を想像(推理するほどの知識がない)しているのですが、見事に外れました。 ご教示に感謝申し上げます。

その他の回答 (3)

回答No.3

No.1.2です 再度お礼を頂戴しました。 お礼に「奈良市此瀬町にある墓から「墓誌」が見つかって、太安万侶の墓と確定できました。」とありますが当初は古墳に関するご質問ではありませんでしょうか。 古墳というのは一般的に日本史ではは3世紀半ばから7世紀代にかけて築造されたものを指し、弥生時代のものは墳丘墓、奈良時代のものは墳墓として区別されています。 太安万侶は8世紀の人です。 従いまして太安万侶のものは墳墓ということになります。 しかも火葬された遺骨を納めたものです。 いわゆる古墳とは、時代も性格も異なりますので、埋葬した日付と亡くなった人の官位と氏名が記載された物をもって古墳に関する議論すること自体誤解と混乱を生じます。 再三ご説明していますように、中国や韓国と日本とでは基本的に墳墓に対する思想が違いますのでご注意願います。 室町時代の李朝朝鮮のことを江戸時代の日本の事例で議論をしているのと同じことになりますのでご注意願います。 尚、太安万侶と類似のものとしては太安万侶と同時代の小治田安萬侶なる人物のものが明治44年に出土しています。 >宮内庁は、「墓誌」などの確実な史料が見つかったわけではない、として指定を見直ししない方針だそうです。 宮内庁は墓誌云々とは言っていません。 「治定を覆すに足る陵誌銘等の確実な資料が発見されない限り」 と言っています。 陵誌というのは墓碑のことで早い話が墓石のことです。 発掘調査なしで出てくる訳がありません。 要は「たとえ誤って指定されたとしても、現に祭祀を行なっている以上、そこは天皇陵である」という宮内庁の基本方針を変える気がないということです。 現役の役人として前例を覆すことに対する責任逃れをしているだけです。

kouki-koureisya
質問者

お礼

度々のご回答ありがとうございます。 話にすれ違いがあるようです。 墓誌について書いたのは、 「その前に墓誌とはどのようなものをお考えでしょうか」と聞かれたので、太安万侶の墓と越塚御門古墳を例に挙げたまでです。 1. 太安万侶の墓 私は「奈良時代の人ですが、…」と断って書いています。 また、火葬墓であることも承知しています。 この時代(養老7年723年)の墓から、被葬者の名が分かるものが出土したわけです。 8世紀には、他にも多数の墓誌が出土しています。 この事実は重要です。 しかし、日本の古墳では、被葬者の具体的な名を示すものは、まだ出土していないはずです。 「それはなぜ」、という疑問です。 なぜ中国や朝鮮の例を知りたいのか、それは質問文に書いています。 日本の古墳の石室に描かれた絵は、中国や朝鮮の絵に似ているものもあって、中国や朝鮮の影響を受けているという説もありますから、それなら中国や朝鮮に倣って墓誌もあるのではという想像です。 そこで、中国や朝鮮の古墳では、被葬者が分かる何かが出土していますか、と質問したのですが、「少なくても氏名だの没年だのという類のものはありません」という回答を頂きました。 お聞きしたかったのはこの一点でしたからこの回答で十分です。 墓誌については、コトバンクの「百科事典マイペディアの解説」によれば、 「死者の伝記,功徳を記して墓の中に収めたもの。中国では後漢以後に発達,六朝になると方形の石二つを組み合わせ,一つに墓誌(銘文を伴うことが多く墓誌銘という)を刻し,他に死者の姓氏や地位を刻して蓋とし,柩(ひつぎ)の前に埋めてその標識とした」とあります。 2. 宮内庁は墓誌云々とは言っていません。「治定を覆すに足る陵誌銘等の確実な資料が発見されない限り」と言っています。 分かりました。 私は、新聞記事のまま「墓誌などの確実な資料が見つかったわけではない」と書いたまでです。

