なぜ明治まで馬車がなかったのか?

このQ&Aのポイント
  • 明治まで馬車が存在しなかった理由について考えてみましょう。
  • 牛車や大八車などの車輪があったにもかかわらず、なぜ馬車が作られなかったのか疑問です。
  • 貴人が動物の引く車に乗ることに意識的な問題がなかった平安時代から考えると、馬車がなかった理由は他にあるのかもしれません。
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牛車があったのに、なぜ明治まで馬車がない?

どうやったって、カゴは効率がわるいし、第一、狭いでしょう! なのに、なんで’車、車輪’はあった。 荷物を運ぶに大八車だってあった。 ただ、牛車も、大八車も大きな車輪が左右に一つではあった。 それを四輪にする事に、大した工夫もいらないと思うのですが。 平安時代には牛車もあったので、’貴人’が動物の引く’車’に乗るということに 意識的な問題もないように思う。 道としての整備が必要かもしれないですが、せめて、街道を行くにはそのようが 運ぶ方も、運ばれる方も、楽だし、第一、権勢を見せつけるにカゴよりいいと思うのです。 馬も、いるし。 技術的にも、当時の日本人に明治期の馬車が作れないはずもないし。 ふと、時代小説の名古屋城の落城の時には、城主を乗せて逃げるための’非常脱出用のカゴ’を 保管し、それを担いで逃げるためだけに存続する’家’があるという内容の話を読んで、 それも、木曽の山中を目指すので、無理がある運搬方法ではないかと思ったのが、 きっかけです。  山道、殿様一人載せて、かごを前後ひとりずつ山道を落城時の 落ちていく方法というのが、納得行かない。 この質問とは関係ないですが、何年か前にルノワールという映画をみた。 その中で女性ばかり4人、それも当時ですから、長いドレスの裾を捲って、 椅子に座ったまま、歩けないルノワールを川渡りでピクニックのように連れて渡るという場面があった。  女性4人は軽々と、歩いているけど、乗せられているルノワール太ってます。 どう見ても、一人あたり20kgでは間に合わない負担です。 片手でドレスの裾を捲って抑えて、片手で椅子の足を握って持ってです。 一瞬ならともかく、タメにいる女性ではなく、普通に女中のようにいる、人達ができるわけがない。 人一人を担いて・・・ということを、どうも、安易に想像しているように思うのです、いろいろ。 なので、どうしてずっと馬車がないの? 人力を作ったのに。

  • bekky1
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質問者が選んだベストアンサー

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  • takuranke
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回答No.9

>平安時代には牛車もあったので、’貴人’が動物の引く’車’に乗るということに意識的な問題もないように思う。 整備されていない路面で速度を出せばどうなるかわかると思います。 少なくとも牛車に馬を繋いで試した人はいると思います(私の想像ですが)。 牛より速度がはやいのでかなり難儀な乗り物になります。 この当時、当然サスペンション(懸架ばね付きの人力車は18世半でヨーロッパで発明された)はありませんし、ゴムタイヤでもないので、路面の凹凸はダイレクトに乗り手に伝わります。 また、日本では明治になるまで蹄鉄がありませんでした。 >道としての整備が必要かもしれないですが、せめて、街道を行くにはそのようが 運ぶ方も、運ばれる方も、楽だし、第一、権勢を見せつけるにカゴよりいいと思うのです。 五街道整備は江戸時代になってからで、 街道の道幅は二間から三・四間(3.6m~7.2m)、並木敷地の幅は9尺(2.7m)程度でこれは目安でしかないと「五街道取締書物類寄」に記載があります。 また、東海道ではこの当時路面が舗装がされていて排水設備も整っていました。 幕府は、道路整備の費用負担を考えてなのかはわかりませんが、 車輪付きの乗り物を街道で使用することを制限(ほぼ禁止)していたので、街道では大八車も使用禁止でした。 なので、直接馬の背に荷物や人をのせる方法にならざるを得ませんでした。 ちなみに江戸市中内での馬の往来も制限されていました(伝馬は別ですが、これは幕府専用のようなもの) それと、去勢技術がなかったことも挙げられます、去勢しないと気性が荒いのは治らないようです。 このほかにも、いろいろな要因で日本ではもともと馬車が普及する土台がなかったのかなと思います。 >何年か前にルノワールという映画をみた。その中で女性ばかり4人、それも当時ですから、長いドレスの裾を捲って、椅子に座ったまま、歩けないルノワールを川渡りでピクニックのように連れて渡るという場面があった。   椅子の足をもって人を運ぶのは持ちにくい体勢でなければそれほどきついものではないです(やったことがある)。

