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現代の黙示録

green1957の回答

  • green1957
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回答No.2

元クリスチャンです。将来的にはまたクリスチャンに戻るかもしれません。 そんな自分にとっても、このポソ紛争のような宗教対立が引き起こす戦争については、悲劇とか無情とかのレベルを越えています。 こんな悲劇を生み出す宗教なんて害悪でしかない、と批判する人達がいるのも当然だと思っています。 しかし、あえて言い訳がましい事を申しますと、宗教を掲げて戦争をする人達は、単に組織を束ね、勢力を維持するための道具として宗教を利用しているに過ぎないと考えています。 敬虔なイスラム教徒やキリスト教徒なら、コーランや聖書の中に他者を傷つける教えを読み取ったりはしません。 とは言え、なぜ、このような対立が無くならないのか。 (イスラム教については不勉強なので、キリスト教を中心に書きます。) 問題は、聖書の教えこそが「唯一の真理」である、という信仰が未だ根強いせいだと思います。 まるで、神の奇跡的な力で、執筆者たちのペンが勝手に動いたかのような信仰です。 しかし、実際の聖書は、その指導的立場にあった人や、その弟子達が書いたものを編集した書物です。(当たり前ですけどね) 乱暴な言い方をすれば、様々な時代の預言者(予言者ではないです)が、当時の社会的価値観の影響下の中で「私はキリスト教をこう信仰すべきと考える」ということを記した手紙や文書の寄せ集めです。 当然、現代の価値観や常識では合わないどころか、障害でしかない箇所もあります。 例えば、聖書には同性愛を否定する記述がありますが、二千年前のキリスト教徒が性同一性障害なんて知るよしもありません。 でも今は違います。心と体の不一致や同性愛に関する、医学的な検証も進められています。 しかし、未だに「聖書こそが唯一の真理」と頑迷に信じる(特に原理主義者の)信者にとっては、同性愛=悪のままです。(素直に考えれば、生まれながらに神に否定される人がいる筈ないんですけどね。) 結局、どんな有益な教えも、受け取る側の勝手で都合の良い解釈次第で、いくらでも危険な教えになってしまうのです。 個人的な意見ですが、いかなる宗教を信じるにせよ、まずは真っ当な常識や知識、知性を身につけることが大事だと思います。 その上で、それぞれの教えとの接し方や、それが自分や他者の幸せにどうつながるのかを考えて欲しいです。 誰かを不幸にしたり傷つけたりするような解釈をしている時点で、その人の信仰は間違っているんじゃないでしょうか。 (ちなみに、現在は同性愛差別を明確に否定する宗派もありますし、同性愛者の牧師もいます。) あと、イスラム教についてですが、もともとキリスト教と同様ユダヤ教から派生した宗教ですから、実はキリスト教と同じ神を異なる形で崇めているだけです。 しかし、両者ともユダヤ教を受け継いでいますから(当然ながら)一神教です。なので他の神を崇めることを罪としています。 そのため、特に(キリスト教、イスラム教、そしてユダヤ教の)原理主義者達は、お互いの宗教を自分の人格や価値観を全否定する存在として敵視しています。 ちょっと意見が違うからと言って、父親と二人の息子が三つ巴のケンカをしているようなものです。 正直、本当にウンザリする人達です。 こんな自分が言うのも変ですが、今のところ、仏教が最も弊害の少ない宗教かなと思っています。

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