回答No.2

No.1です お礼を頂戴しました 追加のご質問がありましたので説明させて頂きます。 その前に墓誌とはどのようなものをお考えでしょうか。 少なくても氏名だの没年だのという類のものはありません。 参考にもありますように、墓というものに対する考え方が基本的に異なりますのでご注意下さい。 中国は古代から歴史書の国です。 関連史料はいくらでもあります。 >どのようなものが出土しているのですか 古墳と呼ばれるものにはあらゆる形状がありますのでご注意下さい。 最大のものは秦の始皇帝陵です。 皇帝が生きていた時代に使ったあるゆる道具のレプリカが出土しています。 兵士まで再現しています(兵馬俑) 中国であれ朝鮮であれ装身具や馬具などあらゆるものが出土しています。 空中に漂っている魂が戻った際に困らないようにしていました。 人の死に関する考え方が日本とは異なりますのでご注意下さい。 朝鮮半島では最大のものはユネスコの世界遺産にも登録された高句麗古墳群です。 中国同様に装身具や馬具、甲冑などが出土しています。 高句麗時代の史料が少なく日本同様被葬者は推定です。 日本の古墳の特徴はやたらに鏡が出土することです。 蛇足 朝鮮半島では考古学の発達が遅れています。 韓国も日本の学術調査団頼りです。 最近日本で教育を受けた留学生が帰国してなんとか自力で発掘しているのが現状です。 高句麗の古墳群は北朝鮮領内ですので全くといっていいほど進んでいません。 昭和40年代までは少人数の日本の学者が入国していましたが現在は途絶しています。 学術情報も途絶しています。 ユネスコの登録も、壁画に興味をもった日本の平山郁夫画伯が推薦したのが切っ掛けでしたが中国領側のものを中国が先に登録申請してしまいました。 中国に言わせれば高句麗は中国史上の一地方の王朝です。 韓国では古墳と同形式の墳墓は現役です。 ソウルは人口が集中して土地がなくビル形式の共同の納骨堂が主体ですが地方へ行けば現在でも芝を植えて綺麗に使われています。 儒教では分離した魂魄を呼び戻し現世で子孫と過ごすのが何よりのことです。 これを行うのが最大の孝です。 日本で位牌とされているものはこの際の依り代です。 儒教は宗教です。 箴言警句だけを切り離したのが日本儒教です。江戸時代までは儒学と呼ばれていました。 宗教部分は日本仏教が引き継ぎました。 (仏教発祥のインドには現在でもお墓というものはありません。) 国や時代が異なれば、現代の日本とは死生観が異なりますのでご注意下さい。 朝鮮半島で下手に古墳に手を付ければ墓暴きになってしまいます。

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 質問の主旨が伝わらなかったようです。 日本では古墳の被葬者の具体的な名は、記紀の記録などから推定しています。 墓誌のようなものがないので、具体名を確定できません。 そんな事情は、中国や朝鮮でも同様ですか、という質問でした。 「少なくても氏名だの没年だのという類のものはありません」ということですね。 お聞きしたかったのは、この一点です。 墓誌について。 奈良時代の人ですが、奈良市此瀬町にある墓から「墓誌」が見つかって、太安万侶の墓と確定できました。 また、明日香村の牽牛子塚古墳に隣接して、日本書紀の記述どおり越塚御門古墳が発見され、考古学的には両古墳が斉明天皇陵と孫の大田皇女の墓であるとほぼ確定したそうですが、宮内庁は、「墓誌」などの確実な史料が見つかったわけではない、として指定を見直ししない方針だそうです。

