• ベストアンサー

So this is Christmas,戦争のない世界について

arayata333の回答

回答No.18

No16から続けます。 哲学カテで重要な質疑がある場合 いつも思うのですが、性能のいい車が精密でしっかりした構造を持ちながら車軸の大事な走りの要にてその歯車のかみ合いに《ゆとり》が必要なように、  私たちの生活が最高に快適であるため いや幸せであるための論議にも それが哲学的であるほどに こうした表現の《ゆとり》が必要だったりするところだなと  思ってしまいます。 本気度に応じて そして平和や愛との関りに応じ、その緻密さ高度さに応じて許されるべきところかと 。 * 続けさせていただきます。 事を解かりやすくするために 図で整理しなおしてみました。 便宜上の図ですが、シンプル・イズ・ベストを求めてのもの。 まず 三つの円を横にならべた図を描きます。  円は 生物でもあり人間でもある存在の意識の世界を現します。 右側の円は、動物の意識状態がその完全性のある特徴を示す意識状態を表わしています。 (実際の動物の心理は ほんとうはもっと複雑で豊かなところもあるはずと思っていますが、 深入りはここでは避けます。) つまり、 その意識内に 例えば「仲間意識」とか あるいは毛づくろいのような優しい感情があったとしても、そのすべては自己保存本能意識内の感情であり意識だという意識状態を表現する円だということです。 人間の場合の例ですと、 嘘をつくなという道徳にしても、完全に嘘をついたら金儲けの場でも信用がなくなる分損だという範囲でしか受け付けない状態^^とかいった意識ということです。 それ以外なら平気で嘘をつくとかとか^^。 それにたいして では真ん中の円はというと、 これは楕円としてみたのですが、説明は、先に左側の円の説明の後にまわします。 一番左の円は、 その中心に「幸せ」、あるいはそう呼べる感性の世界という一点が明確にあり、 そこからは放射状に 円を突き抜けて他の人間(他の意識→他の円)にまで向かっていくというエネルギー線の描かれる図をイメージしてみてください。 感性が高まり、そう呼べる点、「幸せ」と呼べるだけの一点となったときのエネルギーは これを真心よべる他の存在他の意識への思いやり、深い関心、ともに幸せであろうとする人間意識、 苦しかったらそのままでいることは同じ人間として出来ない、という自然な利他の意識となってゆく あるいはなっている、ということを表現する円と線です。 では、 その時真ん中の楕円とは、 これが道徳意識円という名で呼べる図だと私は思うわけなのです。 プライド、人間としてのプライド、文化人としてのプライド、誇りの高さ がゆえの、道徳意識、 これはしかして、 円は両側の円の間を両方に引っ張られながらゆれてる姿とも例えられるでしょう。 もし、深くあいする家族とか 大好きな恋人の寝息に 無限の幸せを垣間気づくひと時とか  ふるさとの海辺にどさっ寝転び 聞こえる潮鳴りの中でやがて心が始めて一番星にきづくような安らかなひと時とか、 のそんな充実した心のうちには、 プライドもなにも超えた真心しかないでしょう。  それが ほんの弱い放射エネルギー線でも それは必ず同じ人間の存在へのリスペクトをともない他への真心と呼べる線として描かれるという意味合いの図が、 繰り返しになりますが左の円として、 真ん中の円は 裏の心は極端には間逆であるばあいさへある 嘘も可能なそんな揺れ動く不安定な、、そういう楕円の円ということです。 その時、 ご紹介くださったカントという学者の哲学にその楕円の円の左右への引っ張られ具合とゆれを見るのは おそらくわたしだけではないとおもわれましたが  いかがでしょう。 わたしなりに、 >ここからまた逆に平等への欲求が来る。それは、誰にも自分を上まわる優越を確立してほしくないという欲望と、他の人間がそうしてしまうかもしれないという懸念において、表現される。この過程は事柄の本質を表現しているので、身分や地位を得ようとする抗争、偽善や競争、嫉妬や忘恩や意地の悪さのような文化の悪徳を、徐々に惹き起こすにいたるのである。< とのロールズの《カントにおける悪徳感》についての描写を一つ一つ分析することも可能ですが、  全文とかを読めない状況下でもありますし、   私の言わんとしている意味合いは すでに通じているかとおもいますので、いちいちの分析は これ以上は、ここでは差し控えさせていただきます。 しかし、次の>善の素質<との文は、 この図で言えば やはり真ん中の楕円をそれ自体抜け出していない 善 の素質 の事を意味していることは文脈全体から明らかであることは指摘しておきたいところです。 これに 悪徳が接木されるということは確かに充分に考えられるとことであり、 それでは名誉欲を刺激されてのアーミーの存在や狭い責任論の世界を抜け出せない論理となってもしかたがないところ、おそらく そのへんのカントの平和論も 左右に揺れて不安定なものであったろうと想像されてしまいます。 おそらく そこにその難解さの必然性があるのかとも思いました。 ロックとルソーとの間の揺れも まさに その楕円性を意味しているのではないでしょうか? * >ところで、ロールズの解釈「悪徳が善への素質に接木されている」に従えば、質問に挙げた仮説にまた戻ってしまいます。< そうですね。 確かに真ん中の円に哲学がとどまるかぎり、 哲学は過去に作り上げられた経済の仕組みやそこからの政治権力の流れに対して これからも無力なのでしょうね。 * 細木数子さんのことは、イソップの北風と太陽のシンプルな寓話を受けての“ここでの平和論からは少しずれてもいるお話”ですし、 ニセkigurumiは 親しさをおぼえての冗談^^です。 ノータッチで、結構です^^。 ただ、このとき 「北風と太陽」の話自体は、はずせないところと私は思っています。    世界を牛耳るほんの数百人のお金支配者がいたとして、 そいつらも同じ人間として接する以外に、 平和はやってこないでしょう。 そいつらにこびる^^なんてことじゃないすよ。  そういうチャンチャラ可笑しい笑いばなしがここに必要な哲学なのではなく、 そういう人たちも含めて  三つの円がそなわった同じ人間として、  神様に少しでも近い愛情や友情で接し 同じ人間としての 「幸せ」を何もかも過去のことを忘れて 想えるようなそういう哲学が必要だということです。 なんで、人を支配して 幸せなんですか? なんで、ダイヤを支配して幸せなんですか?  そんなむなしい人間では、大きな庭があっても 貧しい人がぼろぼろの窓に雪が降ってきことを感動するあたりまえの心にもおよばない感性にどんどんなってってしまうだけですよ。 ということです。 そのへんをどれだけ これからの哲学が すべての人により深く、より解かりやすく よりドラマチックの語れるか? この道は、存在しています。  困難かもしれなくても ここに山は 存在しています。  人間に涙と笑いがあるかぎり。  絶対です。(あ また感情的になってしまいましたが^^)。

