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江戸時代の駕籠について

 かねがね不思議に思っていたのですが、江戸時代の殿様などは移動の時に駕籠を使っていたと思います。ただ駕籠というのは前後に担ぐ人がいて、駕籠がぶら下がっている状態になります。これだと担いで歩く人も重くて大変だし、乗っている殿様もゆらゆら揺れて乗り心地が悪いと思います。結構酔ってしまう人もいたはずです。  ここで疑問ですが、なんで車輪のついた乗り物がなかったのかが不思議です。大八車のようなものに箱を載せれば乗り物になるくらい分かりそうなものですが、なんでそれがないのか不思議です。平安時代だって牛車があるし、その知恵がないはずはなかったと思うのです。ただ幕末に書かれた福沢諭吉の福翁自伝に、諭吉がアメリカに行ったときに馬が車輪の付いた箱を引いているのを見て、それが人を運ぶ馬車だと分からなかったとの記述があります。なので、当時は人を車輪のついた物で運ぶという概念がなかったのかもしれませんし、人力車も江戸時代にはなかったのかもしれません。  いずれにしても、駕籠という乗り物がいかにも人を運ぶには非効率的に思えてならず、馬車や人力車を使わなかったのか理由を知りたいです。 どうでもいい疑問ですが、よろしくお願いします。

みんなの回答

  • staratras
  • ベストアンサー率41% (1503/3658)
回答No.10

No,5&9です。さらに蛇足を。牛車に乗るには細かな決まり事があり、乗り慣れない者は失敗して恥をかきます。代表的なのが「平家物語」にある源義仲(木曽義仲)の事例です。牛車は「後ろ乗り・前降り」をするのが作法のところ、義仲はこれを知らずに後ろから下車してしまいました。また平氏に仕えていた牛飼いが意地悪をして、勢いよく牛を走らせたため、車内であおむけに倒れて蝶のように着物をバタバタさせ、「起きよう、起きよう」ともがきますが起き上がれなかったと書かれています。「誹風柳多留」第13篇に「車に酔て大内のわらひもの」という句を見つけましたがこの故事を詠んだのでしょうね。(大内は内裏の意) 平家物語は京の人の視点で田舎者を揶揄した筆致ですが、義仲ほどの武将でも上洛するまで牛車に乗ったことがなかったという点は重要でだと考えます。牛車は京都盆地のような比較的平坦地で道路が整備されている場所でしか人の乗り物としては使われていなかった(木曽にはなかった)、ということになりますから。のちの時代に人の乗り物としてはほとんど廃れてしまったのも当然かもしれません。 ただ、物資を運ぶ運搬手段として牛が牽く荷車は消滅してはいません。馬の背中に直接荷物を載せて運ぶ「馬借」だけでなく、荷車を使う「車借」と呼ばれる運送業者が室町時代以降も活動しています。「全国どこでも」というわけにはいかないものの、伏見ー京都ー大津間など道路が整備されていれば商売になったということでしょうか。

  • staratras
  • ベストアンサー率41% (1503/3658)
回答No.9

No.5です。乗り心地について少し補足します。平安時代の牛車の乗り心地に関して、平安時代末期に成立したとみられる「今昔物語集」に興味深い説話があります。(巻28 第2話 「頼光郎等共紫野見物語」) 源頼光の郎党三人がこれまで乗ったことのない牛車を借りて賀茂の祭りのかえさ(斎王が斎院に帰る行列)見物に行きました。下簾をおろして車内が見えぬようにし「女車」(女性が乗った車)のようにしたのですが、車が揺れて頭をぶつけたり車に酔ったりしたあげく、到着しても気分が悪く寝込んでしまって肝心の祭りの行列も見られず、散々な目に遭ったというのです。帰路は車には乗らずに歩いて帰ったとか。 実はこの話は、古語辞典の「酔ひ(ゑひ)」の項目で乗り物酔いの意味での用例にも登場しています。「かくの如くして行く程に、三人ながら酔ひぬれば、踏板に物つき散らして…」(このようにして行くうちに、三人とも車に酔ってしまったので、牛車の踏板に吐いてしまって…)と妙にリアルな描写です。 この話を読んだ後世の人は、勇猛な武士も寝込んでしまうほどの車酔いをする牛車に乗りたいとは思わず、徒歩か騎馬(可能な立場なら)を選ぶでしょうね。(余談ですが「車に酔う」という表現が平安時代からあったとは知りませんでした。自動車が使われるようになってからできた言葉だと勘違いしていました) もちろん駕籠も決して乗り心地の良いものではなく「駕篭酔い」という言葉もあり、江戸時代の旅行ガイドともいうべき「旅行用心集」という書物には、「駕籠に酔はざる方」として「駕籠に酔う人は駕篭の戸を開けて乗るべし」と書かれています。現代の自動車の車酔い対策でも窓を開けて外の新鮮な空気を吸うことが推奨されていますが、このルーツかも知れません。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11118/34612)
回答No.8