bekky1
質問者

お礼

動物の去勢に関しては、すでにして牛車の時から気の荒いということで 歌舞伎にも出てくるので、去勢という手法を知らないわけではないでしょうが、やらないということで納得してますが、荷物馬としてすでにして街道筋でもあるのに、なんで?という’馬車はない’という疑問です。 労力として御しやすい、パワーとして馬を’車’と合体、籠とも合体しての 工夫をしないわけはないと思うところです。 やったことのある方には反論はできませんが、女性は片腕20キロの鉄アレイを持ち上げられません。 ましてや、左側、右側とある時にです。 つまりは20キロを4人で持って80キロになるのを おそらくはそれ以上になる男性を、歌唄いながら・・・、多分、 実際には出来たのかもしれないですね。 エピソードとしてあるらしいから。 でも、日本人として、うーん、納得できない風景だなって。

その他の回答 (8)

回答No.8

江戸時代まで日本にいた馬は ポニーくらすの子馬なので 馬車だと荷車を引けない 戦国時代の映像で大きな馬にのって駆け回ってますが あれは嘘

bekky1
質問者

お礼

ええでも、義経一行は壇ノ浦にある裏山のてっぺんまで登って、更に馬に乗って谷を激走して下ってます。 大時代なフル装備してです。 少なくとも、江戸よりずっと以前の馬に、デキたことです。

