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日差しが差す(陽射しが射す)という表現は間違っているのでしょうか?
日差しが差す(陽射しが射す)という表現は間違っているのでしょうか? 詩を書いているのですが、 「『日差しが差す』は『頭痛が痛い』と同じくらい間違った日本語だ!」 と、読んでもらった方に言われてしまいました。それに対して、間違っていないと言う人もいるのですが、一体、日本語としては正しい表現なのででしょうか? みなさんのご意見をお聞かせください。 国語のエキスパートな方いらっしゃいましたら、是非、お答え頂けないでしょうか? よろしくお願いします。
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一応、国語を職業としている者です。しかし、私の考えが、正しいか、あるいは、あなたを説得できるかは、また別問題だと思います。 さて、あなたが提起された問題(一言で言えば、重言問題)については、最近当サイトで、二度ほど同様の質問がなされ、それに対し、私も回答をさせていただきました(下記参照)。 その経緯を含めて、私なりに問題をまとめると、 1 何をもって、重言とするのか。 2 重言使用の可否。 という二点にポイントが絞られると思います。 お尋ねの例でいえば、「日差し」という言葉に「日が差す」という意味が含まれているので、「日差しが差す」は、明らかに「重言」です。 では、重言は絶対に使えないかというと、そういうわけでもないと思います。 例えば「日差しが降り注ぐ」といった表現も、厳密に言えば重言になる(差すと降り注ぐとの類義関係から)と思いますが、(失礼ながら)「日差しが差す」よりは抵抗なく受け止められるでしょう。それは、意味的というより、同じ言葉(字)の繰り返し効果に原因が求められます。 また、別の観点から見ると、確かに「日差し」は「日が差す」ということを含意している、あるいはそれが第一義であるとは思います。しかし、そこから派生した「日光」という意味でも、現在我々は「日差し」を普通に用いており、何の違和感も感じて(これも重言ですが、それについては下記参照)いません。 ということは、「日差しが差す」は「日光が差す」の意味になり(実際質問者の方も、また私自をはじめ多くの人も、そう受け止めていると思います)、意味の重複を避けるという重言忌避の原則(勝手な造語で、術語にあるかはわかりません)から見ても、使用を禁止すべきとまではいえないと考えます。 (ただ、詩中の言葉に用いる場合のように、推敲が要求される、あるいは推敲する余裕があるときには、意味的、語の構造的に重言ととられかねない表現は、避けた方がいいと思います。) また、先ほどの「違和感を感じる」ですが、これは、「新たな意味の付加」という観点から、下記の参考文献でわかりやすく述べているので、そちらに説明を譲りたいと思います。 長くなってすみません。ここに述べたことは、国語教材を二十年ほど作ってきた中で、様々なところから吸収してきたものを私なりにまとめたものです。(怪しげな文体と用語法を除いて、)オリジナルなものではありません。ただし、書いた者の責任は当然あると思っています。 当サイト内の関連項目(パソコン初心者なものでこうした書き方しかできません。謝ります。) 項目 国語 八月六日付「計画を立案する?」 項目 国語 八月九日付「「未熟」は~」タイトル不詳 参考図書 続弾 問題な日本語(P39~) 参考URL 下記参照 上記の本に関連したもの 時間が無くて、その他の資料、出典を明治できず、申し訳ありません。
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- hakobulu
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エキスパートではありませんが、個人的な感覚として述べてみます。 ◆ 基本的には、『日差しが差す』は間違いだと思います。 ただ、意味が重複しているというのは理由の片面にすぎません。 もう片面の理由は、おそらく「日差し」という言葉がまだ圧倒的な【熟語としての市民権】を得ていないからではないでしょうか。 具体的に言うと、「日の光」「陽の光」などに代替されて使われることがまだまだ多いと思います。 ◆ 「後で後悔する」において、 「後悔」という言葉は、「(後で)悔む」という言い回しなどに比べても圧倒的な頻度で使われていて、【熟語としての市民権】を完全に得ているように思われます。 そのために、 『本来「後で」と「悔む」の合体したものである』という成り立ちを云々されずに済むのではないかと思うわけです。 