fishbowl66
質問者

お礼

arayata333様、お久しぶりです。 いつのまにか、桜の便りが聞かれる季節になってしまいました。 この数ヶ月、回答をよく吟味すれば、どんなお礼が良いのか、ある種の結論が出せると考えていたのですが、結局それは間違っていた事に気がつきました。つまり、熟慮の結果の結論は出せませんでしたが、お礼が遅れたと言う結果が原因となって、未消化のままお礼を書く事しか出来そうもないと言う事です。 この事は、去年まで否定的だった循環論を受け入れざるを得ないと言う、一つの方向転換を余儀なくされています。 この経緯については質問の内容と無関係ではないので、もう少し判りやすく説明した方が良いでしょう。 去年の暮れに、準備していたお礼の内容にはarayata333様のご回答が未消化であると記録されています。そこで、お礼をかけない私が、お礼を遅らしてゆっくり検討すべきだという私に押し切られ、「ひま薬」とか「人の噂も七十五日」と言った常套句の上にあぐらを掻いていたのでしょうか、それが、先月頃から、お礼が二ヶ月以上遅れた時期に、私自身の行為というより不行為の結果が原因になっていることに気がつきました。と言うのは、当初のご回答に対してお礼をすると言う事とは、別の次元で、結果が原因に転化しているわけです。これは、因果関係の連続とか、風が吹けば・・・ごく当たり前のことかもしれませんが、自己の同一性の中の循環論と表現すればよいのか、適当な言葉が見つからないままで・・・ 出来の悪い言い訳は諦めて、実のところここのお礼も正直苦労しました。arayata333様様の気持ちは痛いほど伝わりましたが、正確な意味がもぅ一つはっきりしません。特に、三つの輪の図式の辺りですが、なかなか意味が伝わってこなかったのです。 その原因が、おぼろげながら想像が出来ましたので、補足欄を利用して、説明してみます。 あらかじめ、簡単に要約すると、直観的・感性的な記述と論理的・鉄仮面状の記述の違い、と、解釈してみました、もし違っていたら、申し訳ありません。その理由は、三つの輪に区別する場合の、境界線と言うか幾何学で言う補助線のようなものが私には見つけられなかったと言うことです。 これから、付け加える補足は、引用も多く長文になりますし、これが正しいと主張するものでもありません。私の脳の中は、こういう図式になっているようだ、と言う独り言です。