  • eroero4649
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回答No.7

「主な原因」として真っ向する説が出ていますが・笑、要するにその二つが主な原因として考えていいと思います。 ひとつは、馬そのものの問題。幕末に馬に乗る姿が撮影されていますが、これがまた小さい馬なんです。 http://matome.naver.jp/odai/2134634191615056701/2134634280615164603 当時の日本人の平均身長が150センチ程度だったことを考えると、日本の内国産馬はポニーと同じくらいの大きさだったのです。これではヨーロッパのように馬車なんて曳けません。 さらにこの馬の足元をよーく見てください。分かりづらいけど、草鞋を履いています。そう、蹄鉄じゃないのです。蹄鉄を履かずに草鞋履きだったので重い荷物も持てないし、酷使すると爪を痛めてしまうのです。だから大事に扱ってやらないといけません。そういう意味では高級品だったのです、馬というやつは。 だから忠臣蔵で有名な松の廊下刃傷事件が起きたときに、赤穂藩にその急を知らせる使者は馬じゃなくて駕籠に乗って行ったのです。もちろん駕籠かきは都度交代します。馬なんてナイーヴな生き物を使うより、人間を使った方がはるかに頑丈で確実だったのです・笑。 なので明治維新が起きて近代軍隊を作ろうとなったときに陸軍が一番頭を悩ませたのが「馬がショボい」ことでした。こちらはポニーみたいな馬しかいないのに、ロシア軍の騎兵なんていったら700キロくらいある今の競走馬より体が大きい馬を持っているわけです。体が大きい馬は、重い大砲を曳くこともできます。だから日本陸軍にとって体が大きい馬を育成するのは喫緊の課題だったのです。だから公営競馬をして馬を育成しようとしたのです。JRAは「強い軍用馬を作りたい」から発足したのです。 そして次が日本の地形は山がちで道路も狭く起伏が激しいという問題です。おまけに雨が多くて雨が降ると道がドロドロになります。つまり車輪が思ったほど使い物にならないのです。ちょっと平坦に見える東京でさえ、皇居の北側(武道館や靖国神社のほう)と南側(東京駅方面)ではかなり高低差があります。その平坦な南側から品川に行くのでさえ、意外に上り下りがあります。増上寺(東京タワー)の辺りは結構高くて、品川は低いです。 だからもし今の東京駅辺りから品川辺りに物資を運ぶなら、船で東京湾を運んでいったほうがはるかに楽なのです。実際、当時はそうしていました。千葉方面なら割と平坦なので、結局当時の人はどうしたかというと運河を作って物資を運んだのです。 埼玉方面から東京(江戸)へ物資を運ぶのは荒川伝いで、多摩方面から江戸へ物資を運ぶなら多摩川を伝って運んで困ることはありませんでした。 結局、「平らな場所なら船を使った方がいい。平らじゃない場所は車輪を使った乗り物で物資を運ぶのは大変」という国なのです、我が国は。箱根の山を歩いてみると分かりますよ。到底荷物を載せた車なんて運べないですから。登るのは大変だし、下りじゃ勢いがつきすぎて危ないです。東海道でも中山道でも峠はいくつか越えないといけませんから、馬車の発達のしようがないのです。 >一瞬ならともかく、タメにいる女性ではなく、普通に女中のようにいる、人達ができるわけがない。 昭和40年代くらいまで、田舎の農家のおばちゃんが野菜を背負って電車に乗って各家庭を回って売っていたということがありました。まだスーパーとかがなかった時代だったのでね。その荷物の重さは50キロくらいあったそうですよ。つまり当時の庶民の女性は何十キロもある荷物を背負って歩き回るってことはフツーにできたのです。お嬢様ならまだしも、女中をやるような女は薪も割れる体力がないといけなかったのです。現代のひょろひょろの女と比べてはいけませんよ。その映画は映画だから綺麗どころの女性を集めましたが、そうじゃなければ田舎の女なら一俵(60キロ)くらい担げたって不思議でもなんでもないですよ。

bekky1
質問者

お礼

ああ、上り坂しか考えてませんでした。 下り坂のほうが’車’は危ないですね。 でも、馬が虚弱(?笑)というのは、そうでしょうか? 峠には荷物運びの馬と馬子がセットでいたはずです。 馬子にも衣装髪形ということわざがあるぐらいに、’高級品’の 馬を持っている馬子ですよ? 裕福なはずはないのです。 なので、荷物を運ぶ、人を運ぶ、車がある、なんで馬車にならないのかというなら、坂道の下りを日常的にくりかえせない・・・でしょう。 馬は、後ろ足は強いから登るけど、下りを過重な車を支えて下るのは難しいかもしれない。 多分、これがわかっているから、当時の人は義経の裏山を下っての奇襲に驚愕したのですね。 いろいろわかってきました。 赤穂浪士の時にどうして’駅’が使えない、使わなかったのか不思議なのですが。 公儀だけのものでしたでしょうか?

