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善悪と善行悪行は違う(続き)

arayata333の回答

回答No.2

前回No11にて回答し、コメントをいただいた者ですが、ていねいなコメントありがとうございました。 こちらに 再回答させていただきます。 (前置き) たしかに 「わたしたち」にとっての善の必要性 と言う観点から深く哲学しておこうとするならば、 「まごころ」という視点をそこから抜いてしまっては、  必要とされるその実行性の強さは 得がたかったり へたすれば煙にまかれたり 思索が袋小路に陥ったりするかと思うのですが、 この回答にはたしかに、「真心」という存在 あるいは、その言葉を使わなくてもいいとも言えます。 たとえば、 >嘘の無い誠意<でもいいですし、 嘘の混じっていない利他心であってもいいですし、 その善意が本当と言えるかという地点を自他においてチェックしておく必要があるわけですが、  そこを疑っても疑っても たしかな善の心がある場というものを 一度確認した上では、 道徳自体の価値も けして色あせることなく さまざまに見えてきます。    「べき」の世界の深さ(必要性の深さ)や、その尊さ(その努力の世界へのリスペクト)が もはや矛盾無く見えてくるということです。 そして 通常 道徳と言う時には、かならずしも知的にのみ「社会全体の秩序や、最大多数の最大利益」を考えるところから そこに自己の安泰も加味して考えるだけのものではなくて、  たしかに 嘘の無さとか 理想の利他とか 他人へのリスペクトを基礎とした感謝の心とかも 複合的に語られている存在です。 そちらの良識の目から見ると なにも徹して嘘を見抜く必要性を道徳という概念の中に持ち込まなくても いいと思えるでしょうし、 わたしにしてもそのようなフレキシブルな道徳の複合性を認めていないわけではないのです。 ただ、 私の最初の回答としては この質問文に対して 善悪に関するその地点の厳密性を抜かす事はできませんでした。 撤回はできないところです。 しかし、 それを断っておいてならば、 ストレートに 前回のNo11にてのコメントで求められていた例示の方へと移っていくことも出きるかとおもいます。 道徳とは 心の意図の世界も含んだ世界でもあり 真心自体もその中に複合的にふくまれている とも たしかに言える世界でもあるのですからね。 * (上記前書きへの付け加え) なお、今回 > ~。ゆえに、善悪は、独善的かつ恣意的な判断基準であることを前提にして、< という前提条件が ついていますね。 通常、「真心」というと 独善的とか恣意的ということとは180度別な性格がはっきり本質的に含まれているため、  それですと、この回答のための前提条件にはあわないように思われてしまいますので、  そのへんだけ付け加えておきます。 もし「真心」の善が、真心とう観点において確かなものであっても、「真心」もまた 相対的なこの世界の中にさらに客観視されて、あるいはさらに「見つめられて」あるべき べき存在です。 まず、弱い生物としての限界性もそこにはありますし、 その確かさ自体が失われる場合すらある世界もあるということです。 詳しくは略しますが これはだいたい解かると思います。 「べき」に引き継がれてゆくべき性質のものでもあるということです。 もう一つには、真の善意(意図です)も、行為としては当然間違えることはあるのであり、それが真の善あるいは真心からの善であるならば、 反省につぐ反省をともなうこともあるということです。    そして、そのへんのこの世界の事情を考えると ここには《神の知性(想像される神の知性ということでもいいです)》と人間の知性との決定的違いがあるわけです。   私達人間は 隣の人、いえ家族であれ、親友であれ、 その本当の心の内側を 《物質や生命に偏在している知》のようには 見たり聞いたり悟ったりはできない と言うことです。   その限界性のうちには、 「真心」がいかにあろうとも  独善性というものは常に存在しうるということです。 いえ、 それが真に「真心」であるほど、あるいは深いほど、 独善性を疑い続ける必要性があるということです。 逆に 「真心」もその意味で独善的であると見抜いておくべきところかとも思います。 常にそのようにも客観視し、どこまでも進んでゆくべき行為としてです。 以上を 私の方からの回答の 前書きとさせていただきます。 * ★★《権力欲とビジネス欲の絡んだ宗教》 この只中に「悪意の在る善行」と「善意の在る悪行」が しかもさらに複雑に?からんでいて、 切実な問題でもありつつ、  触らぬ神にたたりなし^^といった気持ちになってしまう問題ですね。… …。   ★ 《単なる金儲け》 「悪意の在る善行」、あるいは正確には「悪意も伴いがちな善と善の仮面とのまざった行為」でしょうが その典型ですね^^。 ☆《へたな親切をしない》 車社会での 過度の譲り合いはそれ自体危険である場合がありますが、 そのへんをしっかり見抜いて親切にする場合も 結果として親切にされた人を甘えさせ それが事故につながる場合さへあるかと思います。  時に鬼になってでも つめたく 無視する必要性があるということに よく気がつかされるところです。 鬼となったほうが生徒が育つ時もある。 (つぶれてしまう時ももちろんあり教えるもののその力量は問われましょうが)  この指導の時には 見て見ぬふり、あえてつっけんどんにすることが相手を認め信じていることにつながるときもあります。  すべて 親切にしないほうがいい時の例です。 「善意ある在る悪行」のあるべき典型ですね。 ☆《政治家は嘘つきであるべきである》 これは多少複雑な言い方ですけど、これも「善意ある悪行」の典型例だと思います。 まず さまざまな利益団体という存在の衝突が今の時点では必ずあるわけです。 であるならば 「最大多数の最大幸福(これは、幸福という概念が曖昧であるので、いままで正しく使われてきた言葉とは私は思っていません。 ですので、 正確な表現として使っているのではないことをここに断っておきます。)」にいたる過程としてのあり方とか理想とかも 消して一定してはいません。  で、 人間としての真心のある政治家が 例えば その衝突の中で 苦しんでいる人のその質を考えた上で、また金持ち必ずしも幸せならずの哲学を深く思索し、金持ちにも協力させての そのもっとも苦しんでいる人の救済を 優先順位の一番にするリーダーシップを発揮したとします。 でも それも相対的です。 政治の世界では相対的です。(詳しい想定はこれ以上は略させていただきますが 言いたいことはわかると思います。) 一言で言えば 別な人が、いつどこでさらに苦しむ結果にその救済がつながってしまうという可能性も そこにはあるということです。 例えばの話ですが…。 つまり 政治家には 考えられるだけ考えた上での独断実行の強い意志が必要 すなわち 腹芸が必要と言われているところだということです。 マスコミがこんなに ごたごたしてる状態の世の中では 腹芸だけじゃすまされないことかもしれません。 マスコミをもまきこむ  巧妙なしかけや嘘すらも必要となるということです。  テレビでの 単純な民主党と 首相との 嘘合戦は^^は ただの茶番劇に思えますが。   そういう嘘も 少しはほんとうに必要かもしれません。  でもここで言う嘘というのは、 ほんとうに国民をだますということです。 もし、ばら撒きなどとマスコミに言わせなければ 一策しか残されていなかった(ほかにも政治での手はありますが)景気策も  深い信頼を得て行われたとしたら どうなったと思いますか?  もちろん、すでのそれはとっくに スピードでおこなわれていたでしょうしね。  経済学ではそれしか、策は無かったと言われてるのですから、  はて、このへんの真実は もはや    消えてしまっているわけです。 まさに 政治の場とは、「善意のある しかも一大独善の必要な悪行」の舞台ではないでしょうか? 真心に嘘がないなら、それが本物ならば、 それを希求するはずです。 事がどんなに小さくても 大きくても、どんなに遅々として進まない一歩一歩であっても 真心は真心ですから^^。 それぐらい、真心も 独善的でもあるのでしょう。 …。(意を汲み取っていただけるとうれしいです。)