「道が狭い」のと「起伏が大きい」という理由ですね。日本にゃ坂道が多いのは質問者さんもよくご存知だと思います。人力車で下り坂を降りるのがどれだけ危険かはなんとなく想像がつきますでしょ? 質問者さんがもし首都圏にお住まいなら、箱根の旧道に行ってみることをお勧めします。江戸時代の街道跡です。あんなところを車輪がついた乗り物に乗ってたら危険極まりないですよ・笑。箱根は極端な例ですが、基本的に峠では同じことが起きます。 また日本では、防衛上の理由と経済上の理由で多くの河川で橋がかけられていませんでした。防衛上の理由はなんとなくわかると思いますが、江戸時代は戦争はありませんでしたから、現実的には経済的な理由が大きくありました。 ひとつは、急流が多い日本では木造で橋をかけても水害で壊されてキリがないというのがありますが、多くの渡し場では船なり人足なりがそこで料金をもらうことで生計を立てていたんですね。橋をかけてしまうと彼らが失業してしまいますから、失業者を出さないためにも橋をかけてはいけなかったのです。 日本は雨が多くて泥地になりやすくもあったので、車輪がついた乗り物だとスタックしやすかったというのもあったと思います。 馬車が日本で普及しなかったのは、日本の内国産馬が小型だったからです。ポニーくらいの大きさしかなかったのですよ。馬車を曳くには小型すぎるのです。それより背中に荷物を乗っけたほうが早い。 まあ要するに「なんで日本は軽自動車がこんなに多いのですか?どうしてピックアップトラックを使わないの?」っていう質問と同じですよ。 江戸時代の特急列車であった早駕籠で有名なのが、忠臣蔵で知られる赤穂藩のあの江戸城刃傷事件を江戸から地元に知らせる早駕籠ですね。 これは第一報の「ウチの殿様が江戸城で刃傷事件を起こした!」という知らせが2名、第二報の「殿様が切腹になり、改易となりました!」が2名で急使が送られています。このとき、使者は頭に鉢巻を締め、胴体に固くサラシを巻いてさらに胴体を駕籠に括りつけたといいます。ほぼレーシングドライバー状態ですね・笑。この早駕籠は通常17日かかる日程をわずか5日で駆け抜けたといいます。どうやら文字通りの不眠不休で夜中も移動したようです(当時の駕籠には夜間便もあったようです)。それぞれ「2名ずつ」送られたのはどうやら「どっちか死んだときの予備」だったみたいです。一説にはその知らせを届けた使者は到着後に疲労のあまり死んでしまったともいいますね。 「馬のほうが早いんじゃない?」と思うかもしれませんが、馬の場合は自分が運転しなければなりません。駕籠だと運転は駕籠かきに任せて、自分は(もし眠れるなら)駕籠の中で居眠りをすることもできますからね。実際は眠っていたのではなく、失神してたんじゃないかなと思いますけれども。

  • pri_tama
  • ベストアンサー率47% (678/1421)
回答No.7

 駕籠の乗り心地が最悪(参勤交代時の殿様も町を離れると、籠を降りて騎乗あるいは徒歩で移動したとも言いますし…。)と言うのは同意しますが、だからと言って馬車の乗り心地が良かったかと言うと話は別です。  なぜなら、ヨーロッパの馬車であっても懸架式と言って、上から鎖等で吊るして車輪の衝撃を客室に伝えない様にするのが貴族向けの高級馬車の基本であり、日本の籠と比較して乗り心地が馬車の方が良いとは言えません。 (吊り下げられてブラブラと揺れるのは、どちらも同じ。)  ただ人間が担ぎますので、担ぎ手が経験豊富なら後のバネ式サスペンションの役割を担ぎ手が果たしてくれますので、幾分かましと思います。  乗り心地と言う問題は、今の自動車技術を見れば分かるようにゴムタイヤやバネ等の最新技術を適用してもなお、発展途上な技術です。  なお、江戸時代に乗り物として発展しなかった理由として、他の回答者さんが挙げていない点だと  ・車に人を乗せるのは、縁起が悪い。   罪人を市中引き回しにする時や死体を運ぶときには用いられていたので…。  ・籠や輿などは、身分制度に関連していた   制度外の馬車を発展させるきっかけが生まれにくい。  ・馬車は、ハンドル等が無いので方向転換が困難   京などの碁盤の目の様に道が整備されていれば良いが、江戸などの主要な都市は、城塞都市故の狭いクランク状の道等があり、方向転換が容易な乗り物でなければならない。  ・江戸は人口過多となり、大八車ですら交通阻害となるからと乗り入れに制限があった。