noname#224207
noname#224207
回答No.6

最大の理由は日本の地形です。 牛車が使われていたのは平坦な京都市内だけです。 車輪というものは硬くて平坦な地盤でなければ効力を発揮できません。 日本は地形的に山岳地帯が多く峻嶮な上り下りの多い地形です。 起伏がなだらかで平坦なヨーロッパとは地形が違います。 日本は降雨量が多く湿潤な地盤の地帯が大半を占めています。 重い車輪は埋まってしまいます。 さらに中小の河川がいたるところにあります。 車輪で川を渡るのはほぼ不可能ですので、川の度に乗り換えたり積み替える必要があります。 大型の河川の流域は現在と違い石コロだらけの河原です。 流れが緩やかな欧米の河川とは違います。 これも車輪には不利です。 名古屋も木曽川、長良川、揖斐川と広大な河原が広がっていました。 これに積雪が加われば馬車や牛車では歯が立ちません。 馬ソリ?そりで坂を上るのは至難の技です。 車両を牛馬に引かせるよりも四足の牛馬の背に載せた方がはるかに簡便に運搬できます。 牛馬を飼育するには相当な土地と労力(餌)が必要です。 人が人を運ぶ方がはるかに効率的です。 江戸の街もいわゆる下町と呼ばれる地域は全て埋め立て地ですので平坦ですが、山の手と呼ばれる地域は起伏にに富んだ地形です。 四谷、市ヶ谷、千駄ヶ谷、鶯谷、渋谷など現在も地名が残っていますように窪地がいたるところにある地形です。 結果として赤坂、神楽坂、さいかち坂、道玄坂、宮益坂など坂が沢山あります。 古い地名で富士見坂はいたるところにあります。 九段坂も文字通り九段の階段状になっていました。 明治時代にはこの段を人力車を押し上げる人足が坂の下にいました。 重量物を大量に運ぶためには河川が使われていました。 つまり船です。 日本の小型船は櫓と竿をつかいますので一人で充分運行できました。 馬に荷車を引かせるよりもはるかに大量の重量物を一度に運搬できました。 川は現在の高速道路の役割を果たしていました。 全国の城下町には必ず領内の大河へ抜ける水路が掘削整備されていました。 年貢米、薪炭、醤油、味噌、塩などの重量物は全て船で輸送されていました。 商業都市大阪も八百八橋といわれるように水路が発達していました。 家康が江戸の街を作る際に江戸城の塩を確保するために真っ先に小名木川を掘削して行徳と結びました。 東京湾は遠浅ですので潮の干満や風の影響を受けない水路をわざわざ海岸沿いに掘削しました。 ということで馬車の出番がありませんでした。 大八車も火災のさいの避難路を塞ぐ恐れがあり使用は制限されていました。 方向転換に場所をとる上に避難民の雑踏の中で横転したらどうにもなりません。 明暦の大火までは長持ちに車輪がついていて緊急時に引きだせるようになっていましたが、大火の際に通路を塞いで死傷者を出したことから以降は禁止されていました。

bekky1
質問者

お礼

もともと川には軍事目的として橋がないので、川そのものを利用する 水運が効率的であり、運河として有明ー浦安あたりにあったのも浮世絵にもありますから、それも当然です。 でも、内陸部はやはり’車’でしょう。 大八車でさえ使用を制限されていたというのは知りませんでした。 見回り同心に大八車の荷をチェックする役目専門がいたそうです。 ・・・と、いうのは、それぐらい大八車が多かった証でもある思いますけど。 なにより、隅田川沿いにコメが集まり、換金するだけでなく、 コメそのものを旗本に運ぶのは少なくとも大八車でしょう。 下り酒として酒もきている、川からは’車’で内陸に運ぶ。 ’箱に車のついたもの’そのものが禁止されているとはしりませんでした。 緊急持ち出しの為にがアダになっていたんですね。 ネックは、車に馬を繋いで利用することが途切れていることです。 旗本が使えなくなった馬をだしてもいいのに。

  • lv48
  • ベストアンサー率28% (153/535)
回答No.5

日本在来馬、和種馬は小型。馬力不足。 源平盛衰記は、武蔵武士が乗りかえ馬三騎と記述。すぐへたる。 日本では去勢術が発達しなかったので、発情期の際は荒々しく扱いずらい。 馬術が未熟。 メンタル的に馬を大事にしたから馬車は考えなかった。

bekky1
質問者

お礼

乗り換え馬三騎というのはしりませんでした。 チンギス・ハーンが全盛の頃の遠征は一人が5騎を常に連れてだというのを何かで読み、さすがと思いましたが馬が小さいとはいえ、3騎というのは初めてです。  最も、連れて行ってるとは思いませんが。 馬を大切には、ありですね、ただ、農耕馬も廃馬にする前にはあるのですから、有効活用として馬車だってありのはずなんです。

