• ベストアンサー

ゴータマ・ブッタと現代人(私)の死後観の違いは?

bonbonnierの回答

回答No.8

お礼ありがとうございます。その中で列記された御質問に対して、私の答える範囲内で、回答させていただきます。 >2 釈迦に帰依した人々が輪廻を信じていたとすれば以心伝心でしょうから、釈迦もまた、輪廻を信じていた>ことになります。何故、彼はそれについて無記であったとする説が流布するのでしょうか。幾分なりと彼の>教えを現代風にアレンジしたいという意識をもつ人達が存在するのでしょうか。 釈尊の無記の理由は、Ano.7に回答させていただきました。あくまでも、無記は、釈尊の仏弟子に対するものであるということが重要な視点であると思います。そこに、何故、釈尊が弟子の形而上学的問題に関する質問に対して、無記の態度を取った根本的理由があると思います。一方、外教の論師等との議論については、この態度を放棄して、議論において相手を屈服させています。当然、出家修行者と同じく無記の態度をとっていたのでは、自らの仏弟子にさせることは不可能と思われます。論争の相手と相当つっこんだ論議もあったのではないかと思われます。 しかし、この釈尊の無記の態度を武器に、釈尊は輪廻を説かなかったとする見解もあります。大きくは、平川彰氏、中村元氏のように、釈尊の教えを宗教的実践者のそれであると捉える学者と、増谷文雄氏、梅原猛氏のように、釈尊を哲学者とする二つに大きく分けられるように思います。前者であれば、釈尊は輪廻転生を信じ、これを説いたということになるでしょうし、後者であれば、輪廻を否定したとの見解になります。この辺は、それぞれの学者の個人における学問的良心の問題でしょうか。また、日本仏教の中で、浄土(真)宗は輪廻転生を否定するのがなかば公式見解ですので、この真宗宗学の観点から輪廻を否定する小川仏乗氏のような真宗系の学者の存在もあります。 下記のURLはインド哲学者の宮元啓一氏のもので、前者の立場を取っています。 http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html >>3 当時は修行によってほんの一部の解脱者のみが輪廻から開放されました。今日では何の修行もなく煩悩の>>塊である私まで漏れなく輪廻から開放してくれます。科学の進歩のお陰です。輪廻から安直に開放されるこ>>とが個々人に、また社会に作用する影響は絶大なものだと考えます。此処で上手くそれを述べる準備はあり>>ませんが。 私は輪廻を信じていますので、この辺は、見解の分かれるところかも知れません。素粒子物理学等の進歩は、生命は炭素等の原子によってのみ構成されるとの、いままでの科学的常識に対して、それを曖昧化させる方向に進んでいるように思うのですが。 >>6 彼の地で何故、仏教には中興の祖が出現しなかったのでしょうか。ジャイナ教も仏教も下層階級の救済が>>焦点だったと聞きますが平等を謳うイスラム教に食われてしまったのは何故なのか。イスラム教が浸透し仏>>教が浸透しなかった理由に興味があります。これにも多分、極めて俗なる理由があるのだと睨んでいます。 仏教の潜在的弱点として中村元氏が二つの点をあげておられます。 (1)仏教の在家信者は最初期の仏教では中産階級が中心で、農民階層に広く浸透できなかったこと。この傾向は後に大乗仏教が興起しても、最後までその傾向が残ったこと。 (2)インドにおいては、中国、日本のように在家信者が、宗教的儀式(仏壇を安置し、日夜、礼拝する)を日常家庭に持ち込むことをしなかったこと。