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現代の黙示録

arayata333の回答

回答No.8

大切なことをたくさん伝えてる宗教からは学ぶべきこと、学べることはたくさんあるかと思います。 でもむかし、 このことを知ってから私は宗教が組織として機能してきた歴史に疑問を持ちました。 ↓ ある伝統的な宗教の中でのことです。 その組織の一番偉い人達から一般の信者までが読む雑誌にて、 その宗教を非難していた人がかなり残忍な死に方をしているのを見て喜んでいる記事があったのですが …、 いつまでたっても それを訂正したりする人が その何万いや何十万の人たちに一人もでてこなかったのです。   普段慈悲を説く偉い人たちも ???  おなじだったということです? 信仰ということが 自分で感じ自分で考えることをおこがましいとするような そんな世界になってしまっていることは  これは大きな問題だとおもいます。 そこに抽象的な解かりにくい論理の争いでもあれば、もう一般の信者は何も考えずに自分の宗教指導者の考えとかに従ってしまいます。   この盲目状態は 半端でないです。  そしてこれが慈悲を説きながら逆さまの冷たい心に自ら気がつかない状態にさせてしまっているということなのです。 宗教自体には感謝しますが、 この状態はなんとかしなければならないと思います。 すこしでも すこしでも早くです。 (2) すこしでも 哲学できる生物の力を取り戻させることが大事です。 外からです。 この情報化時代には 可能と思っていますが。  それしかないと思います。         そしてそういう人たちが組織に増えれば、    正義は 真の正義となると思います。    (1) 神とは 権威とは逆の存在だというのが哲学の帰結の一つであると私は思っています。  存在しないに等しいとも言えてしまうのです。 でありつつ愛である存在、むしろ泣いているのは 泣き叫んでいるのは神の方なのです。      このことを ほんとうはもっともっと 知的にも表現豊かに哲学は 語るべき時なのではないでしょうか? 神の名のもとに、なんと間逆のことが起こっているのですよね。 権力、権威?     哲学者達は、いつも親たちとともに、うめいてる存在だと思う。 人間なりにですけど。

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