fishbowl66
質問者

補足

あらためて、三つの輪の図式の中で「道徳意識」と言う言葉が表れますが、道徳に関しては、道徳感情と道徳感覚(社会規範)と言う一般的な対立があります、この辺りを避けるために、「道徳意識」と言う表現をお使いになったと想像しますが、道徳感情というより、感情自体について、なかなか難しい問題があります。以下の二つの文章を読んでみてください。 「われわれの生活には、実際には変更不可能な要素と、良かれ悪しかれ、変化に左右される要素がある。生活における変更不可能な要素は、われわれの心を動かさないが、変動する要素は希望と恐怖を生み出す。人間の感情は確かなものよりも不確かなものに向けられるから、人間の感情的な性格は、その人が住んでいる社会組織の影響を直接受けて決定される。収入が変動しなければ、人間は金銭についてあまり考えないし、社会的地位が変わらなければ、家柄を鼻にかける俗物などにならないだろうし、自国が強大であり外的も歯が立たないならば、熱狂的な愛国者にはならないであろう。」 (『人生についての断章』バートランド・ラッセル) 「感情は、これまで、行為者の合理的な行為選択を誤らせる非合理的な攪乱要因と見なされるのが一般的であった。抑えがたい怒りが余計なひとことを言わせたり、失敗に対する恐れが本当の失敗を引き起こしたり、過度の愛情がかえって恋人を去らせたりする、というのはよくある話だろう。では、感情は一体何のために存在するのか。感情は、人間の進化の中では、たまたま選択された別の機能Xの副産物として残ってしまった厄介なお荷物にすぎないのだろうか。しかし、感情が行動や認知に及ぼす影響の甚大さを考えるなら、感情がたとえ悪役であっても、自然淘汰を生き延びてきた主役ではなく脇役だ、ということは考えにくい。・・・つまり感情が主役級の悪役なら、自然淘汰の矛先はほかならぬ感情にこそ向けられ、人類の初期の段階できれいさっぱり消し去られていたであろう。それゆえ、現在の人類に感情が現に具わっているということは、感情がその機能のゆえに淘汰を生き延びてきたということの証拠としては不十分かもしれないが、感情がトータルとして淘汰の対象となるほど悪しき結果を人類に及ぼし続けてきたわけではない、ということの証拠にはなるはずだ。」 (岩波講座哲学5 機能する感情・幻想する感情 柴田正良) 各々の文章は、私の読書録の中から取り出したもので、その都度、役に立ちそうな文章を拾い出していますから、単独で読めば、それなりの納得できる文章です。しかし、こうして二つ並べると、どうでしょうか、前者は感情を社会的として扱い、後者は感情を遺伝的に捉えています。前者は外部に後者は内部に感情の原因を見つけますし、ラッセルの言葉を踏まえれば、前者は変えられる物、後者は変えられない物と言うことになります。 arayata333様には、どうしてこんな細かいことが気になるのか不思議でしょうね。 これは、考えることの土台の問題です、例えば、 A感情は、自然的でもあり非自然的でもある。 B世界は、自然的なものと非自然的なものにに分けられ、それ以外のものは存在しない。 C自然的なものは、決して非自然的なものではなく、非自然的なものは、決して自然的なものではない。 Dしたがって、自然的でもあり非自然的でもあるものは存在しない。 結論、感情は存在しない。 これは、屁理屈というのでしょうが、論理的には正しいと思うのです、このことの是非はともかく、私の場合はこのような形式の考え方をすることが多いのです。お礼欄で、arayata333様のご回答を直観的・感性的と勝手に決め付けてしまいましたが、私の記述方法は、意味を優先するあまり、気持ちが伝わりませんし、結果として、直感に反する(感情は存在しない・戦争のない世界は存在しない)結論に頭を抱えているわけです。この長い文章の中で、補助線についての説明をしたつもりですが、上手く行ったかどうか、心許無い所ですが、時間を掛け過ぎたようですし、ひとまずここまでにします。 arayata333様は、感情に詳しそうですから、率直な感想を頂ければ幸いです。 >細木数子「 もっと与えなさい。 与えなさい。 与えなさい!」 そうすれば、人間の本性は、変わるのでしょうか? お蔭様で、普段使わない、脳の歯車の隅々まで、ギシギシと音を立てて回転させました。歯車にゆとりが出来たか、逆に、歯が欠けて、空回り状態に陥ったのか、よく判りませんが、大変考えさせられるご回答を頂、お礼が遅れたことを含めて、心より感謝いたします。

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