これは、仏の教えを次世代へ継承するという点についてむずかしい面があり、容易に他の宗教に変わりうる可能性を内包するものであったこと。 また、仏教の特色としては宥和的特性を上げられています。仏教は、西洋思想のように固定したドグマを立てて、それ以外の教えを異流義として徹底的に排斥することをせず、その時代区分、その地域の文化というものを尊重しながら、しかし、諸法非我という根本的な核は何ら変えることなく、法を広めようとしました。釈尊の布教の開始にあっては、バラモンを重んじる気風が強かったので、バラモンを否定することはせず、真のバラモンとはどのようなものかという態度をとりました。先に回答したように、バラモン教では「三明」という術語があり、これはバラモンにあっては三つのヴェーダ聖典の奥義に達することでしたが、釈尊はこれを自らの悟りの上から、「三明」の術語は尊重しつつも、しかし、その意味内容を仏教独自の意味に実質的に変えてしまい、法を広めました。「わたしこそ真のバラモンである」という布教の態度は、既成のバラモンと一切の摩擦を生じることなく、バラモンの階層に広く浸透していくことができたのです。 その時代の文化を最大限に尊重して法を説く仏教の宥和的性格は、異なる時代、異なる地域に仏教が広まる上に、なんら血を見ることはなかったのです。この宥和的性格は、広範な地域、異なった時代に法を広める上では正しいあり方でしたが、教えが変容しやすいという危険もありました。 カースト制度を維持しようとする既存の権力(バラモン)による復古の外的圧力もあったわけですが、仏教自身が限りなく密教化、ヒンドゥー教化していったのが根本原因であるといわれています。 原始経典のうちにも呪術的要素は説かれているのですが、民衆の宗教的要求に答える形で、陀羅尼の信仰が盛んになってきました。大乗仏教の空の教えを説く龍樹を祖とする中観派と、輪廻の主体としての阿頼椰識を標榜する唯識派の両派は並存していました、時代の経過とともに融合化し、やがてどちらも密教化していくことになりました。小乗仏教はいつの時代にあっても、大乗仏教より優勢だったようでしたが、この頃になると、小乗と大乗の区別もあいまいになり、どちらも限りなく密教化していきました。 この仏教の密教化(教説の変容)は、仏教の基本性格である固定のドグマ・信条を立てず、空無我の根本は押さえつつも、後は時代状況、地域性により説き方も変化させるというその宥和的特性が、遠因になっています。 陀羅尼の信仰は、現世利益を願う一般庶民に答えようとする仏教側の歩みでもあったのですが、仏教思想の根幹をも蝕むことになったのです。聖が限りなく俗に近づいていったということになります。密教も仏教の一種なのですが、その表面的な宗教儀式は、護摩を焚くなど火による儀礼の宗教であるヒンドゥー教と何ら変わるものではありません。密教の根本精神を忘れ、この表面的儀礼のみを重んじるようになると、密教はそのままヒンドゥー経に転化することが容易だったのです。 また、仏教が仏壇等の家庭における日常的儀式のなかったことに対して、日常的儀式を重んじるヒンドゥー教は、強力に次の世代へと継承されていくことになりました。 中興の祖としては、釈尊の空の教えを宣揚した龍樹が、中興の祖として位置づけられる立場であったと思うのですが、インド仏教においては、その空の思想を広く宣揚させることができなかった龍樹以降に問題があったと思います。 尚、『テーラーガーター』、『テーリーガーター』は岩波文庫で出されています。

