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宗教について
私はまったく持って神や宗教的なものをしんじていません。 それは信仰にすがるのはどうも性に合わないというまったく個人の問題ではあります。 創価学会の彼氏を持った友人は創価学会だということだけでその彼氏との婚約を破棄してしまいました。 宗教の自由は認めます。しかし様々な戦争、暴力、事件が宗教に関わっていることは現実にあります。 「信仰する」ということの心理。また、反対意見の伺いたいので宜しくお願いします。
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質問者が選んだベストアンサー
ほんとうですね… 自分は母がある宗教に入っていたんですが家事もそっちのけでそっちの作業?をしていました 親父も疲れて帰ってきたら飯も出来てない。 洗濯物をやってないの状況に疲れたらしく別居という感じになってしまいましたw 信仰するのは自分的には質問者様と一緒でまったく興味ないのですが家庭内にもってこられてわだかまりを感じている家族のことも考えてほしいです 義務だかなんだか知らないですけどそれによって本来すべきことをしないでそっちばっかやってる人間がいるのも事実なんです。 こうゆうトラウマが生まれてしまうと自分はわかっていても偏見を持ってしまいます。
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- songbook
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なるほど、すがって身を任せる、と言う意味ではどうかはわかりませんが、 日本人は、世界でも名だたる、猛烈に信仰心の深い民俗だと言えます。多神教なのです。 小学校のとき、「不潔タッチ」などという人道に反する遊びがありませんでしたか?「触ると○○がうつるぞ」と言うやつです。 根深い同和問題も、「彼らとの結婚問題は、考えてしまう」などという言語道断な考えが、長いことまかり通っておりました。 「ケガレ」の、おぞましいほど根深い信仰によるものですね。 結婚式や葬式を行うにも、「大安」「仏滅」などを気にし、完全に輸入物のクリスマス、風水、などもあっさりと取り入れ、明治時代にいきなり祭り上げられた明治天皇を「神」と呼びなさい、と言う法律ができれば、あっさり受け入れてしまう国民です。 おまじない、縁起担ぎ、占いが大好きで、自分で神様になろうとした人は数知れず。 まあ、なんでも神様になってしまう、お気楽な国民性です。でも、そのことに対する自覚のなさは考え物です。 宗教には、「安定を求める、すがる」側面、「超常物によって自らを律してもらう存在」と言う側面などありますが、どうも忘れられがちで、最重要なものが、「哲学的側面」です。 私たちは、どういう生き物であり、いかに生きるべきなのか。それを考え、深め合うのが、本来の宗教活動であったはずなのです。だから、無宗教とはすなわち、「哲学を持たない人」と、海外の人には思われてしまうことがあります。 真剣に人生を考えあい、先人の深い人生観を学ぶ。そう考えれば、宗教も本来はすばらしいものだし、広めたくもなるのですが、実際には質問者様が仰るとおり、変なものがいっぱい付随してしまって、敬遠したくなるものがほとんどです。嘆かわしいですね。
- unobiemon
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自分にとって宗教は「安定のための材料」です。 誰しも不安になることがあると思いますが、宗教はその不安を解決するための手段である、と考えます。 注意しなければならないだろうことは、あくまで”自分自身の安定”のために使うべき”「材料」”だということ。「材料」に翻弄されて安定を崩してまで自分のテリトリーを拡大しようとしたり、他人に自分の「材料」を押し付けたりしない方がいいと思います。 人それぞれ自分に合った「材料」を選択出来れば良いんじゃないでしょうか?
- jyamamoto
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あなたが言われる通り「まったく個人の問題」でおさまっている限り、「信仰」はすばらしいものです。 「信仰」だけなら、信じて仰いでいるだけですから「個人の問題」なのでしょうが、「宗教」となると「教え」を守る「集団」となります。 「個人」が「集団」化したときには、必ず「集団を守る」とか「集団を大きくする」とかいう邪まな心がその集団の規範として生まれてしまいます。 それが「宗教」の諸悪の根源だと思います。 個人が自分の「心」の問題として「信仰」することは素晴らしいことだと思うだけに、その「素晴らしい(とと信じている)教え」を広くみんなに伝えたいと考える「宗教」はまったく余計なお世話と言うしかありませんね・・・。
お礼
確かにその通りですね!!個人の問題として信仰をしている状態ではまったく問題ないし、それどころか信仰によって助けられているひとがいると思うと信仰は全てが悪いというわけではないのですね。回答ありがとうごさいました。