  • seble
  • ベストアンサー率27% (4041/14682)
回答No.4

歴史を勉強してる人はちゃんと知ってるんだろうけど、知ったかの思い付きで書きます。 まず、牛車なんて数はほとんどなかったと思います。水戸黄門にも銭形平次にもルパン三世にも出てこないじゃん、w 牛を食べない、牛乳も飲まない、ヨーグルトも作らないから育てもしない、数が増えない・・・ 仏教では牛は神様の使いだから大事にする。貴族しか持てない・・・ etc 馬は、戦国時代の重要な武器ですね。大事な軍需物質なので平民にはあまり与えたくない、もたせない、数が増えない・・・ 大八車はあっても、それを馬に曳かせる事はない、馬が高価すぎて平民には持てない・・・ 明治時代でも、一般人は食べるのがやっとです。 普通はもんぺ着て朝から晩まで田んぼや畑で働く。1日、1年中それだけ。 貧乏人は麦さえ食えない。芋と葉っぱばかり。 馬1頭いくらぐらいでしょうね。相当高価だったろうと思います。買える訳ない、えさ代すら無理。 人力車が普及したのは人間が安いからです。人件費が安いから大工も安い。人力車1台くらいなら何とか買える。もしくはそのぐらい自分で作っちゃう。馬を自分で産むのは無理、w 現代の日本の価値観は当てはまらない。北朝鮮レベルの価値観でしょう。 なんて感じでは? いや、今だって馬なんか誰も持ってません。えらい手間とカネかかるよ。 4人で1人を運ぶなら簡単ですよ。やってみれば?相撲取りならいざ知らず、太ってたって80kgでしょ。軽々じゃないけど、そう見えるだけ。担架は普通2人ですね。もちにくい椅子であっても4人なら。女中は年中仕事してますから力はあります。あなたみたいなお嬢様じゃないんだな。

bekky1
質問者

お礼

【まず、牛車なんて数はほとんどなかったと思います。水戸黄門にも銭形平次にもルパン三世にも出てこないじゃん、w】 牛車は小野小町の時代です。 水戸黄門より400-500年は前にはあった、使っていたのです、 自家用車として。 【牛を食べない、牛乳も飲まない、ヨーグルトも作らないから育てもしない、数が増えない・・・】 牛は食べません、でもヨーグルトは食べてました。 確か、蘇(そ)という名前だったと思いますが、道長より前の時代だったかな?なので、当時は偉い人達には、牛は自分たちだけの特権階級がもつ、 ’生きて利用する動物’でした。 【人力車が普及したのは人間が安いからです】 これはそうです、武士階級がなくなって、下級武士の再就職先が車夫です。 駕籠かきとは最初、仕事を奪い合って喧嘩したそうです。 でも速さが違うので、駕籠かきもまた車夫として転職したそうです。 馬はいたんです。 旗本階級は○○石ならば騎乗しての登城、家来は何人と決められていたから。 そして、役に立つ馬を持ってないとダメなので、何年かすると馬を替える。 手間も暇もかかりますが、○○石の旗本なら、そういう軍備を義務付けられていたので、当時も、馬の需要はあった、要らなくなった馬の活用法としても、馬車があっても良かったとは思うのです。 お嬢様じゃなくて、もう、ばぁ(笑)です。 でも、映画では椅子の足を握って、鉄アレイ20キロだって握って持って運ぶのは難しい。 でも、あのシーンは’実話’に基づいた映像だとは思うので、実際に そうされるのが日常だっただろうなとは思うけど。 でも、ルノワール役の男優は80kでは間に合わないぐらいな胴回りでしたけど。 でも、まぁ、力自慢は俵を両手に持って運ぶというのが日本の力持ちだったそうなので、ルノワールもそうやって運ばれていたのかもしれないですね。 ’村上海賊の娘’はそうやって大阪の本願寺にコメを運んだと書いてありますから、小説ですが。