sono-higurashi
質問者

お礼

重ね々々の懇切なご回答には恐縮します。余り素っ気無くては済まない気がして苦し紛れに余計なことを書いてしまったようです。私には勿体無いですが多くの方々が参考にして下さるのを期待しつつ有り難く読ませて頂きました。 ア) 釈尊の無記について、世上、多少の混乱がある理由がよく分かりました。釈尊の臨機応変に加え、評価する側の視点が宗教的実践者として観ているのか、哲学者として観ているのか、これが反映していることが分かりました。 イ) 私見では自然科学の成果は常に近似(値)に過ぎないですから、原子像も刻々変化しているとの認識は正しいのだと思います。 ウ) インドで仏教が頓挫した理由がよく分かりました。将来これに焦点を合わせた読書をするときがあれば、よき予備知識になってくれると思います。 エ) 『テーラーガーター』、『テーリーガーター』は視野に入れておくことにします。本当に読むときが来るものやら来ないやら。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

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  • ゴータマ・ブッダは どう考えてもペテン師である

     《さとり》とは何であるかをめぐって その中身については いっさい説明しない。  この上なき智慧のさとりを得たと宣言しているにもかかわらず とうとう息を引き取るまで その中身については語らなかった。  法華経ではシャーリプトラが 《さとり》とは何かと訊いています。しかもシャーリプトラは 境位がけっして低くありません。それでも ゴータマ氏の答えは こうです。  ▼ ( 一大事因縁――『法華経』) ~~~~~~~   http://fallibilism.web.fc2.com/130.html  シャーリプトラよ、如来には一つの仕事、一つのなすべきこと、すなわち大きな仕事、大きななすべきことがあって、その仕事のために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来があらわれるというその仕事とは、どういうことであるか。  すなわち、それは、如来の知見を衆生たちに得させるという目的で、そのために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちに見せるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちにさとらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見の道に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  これがすなわち、シャーリプトラよ、如来の一つの仕事、一つのなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄であり、(如来が)世間にあらわれるための唯一の目的なのである。  このようにして、実に、シャーリプトラよ、如来の唯一の仕事、唯一のなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄というもの、それを如来は行なわれるのである。  (「第二章 方便品」、松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義訳『法華経I』〔中公文庫〕、中央公論新社、2001年、pp.52-53)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ さとりは 如来でありブッダであり ブッダとはさとりであると言っているようです。  この答えでは おそらくペテン師の語ることでないとすれば 精神錯乱だと言うべきかも知れません。死ぬまで その我執と言うべき自尊心を失くしませんでした。答えられないとは言わなかった。これだけ シャーリプトラが答えを懇願しても ついぞ そのハグラカシに終始した。  のではないだろうか? 反論をもとめます。  ちなみに シャーリプトラの懇願するところは こうです。  ▼ (法華経・方便品) ~~~~~~~~~~~~~  長老シャーリプトラは 三たび世尊に話しかけた。   ――どうか 話してください。なにとぞ その訳(* 《シャ    ーリプトラよ。もう よせ。その訳を説明して 何になろ    う。それは何故かと言えば 神々も世間の人びとも恐    れおののくであろう》とゴータマが答えたので そのワ    ケ)だけでも お話しください。     世尊よ この会衆の中には わたくしのような人間が    幾百人と数多くおります。・・・かれらは 前世において    世尊によって成熟させられておりますので かれらは    世尊の言葉を信じ 歓迎し それを受け容れるであり    ましょう。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これに対する答えが すでに掲げたところであっては じんるいの内 ゴータマだけが人間で そのほかの者は まだ人間以前の状態にあると言ったも同然であるのではないか?  中身を明らかにしないというゴータマ・マジック ここに極まれり。ではないか。  ゆえに とうといのであろうか?  だから 二千年余のあいだわれわれは マボロシを追いかけるイカレポンチでありつづけてもよいのか?

  • ゴータマ・《ブッダ》は なぜペテン師か

     《さとり》とは何であるかをめぐって その中身については いっさい説明しない。  この上なき智慧のさとりを得たと宣言しているにもかかわらず とうとう息を引き取るまで その中身については語らなかった。  法華経ではシャーリプトラが 《さとり》とは何かと訊いています。しかもシャーリプトラは 境位がけっして低くありません。それでも ゴータマ氏の答えは こうです。  ▼ ( 一大事因縁――『法華経』) ~~~~~~~   http://fallibilism.web.fc2.com/130.html  シャーリプトラよ、如来には一つの仕事、一つのなすべきこと、すなわち大きな仕事、大きななすべきことがあって、その仕事のために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来があらわれるというその仕事とは、どういうことであるか。  すなわち、それは、如来の知見を衆生たちに得させるという目的で、そのために正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちに見せるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見を衆生たちにさとらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  如来の知見の道に衆生たちをはいらせるという目的で、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は世間にあらわれるのである。  これがすなわち、シャーリプトラよ、如来の一つの仕事、一つのなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄であり、(如来が)世間にあらわれるための唯一の目的なのである。  このようにして、実に、シャーリプトラよ、如来の唯一の仕事、唯一のなすべき事柄、大きな仕事、大きななすべき事柄というもの、それを如来は行なわれるのである。  (「第二章 方便品」、松濤誠廉・長尾雅人・丹治昭義訳『法華経I』〔中公文庫〕、中央公論新社、2001年、pp.52-53)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問答では おそらくペテン師の語ることでないとすれば 精神錯乱だと言うべきかも知れません。死ぬまで その我執と言うべき自尊心を失くしませんでした。答えられないとは言わなかった。これだけ シャーリプトラが答えを懇願しても ついぞ そのハグラカシに終始した。  のではないだろうか? 反論をもとめます。  ちなみに シャーリプトラの懇願するところは こうです。  ▼ (法華経・方便品) ~~~~~~~~~~~~~  長老シャーリプトラは 三たび世尊に話しかけた。   ――どうか 話してください。なにとぞ その訳(* 《教え    が説かれても理解せず それを捨てよう》とゴータマが    答えたので その《理解せず 捨てる》ことのそのワケ)    だけでも お話しください。     世尊よ この会衆の中には わたくしのような人間が    幾百人と数多くおります。・・・かれらは 前世において    世尊によって成熟させられておりますので かれらは    世尊の言葉を信じ 歓迎し それを受け容れるであり    ましょう。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これに対する答えが すでに掲げたところであっては じんるいの内 ゴータマだけが人間で そのほかの者は まだ人間以前の状態にあると言ったも同然であるのではないか?  中身を明らかにしないというゴータマ・マジック ここに極まれり。ではないか。  ゆえに とうといのであろうか?  だから 二千年余のあいだわれわれは シンキロウを追いかけるイカレポンチでありつづけてもよいのか?