回答No.1

>古墳は誰の墓ですか これが分かれば考古学者は苦労しません。 古墳がなぜ作られたのかその目的はなにかということ自体が分かっていません。 種々の学説が提唱されていて定説がありません。 現代人の感覚でのお墓ではなかったことは確かです。 日本のお墓ですら現在のようになったのは明治以降です。 ○○家の墓などというのは都市部で埋葬地が不足し始めた昭和30年代以降にできた形式です。 それまでは個人名の墓標が主体でした。 現代でも地方へいけば個々の墓標を集めた一族の集合墓が多くみられます。 江戸の街では頻繁にお寺が引っ越していますが墓地はそのまま放置されていました。 東京で土木工事をする際に古い人骨が出てくるのは珍しいことではありません。 平安時代には藤原道長が父親の埋葬地を探したが見つからなかったと自身の日記に書いています。 >墓誌が出土しない訳は、板に墨書して棺に納めたとしても、板そのものが腐食したり、墨が消えてしまったりしたのかもしれません。 書き残す必要があるのであれば腐食し易い板などに書かずに壁画と同様に壁面に記載するなり彫り込めばいいだけです。 木棺が腐食し易いことは当時の人は充分承知していて朱を使うなど防食に智慧を絞っていました。 >中国や朝鮮の古墳では墓誌が出土しているのでしょうか。 現代のイメージのようなものはありません。 >日本の古墳の石室に描かれた絵は、中国や朝鮮の絵に似ているものもあって、中国や朝鮮の影響を受けているという説もありますから 中国や朝鮮の古墳は日本のものよりも古いものです。 日本に古墳の文化をもたらしたのは誰かが判然としていません。 日本の前方後円墳のデザインは日本独自のものとされていますが、前方後円墳がいかなる目的で作られ、なぜあのようなデザインになったのかについての定説がありません。 近年朝鮮半島でも前方後円墳と類似のデザインのものが見つかっていますが日本側から持ち込まれたものではないかとされています。 >天皇陵や古墳にもある可能性は高いですか。これを確認できるのは将来、天皇陵を発掘できればの話ですが。 現在天皇陵とされているのは明治政府が決めたものです。 天皇なる存在が定められたのは大化改新以降のことです。 古墳はそれよりも古い時代のものです。 大化改新直後に薄葬令が出され天皇など権力者の墓も簡素化されていきました。 つまり天皇陵なるもの自体が存在しない可能性があるということです。 時々の特定地域の権力者の古墳があったことは間違いありません。 近畿地方の巨大古墳を倭の五王の古墳ではないかというのはあくまでも推定です。 しかもその倭の五王が誰であるのかについての定説がありません。 参考 中国陵墓の喪葬空間と日本の古墳 - Researchmap researchmap.jp/?action=cv_download_main&upload_id=97805 抜粋 戦国時代以来、中国では、墓は墓主の「住宅」と意識された。埋葬施設、外部施設の各空間は、墓全体を包括する脈絡のなかで意味づけられる。元来、墓地は「寝」と「廟」から構成され、「寝」は被葬者の魄が居する所、「廟」は降神すなわち被葬者の魂を一時呼び寄せ祀る場である。 中略 中国の場合、その「場」の意味を失わず高次に昇華させることが、社会性・秩序の維持装置機能を生み出した。たとえば、南朝では、墓―居宅=帝陵―皇宮=世界の中心、という思想世界が構想された。北朝では、墓―祖廟=帝陵―国家的祖廟=秩序の具現化、という陵墓観念が存在した。それゆえに社会秩序の象徴たりうるのである。日本の古墳の場合、大規模な墓=権力・ 政治性と自明的に理解されるが、その脈絡は不透明である 注)中国には魂魄という考え方があります。 人の死というのはこの魂と魄が分離することだとされています。 前方後円墳を中国・朝鮮の古墳と比較すると…/森下章司「古墳の古代史」 pixy10.org/archives/post-4023.html 抜粋 「中国の陵園は、亡き王の祭祀を継続してゆくための重要施設だ。後漢代では、庶民の墓でも代々の墓を一定の敷地内に築き、定期的に祭祀・儀礼を行なっている。百済や新羅でも同じ場所に代々の王や一族の墓が継続して築かれており、祖先祭祀がおこなわれていた 中略 「倭でも「大王墓系列」へ「首長墓系列」と呼ばれるが、何代かにわたってある地域に支配者の墓を統いて築く風習はあった。しかし、それらをまとめ、祖先として祭祀・儀礼をおこなった跡はみつかっていない。あるいは墳墓とは別の場所に設けられていたのであろうか。祖霊祭祀は、宮殿や居館でおこなわれたとみる説がある。」

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 よく分かりました。 ただ一点、「中国や朝鮮の古墳では墓誌が出土しているのでしょうか」という質問に対するご回答で「現代のイメージのようなものはありません」とのことですが、ではどのようなものが出土しているのですか、教えてください。 要は、(日本の古墳時代より前に築造された)中国の古墳では、被葬者名が分かる何かが出土しているのですか、という疑問です。

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