• ベストアンサー

So this is Christmas,戦争のない世界について

arayata333の回答

回答No.4

神様でも 未来のすべてが解かるなどということはありえないとおもってるのですが、人間の浅知恵でしょうか^^。 可笑しいと思うのですが、未来という言葉はあるにきまってますが、未来自体は、まだこれからのことですよね。  過去から「今」をさぐる探り方の中に 人間の場合の未来の推理が行われえるところです。 何故 未来論なんていう哲学が延々と語られたりするので笑。 3)から回答します。 哲学には知のゲームとしての堂々巡り遊びの世界がどうやらあるようです。 あらゆる方向から物事は さいごまで考えることができるのですが、たとえば無神論と有神論、どちらもこの実際のこの存在を別面から考えています。 おもしろいのはその中間も 真剣に考えられてるようですね^^。  その三人兄弟の喧嘩は、全部 それぞれの言い分ちゃんと成り立つ考えです。   しかし、最後まで突き詰めれば 同じことを語るところにいきつくはず。 そこを途中で 喧嘩の論議を膨らませて 勝てばとくとくとしてる。 これでは、哲学に限界があると思われてもしかたないし、 実際のこの存在の世界に大切な大切な大切な 物事に いつまでたっても「すこしの見通し」すらつかないような哲学(深くはある思索展開?)がはびこり続けるだけでしょうから、 その意味でなら ほんとうにこのmままじゃ、 哲学には限界があるとも言えてしまうのかもしれません。 でも 哲学に限界なんてあるはずないんです。 また、あってはならないんです。 そんなこと、 可笑しいです。狂っています。 めちゃくちゃなお話です。 憎しみの連鎖を解ける可能性を有しているのも哲学のみです。  それはこの大地の「友としての夢」の世界であり 唯一睡眠中の「夢」を見ていない状態です。  そういう意識の人間としての闘いの世界です。 《「夢」の幻想》の世界を知が遊ぶのは、 哲学ではないはずです。 存在が 深い深い謎で存在している以上、神がありもしない世界というこをであり幻想であると規定することは出来ないですが、 神についての哲学が 親や社会規範の幻想であったり時には隠された私利私欲と権力の道具にされた幻想であり続けたのも      戦争の巨大な原因だったりしてきたでしょう。 2)への回答に移りましょう。 戦争がなくならない可能性を なんで語ったり哲学したりする必要性がこの大地の上にあるのですか? 戦争がなくなる可能性を探る哲学は、 絶望の淵をこえてでも、「今」考え続ける課題でありつづけるべき事です。  悲惨は戦争時には その苦しみをやわらげる方法なんて無いです。  そんな精神力の人は見たことないです。   (私は子供の頃、 南京の大虐殺の当事者の方から そこにいたる神経の変化を 詳しく聞いたことがあります。   虫も殺せない当時の田舎の素朴な日本人が  いつしか恐怖の最中、狂ったように子供にまで威嚇的に銃でこずき生き埋めにしてしまうような心理にいたる過程をです。   白髪の“優しさが 子供にも伝わってくる”そんなおじいさんが 今はもうおだやかに     お話してくれたことです。  子供だから 話せたことでもあったのでしょう…。) 戦争のない世界はいかにして可能か。 について、幻想段階で喧嘩しあうような哲学だったら くその役にもたたないかもしれませんね。 >哲学的な考察は 有益でしょうか。< 有益にきまっています。 人間の脳を馬鹿にする必要はありません。 有益にすべきです。 考え抜くべきです。 どんな対話の挫折があっても このような議題について なおなおなおなお、考え抜くべきです。 1)に ここで移ります。 私は肉体労働者として 忙しく生きてきてしまったためもあり、それはある表現の世界の追求のためでもあったのですが、 本とかはあまり読めない人生でした。  ですので現象学が有名な哲学であるらしいことは知っていてもその中身は全く知りません。 過去のすべての現象を吟味して「今」をよりよく生きるための思索のことであるならば、 それは当然の考えの基本であるだけで 昔から誰もがそうやって哲学してきたことですので、  わざわざ現象学とは呼ばないかと思いますが、 結果 それが戦争がなくなる方向  人間同士がより深く対話でき、より深く交流でき、より楽しく遊びや楽しみを分かち合えるような平和な世界にする方向の、実際の「見通し」につながらないということならば、 それがなんで、人間の本性からの起因と関係があるものであるのかも解かりませんし、 その哲学もまだ幻想論争の域にあるのではと疑えてしまいます。 私にとって、まず、過去の哲学に疑いを持つのは、 感性の世界の検討がなぜ遅れているのか?ということなのですが、  簡単に言えば 星の光一つとっても 一枚の葉っぱをとっても、 そのすばらしさを感じる感性には無限の可能性があり、 がゆえに、この生に意味を感じ価値を感じるのに、 なんで、哲学がそれ抜きにこんなにも長い間 考え続けてきた^^のか?という疑問です。 笑い事とはおもえませんが…。  奇妙な奇妙な《現象》ですね??? 戦争はなくならないという仮説の吟味?  現象学て、へんな仮説をたてる、ありえないようなおかしな仮説をたてる 奇妙すぎる《現象》であり  その哲学?何で笑か?  (アイロニーがすぎるでしょうか?) >戦争のない世界について、哲学的考察は可能なのでしょうか。< 平和は、信仰の問題じゃないです。 信じたからやってくるという催眠術程度のことでやってくるものじゃないことは確かです。 最初に書きましたことから続ければ、 けれども「未来」について それは不可能と規定することは 過去の遺産の中の可能性の哲学如何によります。  平和を、今後も存在しないものについて考えること、と規定するのは  なんといったらいいのか 哲学を馬鹿にしてると思えます。 人間の脳の可能性の否定です。  知恵の否定です。 過去の否定です。  そのような考えの下もと)での考えが、まったく徒労なのは あたりまえのことです。 戦争や争いは あり続けました。 でもその因果も それだけ多く 多くの人が探ってきてるはずです。 クリスマスに その可能性への希望のようなものが起こるのは、キリストという人が 始めて平和とはということを優しい言葉で しかして、なぜかその昔に説ききってしまったからです。   私たちはまだまだ そのことを哲学しきれていないはずです。 無邪気に遊んでいる素朴な子供たちを抱きかかえて「このような人たちが天国に入るのだ」と語ったキリストの教えの世界。 子供たちはたしかにまだ世の中を知らずに弱い弱い存在ですから あっというまににごった世界にもそまってしまいます。 そこを哲学こそが、 もう一度真に そのような「子供たち」のような新鮮な感性の世界に、今度こそゆるぎなく立ち帰る道でしょ。 あのキリストのように、現象学は そのような子供たちを どれだけ深く抱きしめる哲学なのでしょうか? それとも、 今苦しんでいる子供たちの現象を忘れて、議論にのみ陥ってる段階の哲学なのでしょうか??? 来年こそ、日本も厳しくなるのでしょうけど、 来年こそ知恵の正念場、哲学の正念場とも言えそうですね。 …。    よいお年を。   あ  そのまえに、よきクリスマスを^^。 アーメン(そうでありますように。)