「一番最後」については、 「一番」という言葉が、『本当に』という意味を備えているという点で確かな市民権を得ていると言えるように思われます。 逆に言うと、「最後」は、『本当に(後)』という意味を常に提供するものだ、という認定がされていないのではないか、と思うわけです。 ですから「一番=最」とはならず、厳密には意味の重複とはならないために不自然ではない、ということが言えるのではないかと推測します。 ただ、「もっとも最後」などという言い回しを考えれば、これは不自然に感じると思います。 無論、言語の新たな役割を創出したり、ある種の違和感自体が、『詩』としての存在価値を向上させ得るのもまた確かなことでしょうから、そういった意図に基づいているのであれば感性の問題ですから、他者の判断を待つ必要はないのかもしれません。 因みに、「歌を歌う」を同列の問題とするのであれば、「歌唱を歌う」などという例として論じた方がよいように思います。
お礼
ご意見ありがとうございました。
- untiku1942
- ベストアンサー率32% (26/81)
エキスパート」でありませんが、申し述べます。1,「日差し」は意味のうえで、「強い弱い」や「延びる縮む」と関わる語です。2「日差しは強く(弱く)照りつける」もので「差す」とは言わない語です。3 個人的な感想ですが、「日差し差す」では、字面音韻ともに「詩」にふさわしくないなと思いました。以上老人の語感で申し述べました。
お礼
ご意見ありがとうございました。詩としてのご意見もありがとうございます!参考になりました。
- Segenswind
- ベストアンサー率50% (281/562)
#3です。 そうそう、「歌を歌う」という表現がありました。 重言のうちでも許容されている例として何か挙げようと思ったのですが、すぐに思いつかなかったのであいまいな表現でごまかしてしまいました。いけませんね。 「歌を歌う」がOKな理由は比較的分かりやすいと思われます。 #1さんが挙げてくださったものを例にとると、 「頭痛」は「頭が痛い」こと、 「違和感」は「違和(ちぐはぐ)を感じる」こと、 「徒歩」は「徒(乗り物無し)で歩く」こと ですが、 「歌」と「歌う」ことは違いますよね(歌う行為とは別に、歌というものが存在しますので)。 この線でいくと「陽射し」は「陽が射す」こととは切り離せないので、ダメということになりそうです。 ただ、このような記事もありました。 http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/yoroku/news/20060728ddm001070007000c.html これによると、「あとで後悔」「一番最後」「従来から」という表現に違和感を持たない人が多くなっているそうです(私は変に感じますが)。 これらは上記の考え方では説明できないので、やはり「国語のエキスパート」の登場が待たれるところです。
お礼
2度のご回答ありがとうございました。
“歌を歌う”(英語でも sing a song)は普通ですよね。 そのテで行くなら、「日差しが差す」も良さそうなものだけど、私も奇異に感じます。なぜでしょうね。不思議です。 “歌を歌う”が例外なのかなぁ~ 「国語のエキスパート」の登場が待たれます。
お礼
ご意見ありがとうございました。
- Segenswind
- ベストアンサー率50% (281/562)
エキスパートではありませんが。 そういった重ね表現は重言と呼ばれ、一般には間違いとされていますね(頭が頭痛で痛い、白い白馬、後ろへバックする……など)。普通の文章中、例えば新聞記事などではまず使われることはありません。 ただ詩の中で使うのであれば、#2さんの指摘にもあるように一つの文学的表現として成立することはあるかもしれません。 意味の強調をしたり、あえて普通でない使い方をすることで注目を集めたり、言葉の流れを整えたり、などの用法は考えられます。
お礼
日本語としては、間違った表現なのですね。 詩として良いかどうかの問題になりそうですね。 ご回答ありがとうございました。
- gyamboi
- ベストアンサー率11% (70/585)
日本語としては間違っていますが、 文学的にはわざとそのような表現がされることは あります。
お礼
詩として使っていることを組んで頂き、ありがとうございました。
- zasawaqa
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正しくはどうなのか分かりませんが、ふつうは「日が差す」という表現をしますね。 頭痛が痛い、違和感を感じる、徒歩で歩く、などと確かに似てますね。
お礼
遅くなりましたが、ご意見ありがとうございました。 一人でも多くの意見を聞きたかったので、助かりました。
お礼
ありがとうございます。大変参考になりました。