回答No.3

幕府が軍事転用できる技術として禁止していたことが最大の原因です。 その他の理由としては明治以前の馬は小型でロバくらいの大きさなので乗馬か駄馬としてせいぜい90kg程度の荷物の運搬にしか使えないので重量物の運搬には牛、牛車の方が掘るかに効率的であるから。

bekky1
質問者

お礼

馬が小さいのは知ってます、それでも鎌倉時代の始まり前に、 義経一行は裏山を駆け下りたのでしょう? 人一人、フル装備した武士を乗せてです。 乗り潰したかもしれないですが。 それでも一人を乗せて走るより、引っ張るほうが労力は少ないと思われる。 駅として、街道の宿に馬は整備されてます。 駅という文字に’馬’がつく由縁だそうです。 ならば、ついでにと言うか、馬車があっても当然と思うのは、現代人だからでしょうか? 軍事目的として管理するほうが使うということだってありだし。

  • lions-123
  • ベストアンサー率41% (4360/10497)
回答No.2

>牛車があったのに、なぜ明治まで馬車がない? 思いつき、印象レベルですが・・・<順不同> ◇日本の原生種が質量ともに少なく、自由・大型大量な産物の輸出入がなかった時代であり、主として馬:軍事用、牛:農耕運搬用に使われていた。 ◇そのために需要と供給の面で言うと、平時に飼育繁殖の費用対効果(放牧飼育や調練や関連道具の常備の手間や人員費用)が見込めず、用途の広がりや利用拡大(馬車・競馬)が少なかった。 ◇移動や物流の手段としては距離が短く急峻な地形や河川の障害があり、インフラ不整備(道路事情・厩舎・飼い葉・乗り手・馬車)、それに支配体制の細分化された我が国の場合は関所や通行証の問題もあって、明治以前では天皇の行幸や参勤交代の様子から見ても大量輸送やスピードが優先順位で低かった。 ◇原則として食料としての利用がなかったために、一部の人を除き馬の最終利用が付加価値を生まず投下した費用や手間の回収や効用がなかったために、馬の利用価値&用途も広がらず需要の少ない中で関連機材や利用ノウハウの発展進化も少なかったのでは・・・ ※関連記事 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%8D%A3%E8%82%89%E9%A3%9F%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 http://www.hidaka.pref.hokkaido.lg.jp/ts/tss/umabunka/04-shiru/01-ningen-history/01-nihon-history/01-denrai-kamakura/

bekky1
質問者

お礼

農耕馬という言葉があるぐらいだから、老馬が有効活用さてていたとは思うのです。 武士が乗るのは、’車検前’の元気で若い馬で。 ならば、民営の馬車だってあってもいいじゃないか? フェラーリみたいな馬なら、偉い人の馬車を東海道なら、 街道としても整備されているであろうから、高速道として使えたはずと。 誰かが禁止してたからとは思います。 でも、禁止が先にあるというより、(馬車があった、だから)禁止したという順序じゃないかなぁ・・・と。

noname#219804
noname#219804
回答No.1

そう、それが不思議なんですよね。 現在の日本の道路に自転車用のレーンがつくりにくい理由の1つに、「日本には馬車の時代がなく、カゴや人力車からいきなり自動車になったので、自動車優先道路として発達してしまったからだ」という説があるくらいです。

bekky1
質問者

お礼

早速のご回答をありがとうございます。 馬もいて、車輪もあって、なんで?というのが素直なところです。 きっと誰かが規制していたんだろうなとは思うのですが。 そう、自転車道路ほしいです。 夢としては高速道路におまけのように棚のように作ってくれると良いのにと 勝手に想像してます。 風がすごいかなとは思うのですが・・・。

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