- ベストアンサー
詩的表現とは?
日本の詩における詩的表現とはどういうものをさすのでしょうか? 連とかリズムとか、そういう詩独特のもののことですか? わかりそうでわかりません・・・ そもそも詩的表現という言葉に定義はあるのですか?
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
>そもそも詩的表現という言葉に定義はあるのですか? 地球が自転しているのかいないのかとか、この宇宙空間は重力によって歪むのかとか、ナノンテクノロジーのデバイスの中を電子がどう動いているのかというような、メチャクチャに単純な現象には、はっきりした定義や白黒の証明があり得ます。しかし、人間やアリなどの生命が関わってくる社会現象や、言語、芸術、宗教、政治、戦争など、人間の営みを含めた途轍もなく多様で複雑な現象に対して、ドグマ的な「定義」は意味をなしません。そのような複雑系では、定義というよりは、我々はどちらかというと、その概念の本質を突いた鍵言葉(キーワード)に凝縮することで、その概念が形作る世界を認識しているのです。複雑系ではどんな定義を導入したところで、砂が指の間からこぼれるようにその定義もこぼれ落ちてしまいます。 日本の詩とは限らずもっと一般的に、詩とは言葉と言葉の連鎖による新しい世界の構築だと私は思っております。ホーマーの「牛の目をしたヘーレー」や、西脇順三郎の「校長が木に登った」などの例のように、常人には常識的には繋がらない「牛の目」と「ヘーレー」や「校長」と「木登り」のような二つの異質な名詞を羅列してみると、突然目の前に今まで存在しなかった新しい世界が生き生きと顕われてきます。 私は若い頃、このような行為を詩人の想像力の豊かさという形で捉えようとしていました。今では、その捉え方が如何に未熟で非生産的な捉え方だと思うようになって居ります。そうではなく、詩的表現の豊かな方には、抽象化能力があるのだと捉えた方が、的を射ていると思えるようになってきたのです。この世の中に、同じ現象は決してありません。量子力学でよく知られている電子の非区別性にしても、その事象が今起こっているのか、昨日起こったかの区別があります。ですから、ある事象と別は事象の間に存在する違いを指摘することは、誰にでも簡単に出来ることです。ところが我々は、ある価値観に基づいて本質的でない部分を切り落とすという抽象化と呼ばれる行為によって、一件何の脈絡のない二つの事象の間に共通な物や、強い相関を見つけ出すことができます。その抽象化能力の優れている者ほど、一件無関係と見える物の間に、意表を突いた強い相関を見い出し、そして、それを目の前に並べて提示することによって、新しい世界を産み出すことが出来るのです。これを詩人達はやっているのだ、そして、それが詩的表現として感覚されるのだという気に私はなって来たのです。私は自然科学者ですが、今まで何人かの優れて生産的な科学者に巡り会えた経験から、その人達の生産性の高さは、まさにここで言う抽象化をいとも容易くやってのける能力にあるのだと言うことを理解しました。詩人にしても、科学者にしても、その生産的な営みの底に在る物は「抽象化」という鍵言葉で括ることことができる思えるようになったのです。 以上が、私の拙い経験から得た「詩的表現」に対する私の私的な理解です。その認識を踏まえた上で、「日本の詩における詩的表現」とは、質問者さんの言うように、連とかリズム、すなわち、我々日本人が使い慣れた言葉の中で心地よい五七五などの連なりやリズミカルな流れを重ねた表現のことを言うのだと思います。 ただ、時々「日本の詩は他の何処の国でもある『韻』を使わないところに特徴がある」などとおっしゃる先生が居りますが、そんなことはありません。万葉集の、 よき人の よしとよく見て よしと言いし 吉野よく見よ よき人よく見つ 天武天皇 不聴(いな)と言へど 強(し)ふる志斐(しひ)のが 強語(しひがたり)このころ聞かずて 朕(われ)恋にけり 持統天皇 返歌 否(いな)と言へど 語れ語れと 詔(の)らせこそ 志斐いは奏(もう)せ 強語(しひがたり)といふ 中臣志斐(女) 等は皆立派に韻を踏んでいます。そう言う意味では、「日本の詩における詩的表現」は他の国の詩的表現と大して異なっているとは思いません。
その他の回答 (1)
「カチリ石英の音秋」 これはいかにも詩的な表現だと言っていいでしょう。 「石英の触れ合うカチリという乾いた音が、いかにも秋らしい。」 こうすれば散文的となるのでしょう。