qsxdrfvgyh
質問者

お礼

なるほど。 大変、優れた例示だと思いました。 求めた2種類以上に複雑な例示まで示していただきました。 独善的かつ恣意的な判断基準である善悪が顕現する場合だけでも、 これほど複雑であるのならば、判断不能で隠れた善悪の場合は、 もっと複雑で記述不可能になるのではないかと思われます。 つまり、必ずしも真心は、独善的な点に限定する必要は無く、 「独善的かつ恣意的な判断基準である善悪」でなない種類の善悪に 含まれる部分があってもいいと思うのです。 「判断不能で隠れた善悪」とは、意図しない善悪です。 たとえば、アインシュタインの相対性理論です。 これは、原子力発電と原子爆弾の両方の元です。 原子爆弾に限定しても、抑止的に有益でもあり、破壊・殺傷的に有害でもあります。 物理学の知的な追究の結果、意図しない善悪に関わってしまったわけです。 本人以外は、それぞれ独善的かつ恣意的に、善いとか悪いとか言えますが、 本人は、真理を探究しただけで、一概に善いとか悪いとか言えません。 真理探究は、嘘を憎み、利他を実行する、真心と関係なくもないと思います。 独善だけでは説明できなさそうなのです。 かなり、錯綜してきました。 誰かにまとめていただけたら、と思います。

qsxdrfvgyh
質問者

補足

>その限界性のうちには、 「真心」がいかにあろうとも  独善性というものは常に存在しうるということです。 いえ、 それが真に「真心」であるほど、あるいは深いほど、 独善性を疑い続ける必要性があるということです。 >逆に 「真心」もその意味で独善的であると見抜いておくべきところかとも思います。 常にそのようにも客観視し、どこまでも進んでゆくべき行為としてです。 各人の有限性・限界(究極的には死)を認め、だからこそ、完全でも完璧でもない人間は、進歩もあるし、堕落もあり、そのどちらでもある自由と責任を背負って限られた時を生きている存在だと ハイデッカーは教えてくれたと思います。 前向きに独善を反省しながら、真心の理想を抱いているのも人間ではないかと思いますし、無反省を選択する者もいるのでしょうね。

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