noname#246748
noname#246748
回答No.6

私も疑問に思ってましたが、ひとつは「道幅が狭い」ことや「県を越えるには山を上る必要があること」などの理由から馬は使われなかったようです。

  • staratras
  • ベストアンサー率41% (1503/3658)
回答No.5

江戸時代でも人が牽く「大八車」や、牛に牽かせて重量物を運搬する「牛車」はありました。車輪の付いた運搬手段を知らなかったわけではない、というより、普通に目にしていたはずです。「高輪うしまち」という歌川広重の浮世絵(「名所江戸百景」第八十一景)もありますから…。 結局のところ車輪付きの乗り物に「人が乗るという発想がなかった」というのが最大の理由ではないでしょうか。また新規の技術に対する社会的な規制などの制約が大きな時代でしたので、仮に誰かが「人を乗せて運ぶ車」を発明(再発見?)したとしてもお上が公認したかどうかは疑問です。 もちろん、道路が良くなかったということも大きな理由でしょうけれど、道なき道の荒野を幌馬車隊が進む光景は西部劇映画でおなじみのシーンで、舗装道路がなかったという理由だけで説明するのは十分ではないと思います。 また見落とせないのは「ゴムタイヤ」で、これによって明治初めに考案された「人力車」の乗り心地はゴムタイヤになった明治の末以降ずっと良いものになりました。幕末に生まれた回答者の曾祖母は昭和になっても「自動車は酔うから」という理由でタクシーではなく人力車に乗っていたそうです。 平安時代に貴人が乗った牛車は、実用的な交通機関というよりも、美しく装飾された身分の高さを誇示する象徴という意味合いが強いもので、武士の世になってすたれてしまいました。(豊臣秀吉は「聚楽第行幸」の際に牛車を新調しましたが)

  • rikimatu
  • ベストアンサー率19% (629/3297)
回答No.4

駕籠は乗り心地は再あくっだったみたいです。 馬車が発達しなかった理由に、平坦な道が少なすぎるという事と 後、馬の数が少なくかなり高価で貴重だったという理由があります。 他の方が回答なさっていますが牛車と言うのがありますが、 確かに高貴な人が乗るためとありますが奈良時代から貴族が牛乳を飲んだり蘇(チーズみたいなもの)を食べる習慣があったみたいで牛が比較的多かったみたいです。 後、牛の歩くスピードが遅いため荷物を運ばせる方が主だったみたいですが。(関東では牛が比較的少ないので馬が牛の代わりをしていたのでしょうが馬車に使うという余力がなかったのだと思います。) それと、一説には朝鮮半島から馬が入って来た時に騎馬としてなので馬車として使うという発想がなかったっとも言われています。 で、人力車は江戸時代までは輸送手段としての車の使用は制限されていたみたいで江戸末期になると規制緩和が進み、東海道の一部で数人の旅人を大八車に載せ始めた。アーネスト・サトウも1867年に桑名付近で目にしている。 17世紀のオランダの作家アーノルドゥス・モンタヌスが残した日本に関する本の中の挿絵に人力車に乗る太閤の絵が描かれており、17世紀の安土桃山時代時代にすでに二輪の人力車があったみたいです。

  • notnot
  • ベストアンサー率47% (4900/10359)
回答No.3

道路が舗装されてないからですね。 平安京の牛車は舗装された中心部のみ。範囲外への移動は輿(こし)だったようです。 西洋の道路は石が敷き詰められていました。 古代ローマからの伝統。紀元前から石の道です。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E8%A1%97%E9%81%93 ローマ街道の本来の目的は戦争用です。 道路の整備は攻められるリスクがあります。日本の江戸時代だと、西から攻めてこられないように静岡の大井川にも橋を架けずに、渡し船も置かず、人が担いで渡してました。道路を舗装するなんて、費用をさておいてもあり得ない状況です。 ただ、江戸の中心部だけ舗装して牛車もあり得たかもですが、牛車に乗るのは官位が必要で、武士だと大名本人くらいしか乗れませんので、効果も限定的ですね。まあ、大八車はあるか。

  • kon555
  • ベストアンサー率51% (1845/3564)
回答No.2

 籠の酔いは結構あったらしいですね。私も何かで読みました。多分ですが、籠を担ぐ人にも揺らさず歩くノウハウ等があり、技量にも差があったんでしょうね。  質問の件についてですが、車輪というのは悪路では極めて走破性が悪いんです。小さな小石一つでもガタガタしますし、凹みに嵌れば抜け出すのは大変です。雪・泥なども大敵です。  また坂の上り下りも非常に大変です。上りはエネルギー面で大変ですし、下りは信頼できるブレーキが無いと危険極まりないです。  要は山あり谷ありの日本列島では、使用できるシチュエーションが限られ過ぎているわけです。  これらを解決するためにはショックを吸収するサスペンションが必要だったり、道路自体の整備が必要だったりと各種技術的な発達と、社会規模での投資が欠かせません。  しかし日本の江戸時代というのは、統治機構である武家には基本的に経済力がなく、技術と金のある市民達には権限がないという構造をしているため、社会構造そのものの変革が発生しにくいわけです。  こうして『車輪で走る乗り物、作れるんじゃないか?』と技術力がある人間が考えても、道の問題があるため実用的ではないため実現せず、道を整備する権限がある武家には技術・発想・経済力がない、という形で社会が安定します。  また河川が豊富な島国である日本では、大規模や長距離の輸送には船舶が使用できるため、車輪構造そのもののメリットがあまり存在しなかった、というのもあるでしょう。  こうした各種事情が絡まり、今からすると不便極まりない『駕籠』が存続していたのだと思います。

noname#247529
noname#247529
回答No.1

日本の起伏にとんだ地形のせいではないでしょうか。京都の中だけは牛車で移動でも平気な平地が多かっただけでは?

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