fishbowl66
質問者

お礼

arayata333様、難物の3)からご回答いただき、有難うございます。 ヴィトゲンシュタインは「語りえぬものに関しては、沈黙しなければならない」としてある種の哲学の終焉を宣言したと聞いています、尤も、私自身彼の一次文献は難解で読んでいませんし、解説書の類からの知識では誤解が多いのかもしれませんが。 このことに関して、私の感想は「語りえぬものに関しては、沈黙しなければならない」という標語が一人歩きしてしまい、私自身が「語りえぬものに関しては、沈黙しなければならない」を逆転して「語りえることと語りえぬこと」の区別をよく吟味することなく「沈黙」の言い訳に「語りえぬもの」を裏口から密輸入して、とりあえず納得した振りをしていたのですね。 私の場合も、仕事では第一線から脱落して以来、長いこと経済・社会・哲学の読書の中に逃避していたのですが、さっぱり先が見えてこない、ちょうど、以下の引用の心境です。 「しかし私たちはいま、私たちの未来をどのような方向に形づくっていけばよいのか、その方向性を見失って途方に暮れている。人類のレベルでいえば、環境と資源の問題、また南北の貧富の差の問題、多発する民族問題を、解決していく道筋がはたしてあるのか。日本社会にかぎっていえば、教育も政治も制度疲労を起し、経済は先行きが見えない。高齢者社会の到来も間近である。そして、何をめざして生きてよいのかわからない、という目標喪失の感覚を抱えている人は多い。方向がわからないだけでなく、ともに考えあうことで望ましい方向性を見出して対処していくことが「できる」ということを、私たちは信じられなくなっているのだ。」 (『哲学的思考 フッサール現象学の核心』 西 研) 引用した本では、内省だけではどうしても独断論でしか有り得ませんから、どうして対話が必要になります。現象学は実は少し時代遅れかもしれませんが、「戦争のない世界」を現象学するというより、「戦争」そのものをどのように把握するか、そのための対話そのものが、現象学だと解釈しても、そんな大きく間違ってはいないと思います。 1)戦争を現象学的に還元して、人間本性から起因しているもので、戦争はなくならない。という仮説について吟味してください。 戦争の原因について、いろんなご意見をお聞きして、お聞きした事に関して、私も考えたいとおもっています。 有難うございました。

fishbowl66
質問者

補足

文字制限に引っかかりました。 それではよいクリスマスを。

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