  • ジャイナ教におけるゴータマ・ブッダ

    ジャイナ教ではゴータマ・ブッダや仏教はどのように言及されていますか? 出典も教えてください。

  • やっぱしゴータマ・ブッダは 阿呆である。

     『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980)から次の主題を取り上げ問います。  § 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは アーナンダの不明の所為か?  ▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~    ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まり得るであろう。  と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察することができなくて 尊師に対して《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。  それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)   ~~~~~~~~~~~  【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか?  【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(?)を食べて体調をくづしたとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしているのに このアーナンダの悪魔憑きについては どう振る舞ったのか?  § 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?  ▲(苦か楽か。涅槃?) ~~~~  ・・・尊師はこのように言われた。   ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・     修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・  (中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)  ~~~~~~~~~~~  【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)なる苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》と言っている。  (つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。あるいは 楽が地であって 苦は図であるのだと。逆ではないのだと)。  【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダのあり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》と言っている。  § 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?  ▲(自灯明・法灯明) ~~~~    ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあれ。  (中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)  ~~~~~~  【Q‐5】 《島》を 灯明として解される説を採らないにせよ ここで《たよりとする自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アートマン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?  【Q‐6】 けれども 《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 《自らを頼りとし 〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただそのときその場での《明かり あるいは 光》とするだけではないのか?  つまり 医学などの科学としての光明や思いやり・愛情としての温かみやは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と心において得られるものである。  ゆえに 問題は 《みづからの心の燈心を灯す》ことなのではないか? そうでなければ《自己のチカラ》は かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまる。こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?   みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか?    《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情によって一隅を照らす》こととは 微妙に違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。    これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは 阿呆である。  以上について よろしくご教授ください。

  • ゴータマ・ブッダは 世界一の詐欺師なり。

     1. 《空》を 神と見立てればよいものを あくまで人間の境地だと言い張った。  2. すなわち 《目覚めた(ブッダ)》状態としてであり 言ってみれば《神として》ではなく 《神の場に行き来できる存在》として にんげんなる《われ》にその境地があるのだと言い張った。  3. ブッダ状態としての《さとり》とは ここで あくまで《確率》として存在するというものである。言いかえると その存在についてもその状態についても ついぞ人が確定して認識しえず言葉によって表現しえない場なのだと。  4. 言いかえると ブッダよ あんたのさとりを 示せという疑いや要求に対しては あくまでシラを切る。《表現しえず》と。  さとったのなら 人びとに分かるように説明せよと言われても 沈黙をまもる。  人びとが それはこれこれの状態を言うのではないか? と尋ねた場合には いやいや さとりとは そんな生ぬるい境地などではないと答える。  では どうなのか? という問い返しには だんまりを決め込む。  5. したがって ブッダのさとりは 表現の問題におさまるかとさえ考えられる。  人びとに分かるように説明しえないならば そのさとりは インチキではないか? という問いに対しては いやいや われははるか昔からはるかこの先までブッダである。と言って聞かない。  説明が出来ていないではないか? という問いに対して いやいや われは その現場を取り押さえられても姦淫はしていないとどこまでも言い張るごとく ブッダなりと答える。ブッダはブッダなんだよおーんと。  ――このような《表現およびやり取りの問題》にすべてをおさめようというおそろしく決意の固い宗教家なのではないか?  6. 一方で 人びとの求道の心を引き出し ただし他方では さとりの証明にかんしては 量子を特定して示すことは出来ないというような論理で どこまでも逃げ しかもブッダ論をぶちつづける。      *  この質問は 下記の質問でのやり取りを承けています。   【Q:ブディズムの再生はあるか。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7563932.html  その趣旨説明から 次のくだりをふたたびかかげます。上の    1. 《空》を 神と見立てればよいものを・・・  について説明している箇所ですから。  ☆☆ (信仰の類型) ~~~~~  ( d ) 有神論および無神論それぞれとしての信仰を 類型的にまとめてみます。互いに同等であると見るというものです。  |非経験の場|経験世界の分身|信仰の形(非思考の庭)|  ○ 神道  |かみ|かみがみ|もののあはれを知る;きよらかなおそれ|  ○ ヒンドゥーイズム  |ブラフマン|神々|アートマンなるわれ|  ○ ブディズム  |空|神々|如来蔵(信じないと信じる)|  |マハーワイローチャナ|マンダラ|秘密なるわざ|  |アミターユス|無し|絶対他力;自然法爾|  ○ 聖書  |ヤフヱフ|無し|名を受け容れる|  |キリスト|無し|名を受け容れる|  |アッラーフ|無し|クルアーンに拠る|    ○ 西欧古典古代  |宇宙霊魂;世界霊魂|神々|《わたし》|  ~~~~~~~~~~  7. 有神論(たとえば 梵我一如)をしりぞけ それでも無神論〔という信仰〕の立ち場をも採らないならば その存在論・その人間の境地論は 《非思考の庭》としての信仰と 思考としての経験思想とのあいだで どっちつかずのままに終わる。というおそれが 大きいと思われる。  果たして どうか?